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西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

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項目 内容
ID J2700133
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1847/05/08
和暦 弘化四年三月二十四日
綱文 弘化四年三月二十四日(一八四七・五・八)〔北信・上越〕
書名 〔長野 第一二七号〕S61・5長野郷土史研究会発行
本文
[未校訂]岩倉山の崩壊
桐山繁雄
(前略)
柳久保池
 柳久保の湖水は、東側の山が崩壊して幅約五〇〇m、
高さ七〇m、延長九〇〇mの地滑りで、柳久保沢の深い
谷を高さ四二メートルに堰止めた。深かい谷をV宇形に
入り組んで湖面で、満水には三年かかったという。標高
六三〇m、水深三五m、面積七・三八㏊である。
決潰の跡
 犀川の堰堤が決潰して、二十日間の湛水が一時に大洪
水となって流出した形跡としては、みすず橋の下流の両
岸や河床に数メートルもある巨岩が累々としている。バ
スの窓からよく見える。橋の上流の東側は六、七〇メー
トルの急な崖となっており二か所は沢水によって欠け込
んでいる。全面に砂防の保安林のアカシヤが茂っている。
崖の上部の線が堰堤の高さであったろうと目測される。
西側の花倉地域は山林に覆われて見分けができない。河
流の岸辺は、両岸とも防災のブロックが整然と積まれて
いる。 (上水内郡信州新町竹房)
土尻川流域の被害
松本史
土尻川流域の説明
 土尻川は犀川の支流で、北安曇郡美麻村に源を発し、
上水内郡の小川村・中条村を、西から東に向かって貫流
し、長野市七二会の大安寺で犀川に流れこむ一級河川で
ある。
 土尻川流域附近の地質は、新第三紀の小川層で、小川
層は砂岩と泥岩の互層で、地盤が脆弱のため崩れ易く、
地形が山また山、谷また谷の起伏複雑な、壮年期の谷で
あるので、古来山崩れや地滑りの災害を繰り返えして今
日に至っている。
 虫倉山は、弘化地震の震源地であるといわれ、土尻川
の北方に川と平行に東西に聳えている。
 虫倉山は、小川層が海底にできつつあった頃の、海底
火山で、山体は安山岩系の集塊岩から成っていて、脆く
て崩れ易い。
「夏和村今昔物語」の地震記事
(地震当時、二十一才だった源右衛門が、八十四才の時
に語ったのを松本吉之助が、明治三十年代書いたもの)
弘化四未年(一八四七)三月二十四日夜四ツ時(十時)、
俄然大震は来たり、大地鳴動、戸障子ははずれ、壁落ち、
器物は破れ落ち、煤煙濛々 行燈は揺り消され、まっ暗
闇となり、狼狽なす処を知らず、止むかと思えばまた振
い、終夜止む時なく、転倒しつつ屋外にのがるれば、地
鳴ること遠雷の如く、震動し来たれば人は地に立つを得
ず、壮者といえども転々大豆を転がす如く、木に倚りて
支えんとすれば空しく振り放なされ、樹木は振れて枝地
を掃らい、老木は中途にて折れるに至る。人畜号叫の声、
振天動地、殆んど生きたる心地もなく、九死に一生を得
んと、無我夢中にて彷徨し、四方を顧望すれば炎々天を
焦せる焰、これ震災のため家倒れ、燈火爐火などにより、
すでに火事を起せるなり。漸くにして家に入えり、老幼
を扶けて屋外に避難せしむ。
 その震動の激烈なる、溜に一水を止どめず揺り出した
るを以って知るべし。
 翌二十五日前平(地名)に二戸または三戸づつで、共同
避難小屋を構え、板戸・からかみ・屛風を以って屋根と
