[未校訂]大岡村の災害と村人の対応
大岡村全体の被害状況はつかめない
が、大岡一村三組を構成する宮平組の
被害の[全貌|ぜんぼう]をみよう。
変死人
宮平組
一壱人 与市女房よね
一壱人 同人子未出生男子
一壱人 佐五左衛門子喜代蔵
の書き出しではじまる弘化四年四月の「大地震ニ付変死
人、居家潰・半潰御書上帳」(芦之尻・広田忠夫氏蔵)に
は、宮平組を構成する宮平村・高市場村・北小松尾村な
どの村ごとの変死人、変死馬、皆潰・半潰居家などを松
代藩[出役|しゅつやく]に書き上げている。これを一覧表にするとつぎ
のようになる(表44)。
当時、宮平組の総人数は一二二七人、総家数二六四軒
であったから、このときの災害で、変死人は総人数の二・
三五㌫、皆潰・半潰人別(居家)は、総家数の四〇㌫
にあたる。このことから見て、被害の深刻さが推しはか
られる。このような状態であったから、翌五月「[麁谷|そや]村
山抜け水堪えの場所に掘り割り人足を仰せつかったと
き、大岡四組では、三月の大地震以来耕作手入りなどが
出来ない状態であるから、田方仕付けが終わるまで、掘
り割り普請を延ばしてもらいたい」と願い出ている(「乍
恐以書付奉願候」、宮平・所道典氏蔵)。そして、翌六月
には、宮平組の長百姓常右衛門が積みいれておいた籾二
○俵のうち一八俵が、宮平組の極難渋人ヘ一人一斗の割
合で渡された(「大地震ニ付極難渋人別融通割合控帳」、芦
之尻・広田忠夫氏蔵)。
なお、地震の後遺症ともいうベき死亡事件が、同年十
月宮平組で起きている。
当村久左衛門儀、当三月中大地震にて居家[搖潰|ようかい]、当
時小屋掛け住居致しており、一昨七日家内に母並び
に幼少の子久太郎・助市留守つかまつりおり、久左
衛門儀は所持の田えまかりこし候、然る処、隣家嘉
金次大風にて居家吹き潰れ候趣知らせ呉れ候につき
驚き入り、六ツ時頃帰宅仕り候処、隣家の者多勢打
ちより、屋根切り破り見候処、右久太郎・助市[桁|けた]の
下に相なり圧死候趣、村役元え相届け候に付き、番
人付けおき此の段御訴え申し上げ候、以上(宮平・所
道典氏蔵)。
この史料によると、地震で家が潰れ、そのあとに建て
た掘立て小屋が大風で吹き潰れ、幼児の久太郎と助市が
家の[桁|けた]の下になって圧死したことがわかる。
次に根越組の被害状況をみよう。この組では、被害の
程度を、[極難|ごくなん]・[難渋|なんじゅう]・中難の三級に分け、極難の九一人
表44 宮平組の弘化地震被害状況
村名
変死人
変死馬
皆潰人別
居家
堂
土蔵
物置
寺
社倉蔵
半潰人別
居家
堂
土蔵
物置
寺
社倉蔵
大損人別
居家
土蔵
宮平
三
○
三
二
一
○
○
○
○
七
四
○
二
○
○
一
二〇
二〇
○
高市場
九
二
一〇
六
○
四
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
北小松尾
五
○
一三
一〇
○
二
○
一
○
八
六
○
二
○
○
○
○
○
○
下栗尾
一六
○
一九
一七
一
一
○
○
○
六
四
○
二
○
○
○
一
一
○
慶師
三
○
一七
一二
一
三
○
○
一
九
九
○
○
○
○
○
○
○
○
外花見
二
○
一
一
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
雨池
一
一
六
三
一
二
○
○
○
一
一
○
○
○
○
○
○
○
○
椛内
一
○
一三
四
一
四
三
○
○
○
○
○
○
○
○
○
六
六
○
芦之尻
三
○
一八
一一
○
五
○
二
○
一六
一一
○
五
○
○
○
三
三
○
八重堀
○
○
