[未校訂]善光寺大地震
稲荷山に於ける善光寺地震
宮澤芳己
(前略)
稲荷山村全村居家・裏家住居合計六百七十世帯(人別改
帳による世帯)の内
三百七十軒、その外土蔵・物置・雪隠(便所)倒潰焼失
百二十七軒、その外土蔵・物置・雪隠倒潰
居家十一軒無難
長雲寺本堂・庫裏・愛染堂・金比羅堂倒潰
極楽寺本堂・庫裏・土蔵・物置半潰
善慶院薬師堂・観音堂倒潰
神官児玉近江居家・物置半潰
又倒潰直後に下八日町(本八日町)西側中程より出火延
焼、間もなく十一時頃荒町西側中程より出火延焼、次の
二十五日朝七時頃下八日町東側中程より出火延焼、続い
て八時頃上八日町南端より出火、南風に煽られて町屋敷
地籍ほとんど焼失した。中町東裏の土蔵僅か残したのみ
であった。(現在町屋敷の道路改修工事、住宅建設工事等
では地面より五十㎝位の深さは何所を掘っても焼跡の赤
い層が見える)田圃で隔てた元町と、新田町(治田町)は倒
潰だけで火災は免かれた。
地震一ケ月後、四月二十一日上田藩奉行所へ提出した
人別改帳によると、総人数千六百十二人中焼死・圧死者
は村の人百八十二人(筆者の曽祖父の妹圧死一人含む)、
旅の人百二十一人、馬三匹の犠牲であった。
また断層による陥没と思われる
一、滝沢土手二十間の内幅一尺四五寸□割、
一、溜池上池四方大わり
一、かに沢土手九十間右は三尺程窪地に相成
一、佐野沢御普請所伊勢往来脇
境無石垣抜 長五間半横三尺欠込
長九尺横五尺欠込
伊勢宮下 長二間横三尺欠込
長二間横三尺欠込
(中略)
前書の通今般地震にて変地に相成場所取調べ恐れ乍ら
御届申上奉候
と田畑至る所に地割れが生じ四・五mに亘って一m位
の深さで陥没し、滝沢蟹沢の土手も同じく数十m位の長
さで所々地割れ深さ一m位の陥没があり、治田池も四方
に地割れが生じたと藩奉行所へ報告している。
上田藩では直に二十五日奉行犬飼顕蔵を出張させて、
近郷中原(更埴市八幡中原)和田与惣右衛門(現オバステ
正宗)より白米四俵、杭瀬下村(更埴市杭瀬下)色部儀太夫
より白米二十俵を用立たせ、炊出しを行い、続いて奉行
三村伝左衛門・代官青木三八郎を出張させ二十九日上田
表より白米三十俵、郷蔵米を取敢えず一人当り毎日米三
合宛救米として配給させた。
四月十二日に村へ通達があり
一、午年殘米金納御用捨
一、未年上納七分通御用捨
一、金参百両御拝借金(これは村役人全員連印で)三年間
据置、四年目から毎年霜月拾両宛三十年間に返す
一、金百両灰片付け料、此の割合は瓦屋根土蔵作りの者
一間に付(間口一メートル八十センチ)八匁二分宛、草
屋根の者一間に付七匁宛、裏家の者一軒に付三匁七分
五厘宛
一、金三拾両、この割合は一人に付銀十匁五分八厘宛、
死者の有る者へは別に下される
一、金二拾両、農具料として焼失者へ、この割合は一人
に付銀五匁五分八厘宛
復興作業として五月二十七日より延人員二百九十五人
の人足を動員して、蟹沢・滝沢・佐野川の陥没、地割等
の復旧を六月七日に完成させて、銀七十一貫八十三匁を
藩より載いている。
漸く人心も平常に戻ったと思われ、先ず住居の再建で
ある。五月十二日には、
「去る三月二十四日夜俄の大地震にて村方居家土蔵物
置等迄残らず震潰、其の上出火に相成り、焼失仕候に付、
御憐愍を以て夫々御手当頂載有難く存じ奉候。然る所
追々居家相建度存奉り候へ共(中略)御林の内ぶんどうと
申所の松立木六千本切取仕り銘々普請仕度願上奉候。」
と願書も見え、更に、近辺に材木が不足しているらしく、
(上略)「岩村田御領小根山村より居家材木買入并に小諸
様御払木引受候に付、御城下通千曲川筋筏下げに仕度候、
尤も筏下りにて川下仕候はヾ運賃も格別に下値に相成」
(下略)と遠く佐久方面より筏で運んだらしい。
被災し苦難の底から家業の再興をと願い、
(上略)「御公儀様より頂戟仕罷有候、酒造株御鑑札(中略)
酒造蔵(中略)類焼仕候、其の節右御鑑札焼失仕付、(中略)
御書替頂載仕候(下略)」未五月十五日 稲荷山村酒造人
南沢彦次郎
と酒造家業を再開しようと意気ごみが見える。その後七
月に上田藩では旅人の遺骨を湯の崎地籍の墓地に埋葬し
[篆|てん]字で「弘化丁未地震稲荷山駅横死人冢碑」を題字に地
震並びに被害の状況犠牲者の冥福を四百七十四字を刻ん
だ石碑を建て慰霊法要を行っている。
再起不能とも思われた大震災に稲荷山住人は幕末頃ま
でには完全に復興し、その際焼失した祇園の天王神輿・
四神を二百両余を投じて慶応元年(一八六五)に再調製す
る程の、ゆとりも出来て北信地方有数の商業地に発展し
た。
今度の阪神大震災も復興の槌音が高く響き、交通・電
気・水道・ガス等徐々に復旧されつつある。
阪神大震災の犠牲者の冥福を祈ると共に被災者の皆様
には、これからの復興繁栄に希望をもって頑張ってもら
いたい。
追記
更級郡稲荷山村(現更埴市稲荷山)は元和八年(一六二
二)真田信之が松代移封、替って小諸より入部の上田藩主
仙石忠政の河中島(更級郡)飛地領一万石の内の領地とな
り、続いて宝永三年(一七〇六)入替った松平忠周の更級
郡飛地領内として幕末まで上田藩領であった。
(更埴市稲荷山元町)
母の父は土の中より、弟は風呂桶諸共下の沢へ
―大地震吾が家の出来事―
峯村司
我が家では三月二十四日の夜、女共は繕い物など終っ
て「サア寝ろさ」と言った瞬間、突然大地が裂けたかと
思う様な大地震、グラ〳〵と来たかと思ったらメリ〳〵大音響と共に家が潰れた。大人達は取る物も取らず外へ
飛び出した。この時赤ん坊のワサがツグラ(藁で編んだ子
供を入れるもの)に入って奥の間に入って居たが、ワサを
抱き出す事が出来なかった。その夜は余震が三十九回も
あって半潰れの家の中へ入る事が出来なかった。夜が明
けて半潰れの吾が家を眺めると、ワサの泣き声が聞えて
来た。ワサが生きてるぞと、家族みんなで、屋根をムシ
って赤ん坊のワサをツグラ共に抱き出した。このワサが
隣村へ嫁に行き、九十才余の天寿を完うした。私共兄弟
もその時のツグラの中で育った。
吾が家は半潰れであった。旧宅の仏壇の向拝柱が二本
共折れた。今も折れた向拝柱が針金でシバッて有る。又
座敷の襖の縁が所々折れたのを私の子供の時迄使って居
た。
母の家の大地震
私の母は度々大地震の事をよく話した。私の母は旧小
田切村の山田中組から嫁に来た、山田中村は弘化の大地
震で最も被害の大きかった部落である。母の兄は重作と
言い、弟は吉蔵と言い、重作は寝床に入り吉蔵は軒下で
風呂に入って居るとグラ〳〵メリ〳〵と物凄い音響と共
に家は一丁斗り下の沢の中へ埋まった。重作が気が附い
た時は土の中に首だけ出して埋って居た。右手は大きな
石で左手が自由が利いた。左手で体の回りの土を一生懸
命除けた。右手の自由が利いたのでやっとの思いで這い
出した。その時右腕の着物の袖がちぎれてしまった。そ
してやっとの思いで元の屋敷跡へ来て見ると、女共はど
うした事か無事であった。弟の吉蔵はのこ〳〵と素裸の
振金で登って来た。「お前そんな格好でどうした」と聞い
たら。「俺は軒下で風呂に入って居たら風呂桶諸共西の沢
へ転んで行ったのさ」と大笑いだった。でも家族一同怪
我がなく幸いだった。あとで西の沢へ行って見たら風呂
桶も無事でしたので、担ぎ上げて長い間使って居た。重
作は片袖の[単衣|ひとえ]で秋迄通した。重作と吉蔵は一生懸命働
いて金をためた。その重作の長女が私の母です。母の親
父の片袖の話しは度々耳にたこの出来る程ききました。
因に「虫倉日記」には、
「山田中村、家数百軒程、人数五百人程、押埋三十九
軒、潰十三軒、半潰十軒、死失五十人の旨 兼而聞及候
より目に余候抜崩にて耕地凡三分一は残り不申候」(下
略)
又私共村の坪根村に就ては、
「家数六十一軒、人数三百八十人、押埋二軒、潰三十
五軒、半潰十六軒、死失十人程有之候。」(下略)吾が家も
半潰の内の一軒でした。
明治24年10月28日の濃尾震災に
義援金を送ったのに対する感謝
状、「褒め置き候事」とは、ずい
ぶん威張った表現。
私共七二会村にては倉並村が最も被害が大きく、「家数
四十一軒、人数二百二十人程、押埋二十二軒、潰十一軒、
半潰六軒、死失六十人。此村は山上より一時に大岩等押
懸り候と見え、居家其外跡形も無御座、山田中村等ハ順
押に押下し候へ共、此処は大いに様子致相違候(下略)」
この村程被害の大きな村は外にはありません。
私の少年の頃は度々地震がありました。夜中雉子がケ
ンケンと鳴くと、それ地震だと祖母や母が言いました。
予言があたりました。村の山には雉子が沢山居ました。
某書にも夜中雉子が鳴き野猿が騒ぐ時は地震の前触と知
れとありました。 (長野市安茂里小市)
善光寺大地震の善後策
―第二次災害を砂山石山に分けて整理―
大室昂
大正時代の初期に更級郡の郡長であった津崎尚武氏が
中心になって編纂され、大正三年に発刊された「上中堰
沿革史」の記録を参考に当時の状況を考えてみる。
一般に善光寺地震とも言われているこの地震は、弘化
四年(一八四七年)三月二十四日の亥刻(午後十時)に始ま
り暁に達し、その震動は数日に及んだ。そして現在の信
更地区の山崩れにより水篠橋付近で犀川が土石によりせ
き止められ、二十日間停水してしまった。そのため、信
州新町からその上流の山清路付近まで大湖水となった。
この大水が一度に流れ出すとは予想しなかったようだ
が、四月十三日の午後四時頃、頑強な湛えも遂に水の勢
いにより一度に流れ出し、濁流は川中島平に殺到し、二
里四方の平原は漫々たる一大湖水と化してしまい、この
地区の被害は甚大であった。
上中下の三堰と他の堰の揚水口は勿論、用水路や道路
も一面の土石や流木で埋まり濁水は流れ去っても、付近
一帯は河原になってしまった。そして犀川の本流は北方
の低所を流れる状態となった。
これに対し松代藩は善後策として、幕府に対し二万両
の借受けを請願したが、財政上の問題で一万両だけ貸下