し、壁とし、四月八日に至る十数日の仮りの住居とせり。
 当時人はただ震動の恐怖に打たれ、今日ありて明日を
思わず、否、今ありて後を知らざるなり。必要なる衣食
を其の住宅に需むるも曾て戸を鎖すものなし。もし運命
の神の手を離るれば那落の底に沈淪せんのみ。百万の富
ありといえども、また、何の用にかせん。此の際此の時、
人は正道に帰し、廉潔にして心中邪悪の念を止どめず、
各蔵するところの物を以って、珍味佳肴を調理し自らも
口腹の慾を肆(ほしいまま)にし、又隣保と贈答親睦至ら
ざるなし。
 日出ずれば一夜の眠に喜び、日入れば一日の安きに満
足す、誰か又業務に従うものあらんや、相率いて処処の
異変を観覧す。就中、岩倉山崩落、犀川を堰き止むこと
二十一日、新町は一大湖水と化し、上流より流れ来る家
屋に、小舟を棹して放火する様、いと面白しとて、我も
人も行きて見ざるものなかりしとぞ。
 震災の当夜志神組元右衛門の家屋倒潰、作男某なるも
の爐椽を枕し仮寝のまま圧死せらる。又上村源七居宅は
金八の西わきにありしに、上ノ平峯よりシンメイドウ大
地滑りのためシンメイドウ曲り角に押し出さる。家人は
家を破り這い出たるも死傷者なく、且つ器皿破損せざり
しという。二十五日志神組軍蔵の家倒る。其の外半潰も
数多ありしも死傷なかりし。清水尻(地名)中屋わき三・
四尺地裂けソブ泥湧き出す。
 当時道路を通行する人、長き細木を携帯し歩むもの多
し、之れ処々に地割れを生じ往々陥りて生命を失うもの
ありしにより、転ばぬ先きの杖の用心、長き細木に身を
支え陥落の危害を免れんためなりとぞ。
 かかる大災害になるにも係はらず、当年は麦作、非常
に豊牧なりしと云う。
土尻川流域の被害
「虫倉日記」(松代家老河原綱徳の手記)を中心にその
大要を述べる。家数・人口・被害戸数等は別表参照。
私が補った記事は( )でかこむ。
(注、()の補記のある村のみ掲げる)
一、現中条村
10 五十里村 当村は格別の大抜けの場はないけれど
も、一統に抜け下り、麦作など多分に減収になりそうで
ある。殊に同村の内一ノ瀬組は土尻川を全く堰き留めの
場所、漸く掘割り水を通したが、いまだ二段の滝になっ
ているので、居家水入の分もあり、耕地も余程水入にな
って困っている。この滝を掘割れば耕地も出るが、真土
で固めたような場所であるので容場に掘割ることが出来
ないで困っている。
(因みにこの堰き留の場所四月十日まで満水になってい
たが同日昼過ぎ突然押し切り一丈以上の大鉄砲水になっ
て押し出した。幸に岩倉山の堰き留で犀川が干揚ってい
たので被害は少なかった。岩倉山の湛水が一時に流出し
たのはこの三日後の四月十三日であった。)
二、現小川村
2 椿峰村 ここへ至れば地震が軽い様子で埋没した
土尻川流域の被害
村名
戸数
人口
埋没
全潰
半潰
死者
備考
中条村
念仏寺
130
700余
3
85
30
30
梅木
110
600余
6
50
37
70
地京原
130
700余
18
11
5
80余
伊折
170余
500余
17
15
10
90余
奈良井
(125)
(661)
27
9
8
中条
130
600余
87
22
44
青木
(139)
(782)
被害軽し,水入あり
専納
36
(189)
27
6
長井
(166)
(566)
66
20
流失を含む
五十里
(66)
(331)
土尻川堰止,水入あり
小計
(1,202)
(5,629)
44
368
129
342
小川村
和佐尾
80
390
5
18
7
7
椿峯
130
(425)
10
22
立屋組
42
200余
軽し
瀬戸川
(109)
(599)
78
多し
9
古山
100