三
二
○
一
○
○
○
一
一
○
○
○
○
○
○
○
○
上栗尾
○
○
八
五
○
三
○
○
○
四
三
○
一
○
○
○
二
二
○
荻久保
○
○
一
一
○
○
○
○
○
一
一
○
○
○
○
○
○
○
○
今泉
○
○
一
○
一
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
宮之脇
○
○
一
一
○
○
○
○
○
一
一
○
○
○
○
○
○
○
○
内花見
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
一
○
一
浅苅
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
二
二
○
合計
四三
三
一一四
七五
六
二五
三
三
一
五四
四一
○
一二
○
○
一
三五
三四
一
変死人四三人の内訳は、男一九・女二四。他に男子六・女子六人の変死人がある
居屋敷覆は二石九斗五升七合である
「大地震ニ付変死人、居家潰・半潰御書上帳」により作成
には、一人につき一斗九升一合、合計で籾三四俵四斗、
難渋の二六軒には一軒につき三斗、合計で籾一五俵三斗、
中難の一四軒には一軒につき二斗ずつ、郷中の囲い穀か
らそれぞれ支給されている。また、「代村久吉儀は、大荒
れにつき別段割合」として籾一俵を受給している(「大地
震につき囲穀御願下ケ四拾弐俵難渋人別割合帳」、門増・
丸山捷人氏蔵)。
このように、宮平組においても、根越組においても被
害が大きく、松代藩に囲い穀の願い下げや拝借金を申し
でている。藩側では、地震直後から七月まで十数回にわ
たって、幕府に被害報告書などを提出し、また一万両を
拝借している。四月には、参勤交代の六月出府を秋まで
延期することを、五月には犀川両岸と犀川・千曲川の合
流点の落合筋(長野市)の国役御普請を願いでている。領
民に対しては、炊き出しや手当て金・米の下付などをお
こない、約一万六〇〇〇両を出費したという(県史通史
⑥)。
松代藩は、弘化地震の嘉永元年(一八四八)「災後[課業|かぎょう]
[申諭|もうしさとし]大意」を領民に示し、つぎのことを申し諭してい
る。
昨年未曽有の大変にて、御領分一統軽重はこれあり
候得ども、多分災害を請け艱難辛苦いたし候事、言
語に絶し候次第 [御上|おかみ]にも深く御哀憐思し召されて
御手充て筋如何様にも行届き候様取り計らうベき旨
仰せ出され、それぞれお手充てこれ有り候得ども一
人一家に取り候ては、さしたる儀にもこれなくて、
(中略)当年より向う[子年|ねどし]迄、五ケ年の間、前々休日
なるベくだけ減ずベく、また災害軽重にかかわらず
一ケ月一日ずつを御奉公日と定め、一家内より一組
一村と申し合わせ御郡中一致にあいなり、男女とも
一八歳以上六〇歳以下、一日に男は百文、女は三二
文のあたりをもって何品にかぎらず手稼ぎ致し、鳥
目にてなりとも、稼ぎ候品にてなりとも月々上納致
すベく候(後略)(宮平・所道典氏蔵)。
この申し諭しはどこまで領民に浸透したか、疑問では
あるが、藩当局の非常事態宣言ともいうベきものであろ
う。いっぽうで、藩はまた災害救助に手助けした領民を
[褒賞|ほうしよう]し、[撫育策|ぶいくさく]にも配慮していることが、つぎの史料か
らもうかがえる。
大岡宮平組
兵 五 郎
去春、変災の[砌|みぎり]より御救い方御用途の内え差し上げ
方申し立て、これまでの奇特の儀もこれあり、[旁|かたがた]居
屋敷地並びに右続き持ち高の内六斗七升二合の場
所、永高除きこれを申し付く者也、
嘉永元申四月十三日(後略)
(宮平・吉原良雄氏蔵)。