しの許可があった。松代藩は普請役佐藤奥三郎を筆頭に
数名の者を出向させ、直ちに復旧作業にとりかかった。
当時の後始末の状況を古老からの言い伝えで聞いた内
容を思い出して記述する。
川中島平の人達で自分の住宅や田畑に被害を受けた人
が多かったので、親類等から援助を得て、その取片づけ
や復旧作業に当る者も多かった。しかし松代藩の普請役
の指示により用水路や道路の復旧に当らなければならな
かった。
この復旧作業には近村から多くの人が呼び出され、犀
口・小松原・四ツ屋・今里・氷鉋付近の最も被害の多い
地域に集められた。資材、用具、食料は藩で用意したが、
個人持もあった。
普請役の指示は、第一に飲料水の確保であった。共和
村の中尾山から流れ出す水と、小松原山の東側の麓から
の湧水が貴重なものとして、炊き出しや地域の人達に使
用された。これと同時に道路の確保が重要であった。
道路は一面の土石や流木等で通行困難な所が多かった
が、主として六尺幅の通路を開き、馬や荷車の通行を容
易ならしめるようにした。
第二に用水堰が埋められたので、この土石や流木を排
除して一日も早く水を通し生活用水は勿論、稲作の灌漑
用水を確保することであった。上中下の三堰や小山堰を
中心にその支流の小さい堰についても、各地域ごとに分
担によって仕事が進められた。
この時排除した土石を一定の場所に積み上げるように
計画された。その内容は小石、大石、砂と、それぞれ分
類して、砂山、石山というように整理された。これは、
これ等の山を耕作するときのことを考慮し、また後世の
人が砂や石を利用するとき便利であるようにしたもので
あると言われている。
当時、後始末の作業は重労働であり、自分の家や田畑
に被害を受けた者は、その整理のためにも極めて多忙で
あったと思われるが、後世の人のため、砂山、石山に分
けて整理したことは有難いことであり、古老は当時の人
に感謝していると言われ、昔の人の努力について語り草
になっている。この砂山、石山は小松原・犀口・四ツ屋・
今里にかけて全部で約二十数個あったと伝えられてい
た。現代でもあれは砂山、これは小石の多い山、または
玉石の多い山と言って、それぞれ適切に利用されてきた。
近年になって機械力により、これ等の山の砂や石が他
に利用され平地になっている所が多くなってきている。
(長野市川中島町今里六九五)
妻科村の死者
飯島豊
弘化四年三月二十四日四ツ時(午後十時頃)突如善光寺
界隈を中心に発生した大地震は、正に驚天動地そのもの
で、被害区域は、北は越後高田から南は上田に及び、延
長二十八里、幅八里程であり、そのうち最も激しかった
のは北は飯山より南西は稲荷山に至る間、及び更級、水
内両郡の西山地方で、延長十二~三里、幅二里半、面積
三十方里であったとされる。その物的・人的・その他の
被害は甚大で、総被害の計数については、諸種の文献資
料、松代藩より幕府への損害報告の内容も区々で、実数
を知ることは中々困難だが、一応手許にある資料より見
ると次のようである。(死者の計数の錯誤は原文のまま)
一、弘化四丁未ノ年の大地震
善光寺ノ次第并
眞田信濃守様御届書寫
飯島宜尹(私の本家九代目)
註、尚当主厚は十二代
善光寺圧死人覺
十四人 外衆、三十一人 中衆、一人 妻戸、四十四人
大本願・大勧進、共家來、しめ(〆)九十二人あり
二百七十九人 大門町、百四十人 櫻小路、二十九人 後
町、二百十五人 西町、九十六人 東町、二百六人 横
町、八十二人 新町、八十八人 岩石町、十三人 横沢
町、七人 平柴村、五人 七瀬村、十五人 箱清水村、
しめ、千二百七十九人とされるが、妻科村の記入はない。
外千二十九人、寺中并宿坊止宿旅人、但し右之外、家内
不殘死失のものも有之ニ付止宿旅人生死不相知。
となっていて、前記各町村の被害(死亡者)が甚大であっ
たためか、妻科村の被害は軽いとされている。然しこれ
は比較対照上の考えで、単一妻科村の被害だけ考えると
決して軽微ではなかった。
二、年(弘化乙巳年正月)代日記帳 妻科区 小林平助の見聞記から抜萃す
ると、
「妻科神社(諏訪大明神本社)ゆりつぶれたり、同右夜灯
皆ころび、おきたるもの一ツもなし、同虚空蔵堂ゆりつ
ぶれたり、善光寺焼けたる寺は、東之門寛慶寺、東町康
楽寺、地震にてつぶれたる寺ハ、腰村菩提院、湯谷和合
昌禅寺、押鐘盛傳寺、田町普済寺、腰村加茂神社ゆりつ
ぶれたり、焼けずつぶれず残る寺は、西町西方寺、後町
正法寺、同十念寺、坂の島の寮、石堂西光寺(かるかや堂)、
善光寺如来三門、御堂、大勧進同門、万善堂、経堂(経蔵)、
西之門天王社すこしヅツのこりける」とある。(かなの
地名・寺名は漢字になおす)
又「大地震のすごきこと言語に越えたり、地震の通り
道、地五~六寸口あき、地震のあるきたる通り、所々に
五~六尺もたかく土浮き(中略)、妻科においても、上ノ
原に小屋がけす(仮小屋に居住して、日夜戦々恟々と過ご
したらしい)」
前記に妻科村虚空蔵堂がゆりつぶれたりと記録にある
が、当時同庵には越後国龍雲寺の隠居大了老僧が居住し
ていたが、無事息災で、一方潰れたとの記録が無い、中
央院如法寺(宝塚通から長野商業高校南への通路傍らに
在った修験寺)で、一名死亡していることが、次の証拠か
ら明白である。
中央院如法寺の旧祉の南方、北面した墓石に表面戒名、
「心相大喜清信士 契岩理調清信女」右側面に、「俗名羽
場幸四郎忠政墓」左側面に、「弘化四年三月二十四日夜四
ツ時大地震 行年六十六歳 一転亡命 天保十二年丑八
月□日 山内(比叡山)横川大慈院法印大僧都広賢 識」
が刻まれているからである。
三、「長野市史」(大正十四年十月二十八日、長野市役所
編集、発行)にこんな記録がある。
(前略) 妻科地籍内にて潰家八十三軒、死者二十五人(男
十二人、女十三人)この計数は妻科村、畑中、新田、石堂
等を含めたるものらし(本村、即ち今の妻科町にて五人死
亡したるも、善光寺にて三人、山中にて一人、真に村内
にて死せしは一人、と徳武氏の記録にありとされる。こ
れから見るとこの一名が前記中央院の羽場幸四郎だった
ろう。
尚前記、「善光寺ノ次第并眞田信濃守様御届書寫」と共
存の「大地震ニテ虚空蔵山抜落、御届絵図之寫」は、大
正十三年九月一日~三日の間、信濃毎日新聞社が「震災
資料展覧会」と銘打って、同社講堂に於いて開催された
展覧会に、私の本家飯島幸雄が出陳して評価を得たもの
の一部である。 (長野市妻科町一八一)
柳新田村被害届
滝沢三夫
柳新田村(飯山市常盤柳新田)が中野代官所へ提出した
善光寺大地震および洪水の被害届です。
戸数三十五戸
皆潰居宅 二十九軒
半潰居宅 六軒
半潰土蔵 二棟
皆潰物置 四ケ所
半潰物置 二十一ケ所
皆潰雪隠 二十七ケ所
半潰雪隠 八ケ所
惣家内百八十一人内 男九十三人
女八十八人
内 即死 四人内 男 二人
女 二人
怪俄 六人
馬 即死 一疋
皆潰 神社 一ケ所
但怪俄片輪ニ相成候ものも御座候得共追々には農業家
業等可相成様子に御座候。
一、当四月大満水之節、雑穀水冠ニ相成候者も多分御座
候、其外諸道具・藁・萱・古材木等多く押流し銘々一
同難渋仕候。
右者当三月廿四日夜、大地震ニ付潰家其外巨細取調候
所、書面之通相違無御座候。以上
弘化四未年六月 (拝借金は四月)
信州水内郡 柳新田村
名主 喜兵衛
組頭 作左衛門
百姓代 喜左衛門
高木清左衛門様
中野
御役所
其他、御拝借金請願書並拝借金割合覚、
御拝借金返納割賦帳、等略す
(飯山市常盤柳新田)
善光寺大地震の爪跡
「柳久保池」を再び訪れる
青柳四郎
三十年程前信州新町信級の「柳久保池」の[公魚|わかさぎ]の養魚
組合の方に養魚場を案内していただきました。
この池は善光寺大地震の折、池の東上十米程高い所に
あるあの杉の木の所からここまで滑って、池尻の土堤の
土全部が沢の向う岸迄届く地滑りでできた池(写真②)
で、地滑り端末の田中稲実さんの家(写真③現当主賢さん
の留守宅)はあの杉の木の所から一夜の内にここ迄滑っ
て現存しているのだとお聞きしました。
いつの日かこの大惨事について調べたいと思って、い
くらかの資料を集めましたが、今まで過ぎてしまいまし
た。この度の大地震で「柳久保池」を思い返して調べて
みました。
鹿谷村
凝灰岩の山又山に囲まれた信級は[鹿谷|かや]村といわれ、江
戸時代は松代藩領、高四百八十三石の村です。
村は中央は峠といわれる高地で二分され、二筋の急瀬
の沢のような川が西東に流れています。南の溪谷には
[当信|だしな]川がながれ、北の溪谷には柳久保川が流れています。
生活面から見れば相当住みにくい土地だと思われま
す。
南の本村の方には延喜式の当信神社があり、古代から
人の住み着いた村です。なお当信川の対岸[左右|そう]は日原村
の分地で、松本藩領です。狭い土地が行政の上でも複雑
です。
「柳久保池」のある北側は外村といわれ、村の中央の
峠は村の生活や文化に大きな支障があったと思われま
す。
安庭村の湛留が堤を押し切って、四月十三日の善光寺
平の大洪水の後、鹿谷村から山崩・湛水が幾箇所もある
との届出がありました。
「むし倉日記」五月朔日の記には
鹿谷の湛場見分のこと(口語訳)
鹿谷の見分は、岩下革(鉄砲頭百六十石、四月十三日安
庭村の犀川湛場崩壊直前に水乗して、間もなく湛場の切
れることを報告した士)、付き添いには原田糺(徒士目付
三十三石、地震で自家が潰れ、背中に大怪我をした士)の
二人に、現地に出張中の恩田頼母家老から言い付けがあ
りました。
鹿谷の湛場は誠に深山幽谷で、一歩通の所であるが、
この辺は取り分け山抜けが多く、山又山を廻って漸く行
く所もあるという。そこには高山幽谷が抜け覆って、そ
の峰は家のぐしのような所もある。この所を通らなけれ
ば行くことができない。ほかに道がないのでこの所を行
こうと相談して、糺が険しい崖に馬乗になって平気で書