510余
6
13
10
上野
(92)
(484)
33
11
花尾
82
430余
2
37
40焼失9
竹生
130
680余
6
27
13
13
小根山
200
1,000
7
40
1
久木
(62)
(335)
夏和
(105)
572
(2)
(1)
夏和村今昔物語
小計
(1,132)
(5,625)
19
237
145
92
焼失11
七二会
坪根
61
380
2
35
16
10
残存5,6軒
倉並
44
220余
22
11
6
70
残存5軒
五十平
68
340余
30
6
10
橋詰
160
800余
60
6
40
岩草
150
700余
105
30
5
大安寺
(43)
(251)
被害少し,橋落
笹平
79
390余
70
3
25
瀬脇
88
542
81
3
7
小計
(693)
(3,623)
24
392
67
167
焼失1
・「むしくら日記」による。
・()内の戸数・人口は慶応4年「家数人別五人組御改帳」(「長野」27号)により補う。
・太字は特に被害の多かった村。
家はない。虫倉山より余程遠く平地が多い場所であるが、
麦作もろくに作れないので、麻ばかり作っているが、道
路が欠壊し麻の出荷がうまく行かなくて、上納にも困り
心配している。(名刹高山寺は二王門が倒壊し仁王様の両
手が欠けてしまった。)
10 久木村 平地が少く傾斜地ばかりであるので、田
畑の抜けた処や、道路の滑り落ちた処が多い。(火災二軒
は記録に見えるが他はわからない。古老の口伝に、家の
上方の田の水が震動のたびに障子に音を立てて振り掛っ
たという。)
11 夏和村 (「虫倉日記」に記載がないが、「夏和村今
昔物語」に地滑りが各地にあり、家の倒潰二軒、死者一
名が見える。)
まとめ
 松代藩では潰れた家へ一軒につき金二分、半潰した家
へ金一分など被害状況に応じて手充金を給し、小屋掛け
費用、食料品等、現金、現物を貸付けて急場を凌いでい
る。
 弘化のこの地震は、前代未聞、古今未曾有の最大級の
大地震であったのである。
 「むしくら日記」はなかなか良心的に書いてあるが、
全部の村について書いてあるわけではない。慶応四年「家
数人別五人組御改帳」の戸
数・人口と「むしくら日記」
の戸数・人口はごく近い数字
なので、いちおう「五人組御
改帳」の数字を()に入れて
補入して、現村別の統計を作
ってみた。
 いちばん被害の大きかった
のは七二会地区で、六〇%の
家屋が埋没・全壊し、住民の
四分の一が死んでいる。中条
村がこれに次ぎ、小川村は立屋・久木・夏和など、比較
的被害の少なかった村もあったので、被害パーセントが
低くなっている。
(参考資料)夏和村今昔物語・虫倉日記・松代町史・中
条村誌・小川村誌・七二会村史・上水内郡誌歴史篇。
(上水内郡小川村)
家屋被害%(埋没・全壊・焼失)
死者 %
中条村
34
17
小川村
24
8
七二会
60
24
古間付近の被害その他
柳 沢 国 雄
一、はじめに
 弘化四年(一八四七)春三月廿四日の夜九時過ぎ頃、突
如として起きた大地震は、各所の惨害甚だしかった。南
は松本藩領より、北は越後・越中・富山藩領にまで及ん
だ。この地震及び水害による地元の人々の惨害はいうに
及ばず、その管轄取締り中野代官などの苦慮は尋常のも
のではなかったようである。当時の中野代官高木清左衛
門は、逐一これを幕府勘定所に報告していた。それを見
れば、管轄内の、その日の食にも困る飢民の救助金、宿
場の継立のこと、盗賊取締りのこと、農民の種蒔のこと
から更には、越後から米穀の買入等に至る迄、その心痛
は並々ではなかったようである。この報告書は、その後