留をしたという。強気の革も糺の平気には及ばないと語
ったとのことである。二人ともこの難場を十分に見分し
てもどった。
藩から幕府へ九度目の御届
この見分を基にして藩は九度目の御届を出していま
す。鹿谷村分地高地川(当信川は源が美麻村高地で
す)荒間沢(柳久保の下流に新間組があります)湛留
御届(「むし倉日記」にもほとんど同文があります。―
口語訳)
一、私領分更級郡鹿谷村高地川と申す山沢、去月廿四日
夜大地震以後度々強く震れ、山々抜け崩れ、沢水は数ケ
所湛留しました。その為湛水上は交通に差し支えるので、
早速切開くことを申し付けました。鹿谷村の山抜け崩れ
は、岩下組の大はんミ・伝行山の西山手・松本領の[左右|そう]
です。
掘り割り方を申し付けてましたが、如何様の水害に及
ぶか計り知れません。心痛いことです。
鹿谷村の分地柳久保の荒間沢では柳久保村の耕地を押
し出し湛留しました。細流ですが、数十日を経、右の場
所が一時に押し破れれば、容易ならざる災害に成るべき
旨を訴え出ましたから、早速見分を差し出しました。委
細は追って申し上げます。この度はまず御届け申し上げ
ます。
五月七日 真田信濃守
「むし倉日記」にはつづいて、二人共この難場を首尾
よく通って彼の柳久保の湛留場所を十分見分して戻っ
た。
柳久保の湛場は大きな石も含まれて、(写真⑦)切り通
① 2万5千分の1、「柳久保池」地図
しは中々困難だと記し、この後追々柳久保の湛場の掘り
割りも少しはできたけれども、切り通すことは困難だと
記されています。
まとめ
柳久保の湛留の「柳久保池」(写真⑧)は標高六百二十
五米、面積十三町歩、深さ最深五十米余。その池は現在
まで残り、公魚・鯉の養殖池として利用されました。輸
送や運搬による鮮度落ちなどに困難な点がありました。
その為に現在は鯉の釣池として利用されるにとどまって
います。
弘化四年七月九日松代藩から幕府への被害の御届けに
は、関係する諸藩・諸領の死亡者七千八名とあり、うち
山抜け、土中埋没死骸相見えずという者が、弐百弐人と
あります。
恐らく「柳久保の池」の地滑りによる死亡者の大部分
は、この弐百弐人の中に含まれていると思われます。
情報・交通・通信。援護など不十分な時代に数十日も
社会から孤立し、さらにこの大災害の後を生き抜いてき
② 雪の柳久保池から天狗山の西日照
山925mを望む
③ 柳久保地崩末端に其の儘現存する
田中賢氏の家
⑦ 田中賢氏の家の下の道から地崩の
側面が見られる
た鹿谷村の人々は、どんな思いでこの中を切り抜けたの
でしょう。合掌して帰りました。
(長野市吉田3―26―23)
川中島原村の被害
柳沢隆雄
原村(長野市川中島町原)は旧北国街道添いにあり、丹
波島橋から凡そ四キロを北の境とし、それから南へ一キ
ロの布施高田を境とし、西は中堰(昔の原堰)を境として
中堰から取水の八本の支堰に囲まれた扇状地で、これら
の支堰は何れも東福寺村で千曲川に流入している。
「更級郡誌」には弘化大地震による郡内各村の被害状
況が誌してある。原村の被害は「女一人流死」又震水害
による免租高の項には「荒地ナシ・或は悉皆荒トナル」
とある。
しかし、村内の古文書等によると、相当の被害があっ
た。
原村の被害
一庫裏潰 但し、泥水壹尺程入
一鐘堂潰
右者三月廿四日夜大地震之上、尚又泥水入流失仕候、
此段申上候。以上
原村
蓮香寺
寺社御奉行所
一居屋泥水入、但し泥水五尺程入
右者當十三日犀川満水にて一圓に相成泥水入共別条無
御座此段御届申上候(以下略)
流れてまたかえって来た稲荷社
世茂井神社境内に木造の稲荷社(五十糎程の角、高サ八
十糎程)がある。先年修理した折に二枚の木札があった。
⑧ 柳久保池養鯉組合の水上げ
昭和40年頃の柳久保池養鯉風景
(信州新町町史より)
その一枚には、
「大地しん三月二十四日夜五ツ時、大水四月十三日夜六
ツ時位よりこの宮岩野村までながれ行」。又他の一枚には
「弘化四未年七月二十五日上町大工酒井春吉之を直す」
とあった。
地震の時松代藩から借りた金の返納延期願
御歎願奉申上候箇條書
信州更級郡 原村
文久二戌年十一月
(一部抜粋)
一(上略)去ル拾六ケ年前弘化四丁未三月廿四早夜、大
地震にて居家潰大破、死人怪我人等有之、打續震動止
事無御座當惑罷有候處、山中字岩倉山と申高山犀川
江崩落、川向江欠附関留、数日之大水四月十三日一時
ニ押出し、川中島大凡水中ニ罷成候。其節當村江も大
水押来り、前書奉申上候隣村ゟ窪地ニ御座候故、居
家江高サ七八尺程水押入淀み居、家財農具等不残押流
し、田畑者厚砂入ニ罷成、建家之儀者前条申上候潰大
破之上、水入ニ罷成候ニ付、容易に住居難相成、忙(ママ)然
と仕罷在候折柄、家財農具等の御手充金、領主ゟ頂戴
仕、厚砂入高貳百六拾石御引高被成下、其上、三ケ年
を限開発仕様被仰付、尚又外百廿石暫之間、開発御手
充として御引被成下、右にて銘々力を得、居宅手入、
小屋懸等仕、開発出来仕候ニ付、砂入御引高貳百六拾
石御引上に罷成候處、右之節、諸入用、雑費夥敷、高
借財罷成、且地生劣候に付年々不熟難澁之次第申立仕、
右開発手充百貳拾石之儀者今以頂戴罷仕候程之難澁村
方に御座候。
一去ル弘化四丁未大地震災にて平地之田畑高低に罷成候
處、當村之儀前条奉申上候通リ窪地に御座候故、畑
少にて田方のみ多く御座候處、田水引入候ても水行渡
り兼候ニ付、御領主江奉歎願、金貳百両拾ケ年限返上
御約束にて御拝借仕、陸直し仕候得共、皆出来に相成
兼候内、十ケ年之御年季明に罷成候得共、右御拝借金
返納手段無御座、當惑難澁至極に奉存候。
以上の通り原村も大きな被害を受けその影響は後年ま
で続いた。 (長野市川中島町原六八一)
戸部村の被害
林武夫
弘化四年三月二十四日夜、俄に大地震并同年四月十三
日夕七ツ時地震にて犀川筋押埋流水留り場所一度に押出
し、地震と水害で大被害を受けました。
虚空蔵山くずれ十七ケ村押流され癧川二ケ所止まる。
岩倉五十丁押出し(幅九丁川止め)、藤倉三十丁押出し
(幅三十間川止め)、いずれも高サ水面より七八丈、数ケ
村水中に、又水上七里におよび湖水と成り、一万戸被害
受ける。又水内郡小市村土砂くずれあり犀川へ八十間押
出し川幅わずか七間と成る。
丹波島宿渡舟場干揚り人馬の往来も無し、又二十九日
にも大きい余震が有り打續く地震鳴動との事でかなりの
余震があった事と思われる。
川中島一帯苗代の水も呑水も無し、(戸部村本町大井戸
も一時出なかった。)四月十三日夕七ツ時大鳴動して犀川
留水一度に押出す、川中島数十ケ村一圓に水留押出し千
曲川に流込む。松代御城まで押上げ千曲川水面より二丈
ばかり増し、川中島は勿論高井水内郡までも水害を受け
翌朝引き始め流家溺死人数多し。
戸部村の被害
潰家 十六(住宅五、酒蔵二、常泉寺寮、物置八)
半潰 三(住宅、法蔵寺本堂、伊勢御師旅家)
死人 二(善光寺参詣泊りで焼死、男一人女一人)
床上浸水 二尺(流家流人無し)
外に用水堰并田畑大被害。
(長野市川中島町御厨一八二三)
小諸近辺での記録
小山新
私の曽祖父、三代小山新十郎義近の兄、二代新十郎信
義(文政三年(一八二〇)九月十~嘉永二年(一八四九)七
月廿六日)が書残した、弘化三丙午年十月朔日起筆、弘化
四丁未年七月晦日迄の「諸事日記」(添付の写真)がござい
ます。
その中に善光寺大地震の記録があり抄録しました。
弘化四年二月四日、夜五ツ半頃、近年稀成地震。同五
日、昼前、昼後少ヅヽ地震有之。同廿日朝少晴、終日雨
降、夜四ツ過地震強き方。ここ迄予震かと思われる前触
れの記録あり。
同三月廿四日夜、四ツ時上刻、古今無之大地震、夫ゟ
打綴き、明六ツ迄、大ゆり拾四五度、小ゆり、ゆり返し
共、合三十余度有之。
承書、当町「油小」ニ而店なげし上、壁落、店代呂物数
多疵土蔵かべわれ出来かた〴〵挽毛多し、花燈ころぶ。
「瀬戸屋五兵衛」店代呂物大疵。「林与兵衛宅」天井落、
軍太夫婦下ニ成漸出ル。「湊屋又兵衛宅」天井落。「中屋
山忠」廻し縁壱本落ル并ニ大神宮様御祓落。「篠伝」勝手
戸棚落、徳利等大疵。「正家墓所」昌畚様石碑ころび候。
「篠伝墓」石垣崩石碑数多たをる。「沢ふち」笠石三分一
程かけ落の由。同夜、馬瀬口ニ而なげし之上かべ落候而
小児死去之由、加州様継立人足、帰り懸ニ噺候、右人足
唐松ニ而大ゆれは明候由。「松屋和作方」代呂物疵付候由。
「塩野真楽寺」三重塔たをれ候由、風説。「穀清」持屋敷、
花燈たをれ、ねだ折る。「御城内」切通辺石垣崩候由。同
廿五日朝小ゆり六、七度。同廿六日、度々震候。同廿七
日数度震候。同廿八日度々。林市郎右衛門忰、辰郎先達
而越後国高田辺迄商用有之、善光寺開帳旁ニ而参り候所
帰り掛善光寺ニ泊リ居候而、廿四日夜髪結ニ参リ正五ツ
頃銭払候所江大地震ニ而はり落下ニ成候所運[能|よく]はだかニ
成漸々出候由ニ而今夜四ツ頃帰候。同廿九日暁七ツ時頃
大ゆり打続き七度明六ツ迄ニ震候。弐三度目頃町中表江
飛出し居候同日度々震。同夜は町中大躰裏庭等江細木ニ
而小屋ヲ拵ひ女小供は不殘夫々泊り候。四月三日夜、地
震有之。同四日夜、三度ゆらぐ、同五日曇る、朝弐度大
ゆるぎ、昼弐度同じ。同十五日夜、地震弐度有之。同廿
二日夕七ツ半頃、第五番位之大地震、田中宿辺ははい候
程の老人迄も外江出候由、朝かべ落ち割等数多故、朝夫
ゟ上田之方は格別。五月廿六日夜明前、地震、当月始て
位ニ強し、上田辺は強き由、人「篠伝」へ来り噺し承る。
同廿七日、三月廿四日夜、真楽寺石の九重の塔頭欠落る、
但しくさりニ而四方つなぎ置候所きれちり候由承る。六
月廿五日暮六ツ頃地震壱度夜四ツ頃壱度。同廿六日暮頃
地震壱度。七月朔日夜九ツ頃地震壱度有之。同十二日今
晩地震壱度。同十五日夜地震四ツ頃。同廿日今晩八ツ頃
大地震第五番目。同晦日小原千曲川河原江湯湧出ルニ付、
先十六日頃ゟ引続き諸人遊ニ行、多き時千人余、少ニ而
も数百人参る、右ニ付菱野湯さむしき由。(地震の為に湧
出?)