八年の安政二乙夘(一八五五)五月山極定國なる者の書き
写したものである。この様な幕府への報告は、それぞれ
の他の代官或は、そこの領主からもなされたであろうこ
とは十分察せられる。
 今、これらの惨状については、次の様に書きしるす。
中野代官またはそれに関係あるものについては、読みに
くい所には読みガナ、返り点を、漢字の不明の所には、
その場所へ○で埋め、( )内はその語の解釈をしておい
た。
二、附近の家の惨状
①柳沢新五郎宅
 これは私の生れた家である。弘化大地震直前までは、
カヤ葺二階建ての家であったが全壊してしまったのであ
る。地震後間もなく建てなおされた。その時の時間と経
済上の理由で、全部新らしく建てる余祐はなかったので、
古い材料を使えるだけ使った。柱は傷のついた所は切り
落して短くするなどして、低く平屋建にしたものだそう
である。また茶の間と座敷との間に立てた[帯戸|おびど]は、四本
とも縦に幾すじものひびが大きく入っていたが、これは
地震の時の傷で、それをそのまま使って、少しでも早く
また経済的になるようにとしたものだと、祖母から聞い
た。祖母は安政元年生れで大地震の時にはまだ生れてい
なかったが、聟とりで家の中のことはよく知っていた。
勿論この家も三十数年前に今のものに建てかえられたの
である。
②吉川直右衛門宅
 これは当時の一里塚の西側にあった家で、南向の家で、
後は一里塚がすれ〳〵にあった平屋建のカヤ葺の家であ
った。大地震は南北にゆれ、この家は北側に潰れたが、
運よく[後|うしろ]の一里塚に寄りかかったので、全壊をまねかれ
半潰ですんだ。家財道具もあまり毀れないですんだが、
一里塚のために全壊しなかったなんてことは全く珍らし
いことであった。家はその後建て直された。今のものは
四十年ばかり前に立てられたものである。
三、北山地域の惨害状況
①大地震の儀に就き御届書
 これは北山に限ったわけではないが、中野陣屋からの
第一報なのでここに掲げておく。これは未三月廿九日高
木清左衛門が御勘定所へ出したものであるが、それによ
ると
「当月廿四日夜[戌|いぬ]中刻頃より[亥|い]上刻之[懸|か]け、大地震に有
之、夫より不絶震動いたし、折々[地|ぢ]震動翌廿五日[卯|うの]中
刻[漸|ようやく]相[鎮|しずまり]候所、地所[裂|さけ]泥水吹出し、潰家人牛馬死失
多、家内不残[死絶|しにたえ]候もの共有之、[怪我人夥敷|けがにんおびただしく]、一村皆
潰家に相成候村々も有之、前代未聞の変事の趣、追々届
出候に付、不取敢手代共差出申候。……」
とあり、なお同日の廿九日には(第二報)、
「当月廿四日夜の大地震異変の始末御届申上候後
[震止不|ふるいやみ]申、[今以|いまもつて]折々[地|ぢ]震動いたし、昼夜拾四五度づつ発
し候儀に有之、少々宛[震立|ふるいたち]、[直間|なおあいだ]には強事も有之候
間、村々共[恐怖|きようふ]いたし、[跡取片付|あととりかたづけ]は勿論農事の心得も無
之、周章[立騒|たちさわぎ]罷在候間、安堵仕候様私並手付手代共村々
廻村、精々[理解|ことわりと]き[聞|きかせ]、耕作[手後|ておく]れに[不相成|あいならざる]様[為致|いたさせ]候。
……」と、その悲惨な状況を訴えている。
②牟礼宿外三ケ宿大地震にて継立差支候趣御届書
 これは直接には四ケ宿が大地震によって継立が出来な
くなったことを書いたのだが、四ケ宿の男女の死数、牛
馬の死んだ数が夥しかったことでその悲惨な状況を物語
っている。
③ 牟礼宿外三ケ宿御救拝借伺書
 この金は四ケ宿の本陣、脇本陣更に旅籠屋伝馬人足、
馬持にまで与えられた手当で、いかに宿場が大切かがわ
かる。
 なおこの金額の利息は次の様である。
金千三百拾七両 御代官所
信州水内郡牟礼官外三ケ宿
大地震相続拝借金
但当未より酉迄三ケ年延翌戌より来ル巳迄弐拾ケ年
賦壱ケ年金六拾五両三歩永百文宛返納の積り
これは年利率五歩で、そう高いものでもない。
(信濃町古間)
牟礼宿
大古間宿
柏原宿
野尻宿
惣家数
一八九
一〇九
二七四
二三三
潰家
一八九
一〇七
一五四
一四三
焼失
一〇



死人
八九人
一六
三八
一七
斃牛
二疋



斃馬
一五疋
一三
一五
一四
惣家数ニ対スル潰家数
一〇〇%
九七
五六
六一
牟礼宿
大古間宿
柏原宿
野尻宿
総額
三六〇両二歩
二四七両二歩
三一二両二歩
三九六両二歩
本陣一軒
四〇両
―四〇両
四〇両
脇本陣一軒
二五両
―二五両
二五両
旅籠屋
一〇八両九軒
六〇両
五軒
六〇両五軒
一四四両一二軒
一軒一二両宛
伝馬人足二五人
七五両
七五両
七五両
七五両
一人三両宛
馬持二五軒
一一二両二歩
一一二両二歩
一一二両二歩
一一二両二歩
一軒四両二歩宛
越後大谷集落の惨状
池田一男
 善光寺大地震と呼ばれた弘化の大地震の被害は、信州
上田より越後の高田に及ぶ延長百十余粁で震度は関東大
地震以上の激震であったと言われているが、私はこゝに
越後の小寒村大谷集落の被害惨状を公表し、先年発生し
た地附山崩落以上のものであったことを御理解いただき
たいものと思っている。
 大谷集落は中頸城郡妙高村の一小字で信越線関山駅の
南方三㎞、国道十八号線妙高大橋の東方一・五㎞、信濃
町境より北方四・五㎞、関川(下流は荒川)右岸の小峡谷
を五〇〇mほどはいった現在二十五戸の小集落である。
 この集落は弘化の大地震で殆んど全滅に瀕したとの伝
承があるのは承知してはいたが、今回本誌で「弘化大地
震特集」をされるとのことで、先般実地調査をした。幸
いなことには地震供養塚のある大谷聞称寺の住職の御厚
意により後に詳述する法名掛軸まで御提示下されたので
予期以上の結果を得たことと信じている。
一、地震供養塚
 大谷集落の聞称寺境内、本堂前の村道に面して一坪程
で高さ七~八尺の石積上に自然石に刻まれた写真のよう
な石碑である。
 正面中央には「南無阿弥陀仏」と行書体で大きく深彫
りされ、称名の右側には灋號釈(法号釈)と刻まれ、その
下方に弘化の大地震による死者の法名が九名毎に縦書で
六行に細字で刻まれているが法名は次のとおりである。
 奥善・妙善・奥存・妙♠・奥玄・妙宗・浄恩・浄智・
妙浄。善啓・妙禅・妙泉・開至・妙元・称上・開清・行
道・鳳上。誓音・妙願・妙散。誓順・秀音・妙秀・秀山・
秀玄・秀端。妙宇・専山・妙専・教山・妙教・教音・妙
喜・善祐・妙祐。信浄・妙浄・宗信・妙音・祐源・了雲・
妙了・了♠・了歓。妙雲・了智・了意・妙工・栄順・向
道・圓道・妙願・妙心。
称名の左側には、「地震供養塚、弘化四未(丁未)丁三月廿四日、
当寺三世釈大焰(花押)、書之」とあり、碑の下の二枚の
地震供養塚(大谷聞称寺)
台上の正面には、「発記(起)村中」とあり、碑の右上側面には
「于時明治二己巳三月建之」と刻まれている。従ってこ
の供養塚は地震による被災の二十三年後に大谷集落の
人々の総意で建立されたことが明らかである。
 しかしながら後にふれるが、法名掛軸裏面に記載され
ている死者数は六十名であるのに、この供養塚に刻まれ
ている五十四名は聞称寺の門徒で地震発生直後に圧死し
た者の法名であり、地震のために後日に死亡した二名と
願末寺の門徒三名と端泉寺門徒一名は除かれているもの
と思われる。なお五十四名の法名中に同一の法名がある
が一時に五十余人の死者に法名を付けた当時辛うじて難