以後は弘化四丁未十二月晦日迄の日記に余震記録とし
て「八月大ゆり六、中ゆり一、小ゆり八。九月小一。十
月大一、中四、小四。十一月大四、小八。十二月小四。」
が記戴されて居ります。
以上でございますがいろ〳〵と小諸の大塚清人さんの
助力を得て纏めあげ参考迄に応募して見ました。
(177東京都練馬区上石神井一―一一―二)
小山新十郎の「諸事日記」
弘化地震と善光寺大勧進門前横沢町住民
鬼頭康之
四月三日ゟ十日迄
一人足拾人宛差出し、人数〆八拾人
但し、壱人前米弐合五勺扶持被下置、其外御屋敷ニ而
三度御食事被下置、
四月十一日ゟ十六日迄出払い
一人足弐拾人宛、人数百拾壱人半
但し、御屋敷ニ而三度食事被下、内昼飯御膳、朝晩は
御かけ被下置、人足壱人ニ而鳥目(1)十疋被下置、其上
七ツ時(2)御門ニ而御酒被下置、
四月十七日、休日
四月十八日ゟ廿六日迄
一人足弐拾人宛差出し、此人足〆百八拾人
四月廿七日ゟ五月朔日迄
一人足弐拾人宛差出し、此人足〆八拾人
五月二日ゟ三日迄両日
一人足弐拾人、此分松代行
四月十五日、御触到来
一家作出来候手元之者ハ無遠慮普請可致事
一田畑等ニ小屋懸致候者共、銘々屋敷地相片付、小屋懸
可致事、
一焼銭ニ而無差支通用可致事
四月十五日 役所
横沢町
庄屋代中
右、御触書到来ニ付、依惣五郎、仲七両名ニ而触出候事、
明十七日、社倉(3)御蔵前ニ而御助成米御払御座候、尤壱人
前米弐合宛壱合代銭八文宛持参可致候趣被仰渡候間、
組下江右御触書之趣、不洩様相触可被申聞候、右両
人名前ニ而触出し、
十七日、御役所ニ而紙札(4)被下、十組江割渡、
同日九ツ時より両人御蔵前罷出、夫々取斗、
立会仲七惣五郎
三月廿五日、書上人数・軒数分
〆軒数 弐百八拾八軒
〆人数 八百六拾弐人
十八日、休日
十九日、社倉御蔵前ニ而御助成米御払御座候、
出会仲七惣五郎
同日、堤雄之進(5)殿ゟ差紙(6)到来、名前
御門前三七組
七兵衛
富七
〃 金次郎組
長吉
右之者共、御屋敷人足ニ小供共差出し候段、不埒之旨御
叱リ御座候、
同日、荒町(7)続きゟ当町迄壱ト筋ニ通筋相成候趣、被仰
出候ニ付、御案内仕リ御見分、
南照院(8)様
御院代(9)様
今井(10)様
中野(11)様
右ニ付、組頭一同罷出、依而此旨同日組下江一同申付置、
廿日、天気
覚
御門前(12)横沢町
一焼家棟数 弐拾九間
一□(潰カ)家同断 八十九間
一半□(潰カ)同断 拾三間
一立家同断 三十壱間
右之通リ御座候、以上、
弘化四未年四月
庄屋代惣五郎
同断仲七
御役所
右之趣書上、同日持参致ス、同日従御役所御差紙到来、
仲七・惣五郎右両人御用之趣ニ而致参上候処、組頭一
同召連罷出候様被仰渡候ニ付、一同致参上候処 御
前様(13)より組頭銘々金五拾疋宛 御目録被下置、依翌廿一
日一同御請ニ罷出候、(後略)
(「弘化四年丁未年四月三日ゟ至同年六月六日迄大地震御屋敷御普請人足諸事
控」、徳島大学所管『高橋家文書(14)』)
註(1) 銭のこと。鳥目一〇文を一匹としたが、のち二五文を一
匹とかぞえた。
(2) 午後四時ごろ
(3) 飢饉にそなえて各町村にもうけられた倉で、米・麦等を貯
蔵しておいた・横沢町にもおかれたものと思われる。
(4) 善光寺札をさすのか、いまひとつはっきりしない。もし善
光寺札をさすとするなら、それは天保年間につくられ、幕
末まで通用したという(「善光寺町の繁栄と札遣いの起こ
り」八十二文化財団『地域文化』二三号)。
(5) 善光寺大勧進代官の配下の一人か。堤一族には堤見昌ら
医師が多い。
(6) 奉行所等が人民を召換するために発した公文書
(7) 桜小路(桜枝町)の一小字
(8) 大勧進に所属する天台宗衆徒の院の一つか。しかし、この
名称の院は現存していない。いずれにしろ、当時大勧進を
代表する院であったと思われる。
(9) 大勧進副住持か、南照院の補佐役か。
(10) 大勧進代官今井磯右衛門。当時は、九代磯右衛門
(11) 大勧進手代中野治兵衛
(12) 横沢町は、大勧進に直属する町で 大勧進御門前といわ
れた。
(13) 大勧進住持(貫主)をさすか、当時は、二七世楞加院権僧正
である。
(14) 横沢町高橋家文書(P82「徳島大学保管高橋家文書につい
て」参照)。
(中略)
この史料は、その横沢町の住人高橋仲七が弘化四年四
月三日から六月六日までの横沢町と大勧進とのかかわり
を、「大地震御屋敷御普請人足諸事控」として記録したも
のである。
①まず、御屋敷=大勧進の普請に動員された横沢町住
民をみよう。
期日
期間
人足数
延人足数
備考
四月三日~一〇日
八(日)
一〇(人)
八〇(人)
〃一一日~一六日
六
二〇
一一一・五
〃一八日~二六日
九
二〇
一八〇
〃二七日~五月一日
四
二〇
八〇
五月二日~三日
二
二〇
四〇
松代へ
合計
二九
九〇
四九一・五
右の表からわかるように、四月三日からの一月間に、
横沢町住民子供を含めて男女あわせて八六二人のうち、
延べにして四九一・五人が人足要員となった。横沢町住
民の約五割強が対象となる計算である。さらに、子供・
老人層などをさしひいた労働力人口を分母とすると、動
員の対象となった割合は五割を大きく上まわることにな
るであろう。
②つぎに四月十五日の触についてみると、横沢町内で
家を焼失したり、全潰したりして居住不可能な場合、自
力で家作のできる人は遠慮なく普請しろ。また、焼けだ
されたりして田畑等に小屋がけをした人は、各々屋敷地
をかたづけ、そこに居住の小屋をつくれ。震災後の復興
を促進する内容のものである。なお、今回の火事で焼け
た銭の通用も周知徹底させている。
③四月十七と十九の両日は、住民に社倉蔵のまえで助
成米を支給することを触れている。封建領主の施行米と
もいうべき性格のものであろうか、その財源として、各
人に一合につき銭八文の割合で一六文拠出するよう指示
している。また、十七日には役所にて紙札を一〇組の五
人組へ割り渡すことも触れている。この紙札を善光寺札
と考えてよいかどうか断定はできないが、今後の課題と
したい。
④十九日のもう一つの触は、度々の人足動員命令に、
子供をだした三軒に「不埒」であるとして「お叱り」を
仰せ付けているが、前述の①との関連でみてゆきたい。
⑤また、十九日の触に、「荒町続きより横沢町まで壱ト
筋ニ通リ筋」がなるよう仰せ出しているが、現今でいう
道路の区画整理であろうか。
⑥四月二十日の記事から、筆者をも含めて、いままで
横沢町は「寺領の町家は、横沢町をのこしてほとんど焼
け」(『県史』通史編⑥)等の記述に一部訂正を加える必要
が生じた。
以上のことから、封建領主大勧進と門前横沢町との密
接な関係が判明する貴重な史料であることがわかる。
(長野市若里北市三三一―二)
更級郡桑原村の被害
関舜
一、更級郡桑原村の被害の従来の記録について
桑原村は、善光寺平の西縁山地にあり、本郷組・小坂
組・元町組・佐野組の四集落よりなり、弘化四年当時、
戸数二四二戸、人口九六一人となっていた。小坂元町は
[篠|シノ]山山麗にて南斜面、佐野は[聖|ヒジリ]山地の下部にて、横手山
山腹にて東斜面でけわしく、本郷は佐野川扇状地のやや
平坦な集落で、すべて裾花凝灰岩層、地味は悪く、村の
西の高地より流れ下る四つの沢と、小坂の裏の山より流
れる山沢は、水質悪く荒れ川である。松代藩領のなかで
も恵まれない小村であって、明治政府ののちまでも、つ
ねに貧寒村に終始していた。
そのためか、弘化の大地震の被害の状況についても無
視されていて、松代藩の河原綱徳の、「むし倉日記」(弘
化四年版)にも記述はない。つゞいて、「更級郡誌」(大正
三年発行)についても、各町村にわたる状況は、未だ精密
欠くとも、大畧別表の如しという「弘化災害表」にも桑
原村の被害の状況は記されていない。「桑原村誌」(昭和
四十二年発行)によると、大地震によって、桑原村一里山
の水車屋唐沢佐治郎宅が全潰して、本人は圧死、佐野薬
師の池の土手が二十二間にわたって、キレツが生じたと
記されている。今回発行の「更埴市史」についても、こ
れを引用して、このほか他に被害の記載はない。桑原村
は、八幡村、稲荷山村、塩崎村に接しているが、岩盤上
に点在している集落であって、従来より地震の影響は特
別に記載するほど受けていないという説が定着してい
て、いずれの資料にも、特に掘り下げて報道されること
はなかったことと考えられる。
二、今回発見された桑原村の被害の状況について
戦前より、我が家の書庫には、天保、弘化、嘉永年代
の資料が若干ずつ、一とまとめに、整理されてあったが、
その中に善光寺大地震の記録が含まれていることは、私
の父等も私もまことに、不勉強というか、不注意という
か、今日まで詳しく点検する努力をおこたっていた為か、
「むし倉日記」はともかくとして、「更級郡誌」へも、「桑
原村誌」へも、今回の「更埴市史」にもついに、集録さ
れることなく、今日に至っていたことを、深く反省して
いるところである。
弘化年代の桑原村の名主として、この大地震に対応し
ていた、関新右エ門長昭(一八一二~一八六二)は藩の定
められた形式によって、書上帳として、弘化四年の四月、
六月と郡奉行宛に提出していたことであり、松代藩では、
桑原村の被害の状況を当然把握していたことは疑いのな
いことである。しかし、名主関新右エ門の報告に手違い
があった為か、あるいは、郡奉行の手元にて、いずれへ
か、まぎれ込んでしまった為か、あるいは見のがされて
しまったか、あるいは、そののち、松代藩の真田文書の
大部分は、国立史料館へ寄贈されたというから、その中
にあるか、まだ松代の真田家のお蔵の中にあって調査さ
れてない中にあるのか。いずれにせよ、従来よりの先入
観から桑原村の被害は特別にとり上げることなく、名主
関新右エ門の報告した被害の記録は、今日まで目にふれ
ることはなかった。
本年二月、本会の企画によって、地震特集の原稿募集
が発表されていたので、改めて、弘化年代の古い資料を
点検してみた。やはり桑原村の北方山麓にも、西方山腹
にも、特に大きな被害はなかったが、詳細にわたる被害
の記録が判読できたので、更めて発表しておきたいと思
います。
以下は、名主新右エ門が書きとめておいた、
一、附善光寺大地震居家等潰破損御書上帳控二冊
一、弘化四年桑原村自普請帳控
一、弘化四年書上桑原村山沢除自普請帳控
一、桑原村竜洞院口 上覚下書
一、その他一枚紙の手元控数枚
等より、その大要を書ぬいたものであります。その被害
の特色をみると、
JRの篠ノ井線沿、中央道長野線沿で、佐野高架橋より
稲荷山トンネルまでの巾三〇〇m~六〇〇mの帯状の地
帯において、数多くの被害が発生している。建物につい
ては三十六棟で、岩盤の上の集落であるから、稲荷山村
のような千曲川の形成したはんらん原の上の集落とは異
り、件数も程度も軽微であったし、火災の発生の記録も
見当らない。居住人口も戸数も少なかったので、住宅の
被害は十六戸、死者二名とあるを見ても当然少なかった
ことと考えられる。
しかし建物の被害に比較して、北方山麓、西方山腹よ
り流れ下っている、山沢(小河川)と、それより取水して
いる用水堰の被害は特別に多い。被害をまぬがれたらし
いのは佐野川だけであった。用水堰については、そのほ
とんどが抜け落ちて、土砂が覆い、通水をさまたげた。
これらは呑用水、家庭用水、防火用水となっているので、
長期間生活に不自由を来たしたもののようである。また
山沢、田用水堰はこの地域の特色である、赤ベトが田・
畑に流入していて、その年の田植の時までには、修復し
なければならなかったので、当然郡役普請にたよるべき
ところ、山沢まで、桑原村の名主のもとで自普請を急が
なければならなかったのではないかと考えられる。本稿
では、その郡役普請、自普請(全額村の負担ではないが)
の状況については、資料がとゝのっていないので、單に
被害の状況の発表にとどめることとなった。資料として
は多分に価値のないことであって、止むを得ないことで
ある。
つけ加へておきたいことは、松代藩八代真田幸貫公は、
大地震のあと四年後の嘉永四年四月には、第二回目の藩
内巡視を行っていることで、四月某日、桑原本郷の上組
より出発して、田原坂を上り、頂上で、ふり返って桑原
を眺め、大田原をご通行(このころ太田原は別村)大花見
の池より大岡村を経由して、長野の芋井まで、歩を進め
て調査を行っている(平成六年発行、「善行寺地震と山崩」
県地質ボーリング協会版より)。そのとき隨行した藩の絵
師、青木雪卿による六十七枚のスケッチが真田宝物館に
所蔵されていて、貴重である。
なお、その後の松代藩の力強い復旧工事の実施のほか
に、明治新政府は、松代県(のち長野県)の要請にこたえ
て、牛伏寺川砂防工事につゞいて、早急に佐野川すじの
砂防工事を明治十二年に着工している。このことは、弘
化の大地震及その前々年聖山を中心とした大豪雨によ
る、桑原村を含む、更級郡の西山部に発生している大き
な被害の状況を、とり上げていることであって、興味深
い。
以上、あわせて、ご参考になれば、ありがたいことで
す。
「弘化四年四月書上
附大地震居家等潰破損御書上帳
二十四日上 桑原村」
一、居家潰 元町 栄之蒸
一、物置潰 同人
一、灰家潰 同人
一、居家潰 元町 源吉
一、灰家潰 同人
一、物置潰 元町 栄之蒸借地多門
一、灰家潰 同人
一、居家潰 小坂 忠右エ門
一、物置潰 同人
一、物置潰 小坂 伊兵エ別家佐十郎
一、土蔵半潰 同人
一、水車屋潰 一稲荷山分地江出張里山 七郎兵衛
一、居家潰 同人
一、物置半潰 小坂 平蔵借地民八
一、居家半潰 小坂 忠右エ門別家利兵衛
一、居家半潰 佐野 本郷居住伊左エ門
一、居家半潰 本郷 久五郎
一、居家半潰 本郷 新之蒸
一、居家半潰 本郷 三太夫
一、居家半潰 本郷 太七
一、居家半潰 本郷 平左エ門別家平五郎
一、居家半潰 本郷 専松
一、居家半潰 本郷新助帳下 喜作
一、居家半潰 佐野 金三郎別家角之助
一、居家半潰 佐野 のぶ
一、居家半潰 佐野 とみ
一、土蔵半潰 本郷 藤蔵
一、土蔵半潰 本郷 佐左エ門
一、堂半潰 小坂 長福寺持薬師堂
一、物置潰 佐野 関新右エ門借地幸松
一、物置潰 本郷 要之助
一、用水堰覆破損
呑用水 荏沢堰 蟹沢堰 滝沢堰 柳沢堰
柄木沢堰 猪田堰 横沢堰 駒清水堰 返
町堰 東光寺堰
一、山抜五ケ所 一、山抜押掘高八石程本新田 一、往
来道五百間程 一、往来橋三ケ所 一、作場往来橋五ケ
所
右〆
居家潰四家 居家半潰十二家 土蔵半潰三ケ所 物
置潰六ケ所 灰家潰三ケ所 堂半潰一ケ所 物置半
潰一ケ所 水車屋潰一軒 往来道五百間程 往来橋
三ケ所 作場往来橋五ケ所 用水堰十一ケ所 山抜
五ケ所 山抜押掘高八石程本新田
右之通去月二十四日夜ニ而潰破損明細改御書上仕候。以
上。
右之外焼失流木水入等無之御座候。以上
弘化四年四月
名主関新右エ門
組頭 伊兵衛
組頭 栄左エ門
長百姓 弥兵衛
郡御役所
御代官所
(別紙)
右之外附大地震変死人有之
一、元町 栄之蒸借地居住 多門
圧死
一、稲荷山分地出張
一里山水車屋居住 七郎兵衛
圧死
(別紙)
右之外左之通被害有之
一、御本陣 御居間向半潰 柳沢量平
一、庫裡半潰 天台宗和合院胎蔵寺領
本郷 胎蔵寺
一、木部屋潰 本郷 浄光庵
一、木部屋潰 本郷 関新右エ門
一、居家敷地伊切 本郷 佐忠治
一、木部屋潰 本郷 弥兵衛
注1 灰家とは、ゴミを焼いて肥料用の灰を作り、貯え
ておく小屋(灰部屋)。
2 木部屋とは、薪(マキ・ボヤ)などを貯えておく小
屋。
3 敷地伊切とは、敷地地面のひゞわれ、地われと考
えたい。塩崎村史には(切れ)とあり。
(別紙)
桑原村竜洞院破損
口上 覚写
一、惣門外 石坦崩 練塀十間潰 一、庫裡台所 割目
出来 柱傾斜 一、土 蔵 三ケ所 屋根瓦落下 壁破
損 一、木部屋 一ケ所 屋根瓦落下 壁破損 一、雪
隠 一ケ所 屋根瓦落下 壁破損 一、大 門 桝形石
垣崩 一、山林内 二ケ所 山崩 岩石落下 一、山林
内 松五十本程損傷 右去月二十四日夜大地震ニ而破損
仕候得共寺内死人怪我人等無御座候。
此段御届申上候也。以上
弘化四年四月 桑原村
竜洞院
岡島 荘蔵殿
山寺源太夫殿
竹村 金吾殿
磯田 音門殿
ほか、自普請の堰二十四カ所、自普請の沢四カ所が別
冊で書き上げられている。 (更埴市桑原一五五四)
善光寺大地震
屋代地区を中心に
半田照彦
一 はじめに
善光寺大地震について、更埴市屋代に「大地震日より
以後日々変動日記」(村山源五右衛門記)と同市森に「徒
然日記附地震大変録」(中条唯七郎記)が残されている。
村山源五右衛門(一八一〇~一八七二)は屋代用水堰の堰守を松代
藩より仰せ付けられ勤めていた。また俳諧にも勝れ近隣
にもその名を知られた文化人であり、新町組の名主も勤
めた。
中条唯七郎(一七七三~一八四九)は和漢の学を納め、算術・謡曲な
どに勝れ、多くの門弟が彼の教えを受けた。また森村の
名主を勤め村政にその手腕を発揮した。今回はこの二人
の日記を中心に当地域の地震についてのあらますを記し
てみたい。
二 地震発生とその直後
「三月二十四日(太陽暦五月八日)
今日天気よし夜に入り四ツ頃大地震あり。中河原病死
勇左衛門忰申し候は、その地震以前戌亥の方より東南の
隅へ白き気あると思いしが、そのあと直に地震あり、地
震翌日まで昼夜間断なく、その心地船に乗り候様なり。
皆人宅中にこれあることなり兼ね、皆庭に出候て終夜こ
れあり候なり。
諸方共により潰れ候て、そのまま爐中より火起り忽火事
となって、諸方に火事これあること。今夕北の目あたり
西へかけて、山中辺へ火事村々あり、右目あたりより東
北隅へかかって、これも火事多分にこれあり候。」と記さ