をのがれた是法住職の周章狼狽ぶりや混乱状態が想像さ
れるのである。
 これらの犠牲者は集落の東側の蛇崩山の崩壊と地滑り
で家屋共々土砂に呑みこまれて圧死した人々であるが、
次右衛門の七十三才になる母は「善光寺ニテ死」とある
から善光寺の御開帳に参詣して善光寺町で不慮の死を遂
げたのであろう。供養塚の揮毫者の三世大焰は開基是法
の孫にあたる人である。開基の是法はこの大災害に遭遇
し辛うじて寺と共に助かった人であるが、死者の百ケ日
の法要を執行するにあたり「法名掛軸」を遺している。
注目すべきことは法名掛軸の裏面に作成の由緒と戸毎に
死者の実名・続柄・年齢が記載されているので、当時の
実状を知るためには重要な資料なので次に述べることと
する。
二、法名掛軸
 法名掛軸は写真のように上段には法名釈と大書され、
その下部に五十四名の法名が列記されている。供養塚の
法名と異なる点は女人には法名に尼○○とあり二十五人
を数えることができる。掛軸裏面上部には大地震発生の
日時と山崩れによる人家と住民の即死とこの死者に対し
て百ケ日の法要を執行するにあたってこの法名掛軸を作
成したことを述べているが原文は次のとおりである。
「除戸 證念寺 第二十世 栄遵(花押)
大谷 聞称寺 開基 是法
弘化四未年三月廿四日戌刻大地震而字蛇崩山崩出、右
家数人数供(共)土中相成足(即)死ス。六月四日百ケ日之節、一幅
訊聞称寺於御堂読経。」
 これにより證念寺を招いて百ケ日の法要を執行するに
際して作成されたものであることが知られるのである。
法名掛軸表面
 また、この由緒書の下段に被災家屋一軒毎に朱丸を戸
主名上につけて続柄・名前・年齢が次のように記され聞
称寺の門徒外の者を末尾に記載している。
○利右衛門歳 四十才 女房三十五才 倅常吉 六才
妹とん 十才 栄七 五才 すと千 一才
○茂左衛門 五十八才 同磐蔵女房四十六才 娘さい
九才
○伝蔵孫米蔵 二才 娘チミ 十三才 きと 二十一才
○久左衛門 五十七才 女房 五十三才 倅房吉 二十
三才 平吉 十四才 すの 二十四才 孫熊吉 四才
○与三右衛門 二十四才 妹ミと 十六才 藤吉 十四
才 母 五十三才
○権六 三十一才 弟七蔵 十七才
○四郎左衛門 五十三 女房 四十一才 倅松五郎 二
十二才 [団|タン]次郎 十七才 当才
○次右衛門母 七十三才 善光寺ニテ死
○伝蔵 五十一才 女房 四十一才 倅伝吉 九ッ 妹
ぬよ 六才 米吉 四才 きい 二才
○権助 五十五才 女房 四十二才 倅豊治 二十二才
女房 二十一才末川十五才吉蔵十才 文蔵
二才
○源右衛門 五十五才 女房 三十七才 倅長吉 二十
四才 弟豊吉 二十二才 妹ちよ 弟直吉 十六才

○小左衛門 四十六才 女房 四十一才 娘仲 七才
次三郎 八才
○金助 女房 二十三才 子ふし 四才
○願末寺門徒 源右衛門 五十三才 倅仁右衛門 二十
七才女房二十一才
○高田端泉寺門徒 ろよ 四十九才
 右記のように裏面に記載された死亡者数は合計六十名
となり、開称寺門徒外の四名を除いても五十六名となり
表面の法名五十四名と合致せぬが、合致しない二名は当
日の即死者でなく救出はされたが後日にこの災害が原因
で死亡した者と、或は昔話として伝えられている炭焼小
屋で死亡し亡者になって桶海道をさまよったと伝えられ
る「えみさ」が加えられているのかも知れない。
 いずれにせよ、大地震と蛇崩山の崩落・地滑によって
死者の出た家は十五軒であるが当時は全戸で二十三軒あ
ったと言われているので、六五%の住宅が倒潰して地下
に埋没し圧死者を出したことが知られるのである。
 死者総数六十名中、男性が三十一人、女性が二十八人、