れている。地震発生直前に発光現象があり直に震度七
~六級の強い地震が発生したことがわかる。
矢代村では、潰れた家は、七兵衛・嶋蔵など八軒、大
いたみの家は祖左衛門・七郎兵衛の家二軒、「その外いた
み申候家あげて数え難し」とある。また即死人は、茂左
衛門・嶋蔵妻子など九人と記されている。
二十四日の夜から二十五日の朝まで、間断なく余震が
続き、八〇回とも一〇〇回ともいわれ、村人は「船に乗
りたる心地にて、皆々仰天顔にて庭にてばかりこれあり
候」と記されている。
三 被害状況の見分
「森村にても、中村、中河原辺は、わけて強く、井戸
水等も黒く濁り(中略)中村辺は居宅へ障り、いため候家
多く、物置・雪隠・土蔵など壁に割目など候所多し。元
治の新築の酒蔵が三尺もかしがり、作り付け物は、みな
砕けて倒れ候、」とあり、更に元治の西側の道路はひびわ
れ、そこから水が吹きだしている。それが中河原部落の
「おどり堂」の橋まで続いている。
三月二十六日、興正寺山へ地割れがあるというので見
分けに行ったところ、卵塔の石碑が全部倒れ、六地蔵は
皆倒れその上大門の石垣なども北側へ崩れ落ちていた。
四月四日に再度行って見ると、鐘楼をはじめ積石も崩
れ、誠に危険な状態であった。
そのほか、和尚の隠宅の石垣もみな崩れ、庫裏などの
地形が崩れ、誠に危く見えた。二十六日に参詣したとき
はさ程ではなかったのにこの大崩れには、びっくりした
と記している。
四月五日八幡宮参詣旁々稲荷山の被害を見分する。そ
の様子を左のように記している。 「我等今日八幡参詣、
当年初参りなり。志川船渡し稲荷の宿、下外れ東少し上
まで下る。渡り候て稲荷山へ入り見渡し候処、其焼跡た
だ零々として、焼瓦のたをれ、壁の焼破れ、その諸道具
の焼損じ物、誠に算を乱したる始末柄なり。何れも二十
五日より数ひても今五日にて十一日なり。
此に皆その侭にて焼乱れしままなり、実に目も当てら
れぬ始末なり。左程の事に始末する人もなくただ焼[形|なり]の
ままなり。元の姿にいつの世にか成り申す可きや。質屋
(田中友之丞)の穀倉など籾千俵の焼跡なりとて、今にそ
の俵辻の処小高くして煙多く焼居り候。迚も元の姿には、
成り申間敷きなり。
尤問屋小路の北東隅に荷を負い、同様の[形|なり]の小家少し
あるばかりなり。今見渡しにては彼の焼壁、焼瓦置く所
もこれ有る間敷き[体|てい]たらくなり。
今度 稲荷山にて 百九拾六人 焼死候
旅人 三百人 焼死候
小以五百人也という。
(中略)志川の方へ立越し申すべき旨にて出候処、その
道筋八角に割れ候。志川は何共なく、八幡入口の村より、
また寄潰れ、夫より八幡宮御社頭、神物には何も子細な
く、茶屋向より寄り潰し、夫より八幡町形の処皆寄潰し
損じ、材木、壁土、屋根・萱等積み乱し、誠に見るさま
もなき始末柄なり。しかれば迚町を離れ、隣村には聊の
子細なし、町形の内にはあわれ残し物とては、雪隠壱つ
なし。実に是等奇怪不思議なり。夫より中村(現更埴市中
区)の渡し渡って帰村候が、帰りの村方に子細何にてもな
し。」稲荷山八幡の大被害の様子が克明に記されている。
実際に見聞しての記録であるので読む人の心を打つ。そ
れにしてもこの大地震は、地域によって大きな差異のあ
ることがよくわかる。直下型地震の特徴であろうか。
四月十二日には、犀川の大崩落の現状の見分のために
現地へ出かけている。
「矢代渡船場渡って、篠ノ井へ出見分候所、立家わず
かにして、皆倒れ、古柱、ふきぐさ古たるきの折くじけ
束ねしを、積ちらし、いまだささいなる立家少しこれ有
も、倒れかかり迚も全からず。ただ立ってこれ有と申す
名のみ、実は倒れ家同様にて見る甲斐なし。
夫より作見にかかり通行候処、此村などにも倒れ家
折々・夫より[上|かみ]石川の所なる辺を上り、承る所、上石川
村惣家五十五・六軒あり。
内拾六軒潰れ残四拾軒立って有之候とも、弐
ケ年はたもつまじと上石川の人いう。
下石川 七・八軒潰れという。
夫より赤田の地に入り見受候処、道路筋の地勢悉く変
じて地脈を吹上げ、一枚の田といえども三尺も五尺も高
くなり候。地脈の沈む処あり、変らざる所あり。家は一
軒も全きはなし。(中略)
夫より田ノ口村へ差しかかり、酒屋の住居(豪邸)は積
石崩れ見る甲斐更になし。
夫より灰原の地にて犀川の水差支ひを見下す。ただ
渺々として其所を見る斗り その地へは到らず、ここに
て川中を見下す。潰家水に浮きてあり通船にて漕寄り、
今日も火を付けおるなり。夫より「とつ坂」を塩崎へ下
り、康楽寺伽藍のより潰しを見る。潰れ材木、屋根・壁・
瓦など積上山の如し。本坊・諸堂寺内惣潰れ。
夫より天用寺の潰れを見分候。庫裏も門も皆潰れ、本
堂の取付けの廊下残るのみ。」(以下略)
以上が篠ノ井から塩崎村までを見分したその被害の様
子である。各村々の震災の状況の概要がわかる。
四 善光寺にて庭吉妻子焼死する
森村の庭吉が女房と子供連れにて、善光寺参詣に行き、
大地震にあい妻子が圧死後焼死した様子を唯七郎は、つ
ぎのように記している。
「弘化四未三月廿四日、藤四郎(当未八十才)善光寺江
御開帳参りに行き、大門町わたや仁右衛門方に止宿す。
折節今度大変の根元成る大地震、夜四ツ頃より出し、毎
家を初より潰し、其跡直に火災なり。
人々皆潰れし家の下に成り、身動きならぬ所へ火、そこ
よりもここよりも出火し、所として左なき所なし。
藤四郎も既に其の変死の席に臥したりしに、当村庭吉
夫婦に子供両人召連れ罷越し、其夜庭吉は遊びに出、女
房并子供両人旅宿に臥し候処、俄に心替りして、藤四郎
と其臥床を替え、藤四郎は端の方へ移り、庭吉女房と子
供と共に、藤四郎の臥せし奥の方へ移り、藤四郎は、庭
吉女房の有し端の方へ居替るよし。然るに其より潰しと
なり候[刻|みぎり]藤四郎は端の方故、外へのがれ出、助命の幸を
得、庭吉女房子供は本意なき命を失ひし哀れぞというば
かりなし。」(綿屋止宿人約三百人)
と藤四郎より聞いた事を記述している。三月二十六日
夜庭吉は、女房と子供の遺骨を背負って帰宅した。
また倉科村の長次郎と孫の男子十才と同村浅右衛門の
娘四才の子供が、押し潰されているのを浅右衛門と藤四
郎の二人で助け出したとも記されている。このような記
録から押して、更埴市近辺からも大勢の善光寺参詣人が
あり災難にあっているものと思われる。
五 川中島の避難民
三月二十六日、川中島の村々へ、犀川湛水カ所の決壊
による洪水の被害を避けるために、松代藩では、「住民は
直に山手の方へ避難するように」との御触を出した。続
いて山手村々に対しては、「如何様なる当惑迷い人が来ら
ん、不見不知の人なり共、留め置き候て、麁末無之様
宿いたし可申」と厳重な仰渡しがあった。
三月二十五日から川中島・篠ノ井方面の避難民は妻女
山を始め土口・岩野村の山手より森・生萱・倉科・雨宮
村などへ難をのがれるため続々避難してくる。
二十六日には、「妻女山へ必至と皆引取候て聊の明地
無之趣」とあり、土口村の笹崎山から東に続く山々は、
川中島の人々で皆詰り、全くあき地も無い程である。ま
た雨宮へも難民を引き取るように仰せ付けがあり、篠ノ
井などの人々が、少しの知り合があれば、それを頼りに
大勢やって来た。そして山には仮住居する者が、日ごと
に増してきている。
森村へも、有縁の者は勿論、無縁の人も頼って来て大
変な騒ぎである。森村の住人も、毎日続く地震のために、
庭に蚕かごでしつらえた小屋掛けの仮住居なのに、大勢
の避難民が助けを求めて来るので、「藪から棒の無理無心
なり、」と困り果てている。
矢代村にも一夜に四百人程の避難民があったと記され
ており、矢代村から妻女山にかけては、川中島・篠ノ井
辺の人々でごった返していたものと思われる。
四月十三日に犀川湛水カ所が決壊し、川中島一帯は大
洪水となったが、松代藩の適切なる対応によって、水難
死する人は少なくて済んだことは幸であった。
四月十五日頃には水も引き危険も去ったので、避難民
は山の仮住居から自分の村へ帰りはじめ、十六日には森
村はじめ各カ所の避難民は、全部帰村している。
六 被災者の救済
各村々では、穀物や金子などを御救いとしてまた御見
舞などと称して差し出し被災難渋民の救済に当たってい
る。その一~二をあげておく。
向八幡村(現更埴市中)の「弘化四年五月御救方献上穀
物村々相渡控帳」によると、
一、玄米 拾石 彦三郎 荘八 出穀分
五十里村(中条村)川口村(大岡村)長井村(中条村)
へ渡ス
一、玄米 六石 周三郎出穀分
下市場村(信州新町)山和田村(同)念仏寺村(中条
村)へ渡ス
一、大麦 拾俵・籾五俵 武之丞 出穀分
長井村へ渡ス
一、大麦 七俵 久之丞外六人 出穀分
以下略
〆 玄米 拾八俵 大麦 拾七俵
小麦 弐俵 籾 七俵
此代金 合 四両三分ト五匁六分五厘
(中区区有文書)
向八幡村では、合計四四俵の穀物を救援物資として、
被災地へ送っている。この物資をたしかに該当の村へ渡