性別不詳の当才児一名だが、集落の伝承によると、深夜
の突然の地震と山崩れで被災者の救助などより自分のこ
とが精一杯であり、以後七日七晩揺れ動き土石流に脅か
され、六~七軒を残しただけで一家全滅の家が多く、土
中より掘り出された遺体も六体だけで他は土中深く埋ま
ったまゝであると言われている。聞称寺は幸いにも小高
い場所にあったので埋没は免かれたが、山崩れの土石流
は庭先まで(現在の桶海へ通じる道路へりで供養塚の前)
押しよせ、辛うじて難を免かれたのだと言われている。
 弘化の大地震で全滅に瀕した大谷集落も以来逐次復興
されて現在は二十五戸となり平穏な農村生活が営まれて
いるし、毎年四月廿四日には村中総出で追悼法要が行な
われている。この地底に五十余人の遺体が眠っているこ
とは大谷集落以外の村内の人々には全く忘れ去られてい
るのが現状であるが、「災害は忘れたころにやって来る」
と言われた寺田寅彦博士の名言が地附山の地滑りと併せ
て考えさせられるのである。
 おわりにあたり資料を御提示された聞称寺の御住職に
感謝申し上げるとともに、地底に眠って居られる五十余
名の犠牲者の御冥福を心から御祈りする次第である。
(上水内郡信濃町熊坂)
安曇郡池田地方の被害例
中澤清壽
 善光寺大地震は、直距離約四十キロメートルも隔てた
池田町方面へも、大きな被害を与え、多数の倒潰家屋や
圧死者を出した記録が、沢山残されている。
 特に目を引くものは、当時の大庄屋山崎家に伝えられ
たもので、池田組三十三ケ村の被害状況を克明に画いた、
畳三畳程にも及ぶ大絵図である。
 村々の倒潰半潰の家々が、一戸一戸色分けして画かれ、
山地の崩落や地辷りの状況が、生々しく精密に写されて
おり、その被害の甚大さに驚かされる。
 この絵図に依って見ると震災の度合は、平地部に於て
少く、山間地に於ては比較にならぬ程の大災害を被って
いる。
 山地部に位置する峯方新田村の袖山、袖沢、登波離橋
付近を初め、北山村法道地域等、各々十数町歩に及ぶ大
崩落や大地辷りが活写され全、半潰の人家は、無数と言
っていい程である。
 岩倉山の崩落による犀川の川止めは、宇留賀村山清路
の上流迄潭水された状態が画かれている。
 他の文書記録から、○○村(私の村)についてみれば『弘
化四年丁未三月廿四日夜四ツ時戌亥の方より大地震にて
所々家損じ』、とし、全壊五戸、半壊八戸、死者一人と記
録されている。これから推せば更に重軽傷者も多数あっ
た事と想像される。僅々十数戸の小集落に於ける大惨事
と言うべきである。
 この大災害と余震に驚愕した村人達は、諸所の社寺へ
鎮静の祈願をすると共に、急拠常陸国鹿嶋神社より、御
分霊を勧請して祭祀を行った。この時の鹿嶋社の小祠が
今も各村々に祭られている。
 崩落、地辷りの他に大きな地割れの痕が、近傍標高九
百の山嶺に二ケ所見られる。
 一ケ所は巾四m、深さ二m余、長さ約一〇〇mあり、
他の一ケ所は、最大巾六m、深さ三m、長さ、二〇〇m
に及んでおり、形成された小さな二重山稜は正に、山は
裂けの形容詞そのものである。
 百四十年も経った現在、しかも震源地から遠隔の地に
於ても尚、種々な形でその傷痕を残しているのを見るに
つけ、大地震の恐ろしさが、更めて身近なものに感じら
れてくる。 (北安曇郡池田町広津)
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 別巻
ページ 218
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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