したという証文が、弘化四年五月四日付で、松代藩奉行
所の永井忠蔵・菊地孝助連印で、出穀者宛に出されてい
る。
次に杭瀬下村の旧名主色部義太夫が、村民救済のため
に見舞として、籾と金子を拠出している。
一、籾子 百俵 但シ五斗二升入
此玄米 三〇石
一、白米 一石
一、金 七両
(杭瀬下区有文書)
このことについての杭瀬下村三役人の届書によると、
大地震で潰家、死人が出て、村内の取締り方について、
心配していたが、年寄義太夫より村中へ見舞として穀物
と金子を差出してくれた。これを困窮の村人へ分配した
り、郷蔵の修繕に用いた。猶残りは親類・縁者などに分
け与えた。これにより村内がよく治まったのでお届けす
ると代官川上金吾助宛に提出している。
このような奇特な人々に対して、松代藩では、次ぎに
あげるような褒賞を与えてその労をねぎらっている。
○ 森村重立候者共
先般大地震ニ付御救方御用途の内へ差し上げ方申立、一
段の事に付、毎年役前勤め候六人の者共、役中羽織着用
差し免ずる者也
弘化四未年 (森・中条聖命氏蔵)
十二月十二日
○ 森村唯七郎
先般の地震の節 奇特の儀これあるに付、御扇子弐本こ
れを下さるもの也
弘化四未年 (森・中条聖命氏蔵)
十二月十三日
○ 粟佐村 未年
三役人
頭立
去春大地震引続犀川洪水以来
何廉心配致太儀候付酒代壱〆
文被下之者也 (粟佐・児島正夫氏蔵)
四月九日
これと同文同日付けで、八幡村へも出されている、た
だし酒代は三貫文である。
以上地元の資料を中心に、善光寺地震の一端を記した
が、紙数の都合で不十分な記述であるが、御判読賜れば
幸である。 (更埴市粟佐一四二六―二)
更埴地域の余震
村山豊
更埴市屋代の村山源一氏宅に「弘化四丁未三月廿四日
夜亥刻大地震日ゟ以後日々変動日記」が保管されている。
記録者の名前はないが、当時御料七ケ村・私領八ケ村組
合用水屋代堰の堰守村山源五右衛門であることがわか
る。当市内には森村中条唯七郎の記した「地震大変録」
もあり、重複する記述もあるが、簡略にその内容を紹介
する。
三月二十四日夕四ツ時より大地震、人家を倒し誠に大
変言語に尽し難し、当村押倒し候家十軒、大いたみ家五
軒、死亡者八名と名前を揚げて記録し、地震発生を夕四
ツ時、亥刻と現在の午後十時としているが、発生の三月
二十四日は太陽暦の五月八日であり、日の出も早くなり、
単純に午後十時と極めることは出来ない。
矢代(屋代)近辺の被害は、山中筋山平林村枝郷岩倉組
虚空蔵山の山抜けで、犀川を差留め、丹波嶋舟渡水一向
になし、川中嶋中大噪ぎ、犀川山抜けで湛えた水が切れ
た場合、川中嶋一帯大満水になる怖れがあるので、住民
に立退き命令が出され、急難除御普請が命ぜられ、人足・
明俵・繩などを障りのない村々へ割付てられ、矢代村で
も明俵千百俵、中繩二十六束三把、わらじ三百足を二回
にわたり差し出すよう命ぜられた。
上山田村普携寺の下より所々水が涌き出し、新山村裏
山五百間余、福井、上戸倉、坂木等の裏山一里余に割目
がつき、千曲川筋上郷通り川除土堤に残らず割目がつく、
千曲川両岸地域の地殻変動を知らせている。
四月以降の震動は別表に表記したが、余震は源五右衛
門の体感として大ゆるぎ、大地震それより弱いのはゆる
ぎ、震動と区別して記載されており、度々の震動の中で
一度でも大ゆるぎとあるのは大ゆるぎの日数とし、震動、
ゆるぎと記載のあるのはゆるぎの日数として整理した。
当時屋代堰は徳間村、内川村境(現戸倉町に含まれる)
で千曲川より取水していた。取入口を「大口」と言って
堰守は出役したので上郷或は大口での余震も記載してい
る。
余震の無い日が記録されたのは、三月二十四日の大地
震より六ケ月経過した十月頃からで、十月一日、二日両
日地震なしと記したが翌三日八ツ時大ゆるぎ、四日四ツ
時大ゆるぎ五日より八日迄毎日両度ゆるぎ、九日には昼
夜地震なし、と完全に地震が止んだ訳ではなく、毎日不
安な日々であったと思われる。
満一ケ年が過ぎた翌嘉永一年三月二十四日、松代領主
は松代長国寺に命じて妻女山で、変災死亡者の慰霊供養
を行なわせた。日毎に大ゆるぎの回数も減少し、同年八
月から地震なしの記載がなくなり、又記録日も少なく、
「嘉永二年三月は十八日朝六ツ時大ゆるぎ、一同にげ出
し申候、昼の内も度々ゆるぎ申候、二十八日夕七ツ時過
両度ゆるぎ申候」と、二回記録したのみで、大地震後二
ケ年にわたる変動日記は終っている。記録が終ったから
善光寺地震が終息したとは理解出来ない。
嘉永二年三月二十四日に大地震死亡者の三回忌が行な
われ、その供養塔「震災横死供養塔」が妻女山展望台の
横に建立されている。(長野市の石造文化財第四集、昭和
56年12月発行、長野市教育委員会参照)
弘化四年堰守源五右衛門の御用留日記には、大口の被
害を次のように書上げている。
乍恐以書付奉願上候
矢代堰大口水門前西之方水請
一六尺四方枠 壱組 押崩
同所西之方幅囲
一高九尺横六尺続枠 弐組 押崩
同所東之方同断
一右同断 壱組 右同断
一同所続枠 柱弐本 打折
表水門上往来道石積
一長四間 押崩
扣水門前水受
一樋戸持竪柱 四丁 同断
同所上石積之場
一長六間 同断
一同所裏之方竪柱北江開
扣水門前東之方袖枠
一六尺四方枠 壱組 押崩
同所下続徳間村分地往来橋詰
地震変動の記録
年月
日数
記録日
大ゆるぎ
ゆるぎ
地震なし
備考
弘化四年三月七
四
二
○
○
当村押し倒し家一〇軒・大傷み家五軒、死亡者八人
同四月
二九
二一
一〇
三
○
四月十四日土尻川押し切る・十三日犀川押し切る
同五月
二九
一七
一四
三
○
同六月
三〇
二三
五
一六
○
六月二十日昼過より大夕立・志川村高円寺落雷焼失
同七月
三〇
二三
一四
九
○
五日今日にて百日なるが地震止まらない
同八月
二九
二二
五
一七
○
同九月
三〇
二九
二
二七
○
同十月
三〇
三〇
八
一七
五
十八日より二十四日まで善光寺入仏供養
同十一月
二九
二九
二
一六
一〇
同十二月
三〇
二九
一
一六
一三
嘉永一年一月
二九
二六
三
一四
九
同二月
三〇
二九
一
一八
一〇
二十八日朝六ツ時大地震、当春中の大事
二十九日・三十日上郷強地震大口いたむ
同三月
二九
二九
○
一九
八二十四日長国寺妻女山にて大施餓鬼法要仰せ付けらる
同四月
二九
二九
五
一四
七
同五月
三〇
三〇
一
一八
一一
九日天気、地震なし、江戸大地震のよし
同六月
二九
二七
二
九
一六
同七月
三〇
一八
一
一二
五
同八月
二九
一五
○
一四
○
同九月
三〇
七
一
六
○
同十月
三〇
一〇
○
九
○
同十一月
三〇
八
○
八
○
同十二月
二九
六
○
六
○
嘉永二年一月
三〇
六
二
四
○
同二月
二九
二
○
二
○
同三月
三〇
二
一
一
○
二十八日で記録終わる
一六尺四方枠 壱組 同断
同所下続内川村分地往来橋詰
一六尺四方枠 壱組 同断
一御小屋表壁 三ケ所 押崩
〆拾弐筆
右は先月廿四日之夜ゟ数日大地震に付、矢代堰大口前口
竪袖枠并堰筋所々自普請所押崩申候間、此段奉申上候。
然処苗代水引入前近日に罷成、殊に類例も無之大変に
付、組合村々出情自普請仕度奉願上候。幾重にも御憐
愍之御意奉仰候。以上
弘化四未年四月 矢代堰組合惣代
矢代村 名主
雨宮村 名主
道橋御奉行所 堰守 村山源五右衛門
引続き堰守は関係村々名主へ、四月十五日に苗代水入
を行なうので、村々分担小堰筋の普請を取計らうよう依
頼し、定例水入祝は不例の大地震で、村々も被害があっ
たので延引すると通知を出している。
(更埴市寂蒔一二三―二)
水内郡袖之山村の被害
高野節子
牟礼村で、村史編纂の話があり昔の資料を集めていて
生家にも話が持ちこまれた。
古文書に関心を持っている私も依頼を受けて土蔵に入
り探す事になった。生家は元々古文書が引継がれて来た
家で信玄の武田朱印状、景勝の上杉朱印状、武田氏が滅
びた後に、北信濃へ入ってきた織田の部将、森長可の文
書、海津城将であった春日弾正忠信達のもの等々があり
之等は黒ずんだ桐の箱に入り保管されていた。(当誌長野
第一七八号特集松代城十二頁に小林先生の文中に写真で
一部掲載)しかし、村方に関するものは土蔵の二階に埃と
一緒に積まれており鼠のふんも一緒になって放置されて
ある。
土蔵は子供の頃入ったきりであるが兄弟達が悪戯をし
たり、泣き止まない時は「土蔵に入れるぞ」が大人の脅
し文句であり又、ピタリと泣き止ませた実力のある場所
でもある。
弘化の大地震後に建替られたものであるが階段を登る
と明り取りの窓から光は差し込んでいるが薄暗く長居無
用の場所と感じた。
鎧櫃の中は虫が食れる部分は総て喰いつくし、食べれ
ない銅丸だけが残っている様なお化けの鎧と兜、刀や兜
割り等の背すじの寒くなるような錆物。がたびしと黒い
簞笥を開けると、お雛様が上を向いて入っており大きな
目でぐっと睨まれてしまった……と思った。
埃を払い乍ら書類の仕訳をしていると、
「地震潰家其外詳細取調帳
水内郡 袖之山村」
と表紙に書かれた弘化の地震の村の被害状況を記したも
のが見つかった。
名主仁兵衛(明治初迄当家では代々仁兵衛を名乗って
いた)が一軒一軒につき克明にしかも、奇麗な字で記録し
たものであった。
最初の頁が仁兵衛宅のものである。
持高拾弐石三斗弐升三合
名主 仁兵衛
一、皆潰居宅壱軒 但間口 拾三間
奥行 五間
一、半潰土蔵壱棟 但 長 五間
横 二間半
一、皆潰物置小屋雪隠三ケ所
一、家内八人 内男三人
女五人
内 即死 壱人
内 仁兵衛
同人女房 うの
同人妹 こと
同人娘 せい
即死 同人娘 やい
同人忰 㐂久治
同人娘 まん
同人忰 源吾
〆 八人
一軒毎に以上のような記入がされており合計で皆潰居
宅 参拾弐軒 半潰居宅 八軒 皆潰土蔵 弐棟 半潰
土蔵 参棟 皆潰物置雪隠 参拾六ケ所 半潰物置雪隠
七ケ所
家内人数 弐百八人
内男 百壱人
女 百七人
即死 弐人 女
怪我 弐人 男壱人 女壱人
斃馬 八疋
怪我牛馬 拾参疋
他に
皆潰寺 壱ケ所 安養寺
皆潰堂場 壱ケ所 (堂守壱人)
皆潰氏神 社壱ケ所
居宅については八〇%が全壊であり、寺、堂場、氏神
社もすべて全壊である。
始めて出合う大地震の驚愕、情報もなく人々はどんな
思いを持って大災害に立ち向ったのであろうか。
名主仁兵衛の家族は八人であったが娘やいの上に「即
死」とあって村で二人亡くなった内の一人である。
ここには年令の記載が無かったが、たまたま弘化四年
の宗門人別御改帳が地震の文書の側にあり、やはり名主
仁兵衛の筆跡で一軒毎にきれいに書きあげられてあり、
こちらは全員の歳が入っていた。「やい十二才」と読めた。
十二才の少女であったのかと私も胸が詰り、明り取りの
窓から土蔵の外を眺めた。
稲を刈り取った跡のたんぼは列になった切株だけが残
っていて田が余計に広々と目に写った。
彼女はこの「たんぼ」で稲刈を手伝ったのであろうか。
田植の時には畦道を飛んだり、走ったりしたのではない
だろうか。
晩秋の風の冷い外の景色の中に十二才の少女の面影を
画いて瞑目した。
なお、仁兵衛は同年十月、氏神社建替えのため、五両
二分を寄進している。 (長野市神楽橋七五―十八)
避難の二十日間
川中島原小泉氏の「地震并水押萬書留帳」
大久保直美
弘化大地震については松代藩から幕府への報告を始
め、「むし倉日記」(河原綱徳)「地震後世俗語之種」(挿
絵入 永井善左衛門)「弘化大地震見聞記」(滴翠隠者)「地
震日記」(青木子遂)「信陽大三災見聞録」「大地震満水録」
等沢山あって巷間に流布されており、大概は博学者の著
述で読者予定の激文調ですが、ここに紹介した原文は音
信帳兼用(熨紙二歩折)の淡々とした几帳面な筆跡のもの
です。小泉家は北国街道を挾んで、内容でお分りのよう
に当時は商売も手広くされていたようで、下男女中もい
た内容からみていわゆる名主さんらしい。南原は明治半
ばまでは原村であり、江戸時代は原の町と呼ばれたこと
があるらしく、原上町には市神様があったといい、街道
ぞいに間口が狭く軒並み屋号の残っている町並みです
が、小泉家は間口も広く文中にある井戸も健在であり、
当時は表の土蔵東土蔵北の土蔵等が軒を連ねていたと思
われます。六十代で夭折された筆者より二つ下の先代か
らコピーさせてもらったもので、関連して筆者子供の頃
西側向こう三軒目の土蔵漆喰壁に洪水の跡を見た記憶が
あります。避難した岡田村は原の西約二㎞、いまの篠ノ
井岡田で茶臼山自然公園の麓の山手です。わかりやすく
書き下し文にしました。解読文はワープロの関係で面倒
なものは現代仮名としたがなるべく原文に忠実にしたつ
もりです。なお別表(注、省略)はイミダスその他から
の収録で参考になれば幸甚です。
(表紙)
「丁 弘化四未年
地震并水押萬書留帳
三月廿四日 小泉氏」
犀川湛留洪水を岡田山等に避難して
いる二十日間の日記
弘化四未年三月廿四日夜四ツ時頃より大地震にて、虚
空蔵山崩れ犀川水留まり候に付、廿五日朝明け方家内に
て新三郎下男残り、その外不残岡田村忠左衛門殿方へ参
り候。昼過には新三郎下男も参り候。この日晩より岡田
にて飯たき食い、この夜岡田向かいの畑小屋に居り候。
廿六日岡田にてたき食い候。この夜岡田屋敷小屋に泊り
候。この日下男昼過山中の内へ参り度由を申しそれ故遣
し候。廿七日岡田にてたき食い候。翌日神明宮の前へ小
屋懸家内それへ参り泊り候。廿八日新三郎・彦八両人残
り家内岡田へ参居候処、右岡田山も安心不仕、家内相談
いたし夫より杭瀬下(現更埴市、稲荷山の対岸)村小林伝
左衛門様相頼、家内等向久五郎殿家内同道いたし、昼過
女中子供参り世話に相成候。尤先方より人弐人迎に遣し
被下候。両家にて人数拾弐人夫より四月二日迄世話に相
成候。廿九日新三郎・彦八両人にて岡田にてたき食い小
屋に泊り候。晦日右同断。(以降省略)
十三日朝より内にてたき、この日藁壱駄明俵八ツ、彦
八・下男両人にて岡田小屋直しに持参致し候。昼頃帰宅
いたし候。この日昼七ツ頃虚空蔵山崩留居候処切れ候に
付、早夕飯にて家内不残岡田へ参り、かわらにて水の参
り候所を暮方迄見物いたし、その夜小屋に泊り、翌日十
四日朝岡田にてたき食い候。両度新三郎・彦八男女内へ
見にまいり候。この夜岡田の小屋に泊り候。十五日朝岡
田にてたき家内内へ参り候。夕方おかや・おつる両人岡
田へ泊りに参り候。残りは内に泊り候。十六日朝岡田に
てたき夕方より内にてたき、家内中岡田よりこの日帰宅
いたし候。是より内にてたき食い候。右間中米みそ野菜
の分は不残内より持参致し候。
洪水後の被害状況と松代藩対応
十四日朝飯後岡田より内へ参り見候処、水四尺余も通
り夫故戸障子唐紙いたみ候。諸方壁落座敷取次に積置候
畳台所へ参り皆水に入、裏座敷并仏間の戸障子やぶり、
真木そだの相成もの流込居候。裏座敷へ積置候畳も水に
入、町并の塀押流し、路地へは立臼真木そだの様成物流
込居候。それより台所北東の壁やぶり台所の物流れ候。
表の土蔵并見せろうか東土蔵、北の土蔵、油もろ、ねこ
や・灰屋・薪屋右へ水付候処多く、壁落不残山ぬけのど
ろ入候。夫より店并にを場へご木并に、にを外に古はし
ご古木抔迄も流込居候。手前のにを真木抔も流込片付に
大難儀いたし候。
井戸へごもく沢山に入居候に付き、不残中よりごみあ
げ候て、二三日間はにごり居、夫より清き水漸出、村方
一同昼夜共に汲に参候。尤北原高田の人も少々汲に参候。
御用水堰へ水の入候迄は不残汲に参り、中には村方の内
後にて右礼に参り候人も有之候。萬帳に印置也。
御上様より床上水付候人へは壱軒前に付金弐朱づつ下
され候。居家水入候に付先達而御手伝御用仰付けられ御
用立置候金子、年々年賦にて御下げ相渡下され、二ケ年
の分金壱両御下げ下され候。猶又去々巳年分量御用仰付
られ御用立置候金子、今度半分金弐両御下げ成下され候。
善光寺大火に伴う親戚との音信授受
善光寺岩石町矢島氏の本宅隠宅共焼失いたし、但し本
宅にては五人死去いたし候処、宇市郎壱人残、後、家内
不残死去いたし候。隠宅にて両人死去いたし、御両人并
幸藏夫婦残、右に付早速見舞に参るべき処、此方にて地
震并犀川筋山ぬけ留切に相成候に付安心不仕、岡田山に
小屋懸、家内のもの不残参り居候。右躰故漸く四月四日
に彦八善光寺へ御見舞に参り候。此日下男に白米壱斗飯
次へみそ入持参させ候。又候差替古単物二枚彦八持参い
たし候。」(以下十数枚これら見舞のやり取り表省略)
(長野市川中島町原二九)
古牧平林村の被害
平林村の永代之記録より
山岸セツ
平林村の古文書目録整理した中に弘化四年の善光寺大
地震災害に関する古文書があったので記してみました。
被害状況の記録
一、弘化四未年三月二十四日夜四ツ時頃大地震ニ而、出
入甚しき之内ニ居家、土蔵、物置、潰れ其の数皆潰れ
十五軒、外寺くり、半潰れ二十五軒、居屋潰れず物置、
土蔵いたみ三軒、安達神社拝殿潰れ、
一、犀川山のけ水たたへ大波打ち、変死人七人、内大人
二人、子供一四才から三才迄五人、そのうち一人は善
光寺にて焼死とある。
松代藩への訴え等の記録
一、四月二五日の朝、義左衛門、常右衛門二人、被害状
況報告のため御出役見分をたのみに御訴に出掛けてい
る。
一、四月二八日御代官所御奉行所より皆潰れに金弐分、
半潰れに壱分御手充として拾四両弐分頂載している。
その後たび〳〵の訴に
〆拾五両弐分六厘頂戴している。
一、安達神社の拝殿潰れのため修理の願書を嘉永元年五
月に北高田村神主伊藤備前守、寺社奉行所、郡奉行所
へ差出している。
物価の値上りの記録
一、秋作は五、六分通りの違作のため
白米百文ニ九合
一、材木は平日より倍になる
復旧の古文書
一、江戸より御出役御座候間、所々土手御普請御座候間、
五月前より十二月始迄人足被仰付、毎日五、六人宛差
出し申候。尤賃銭ハ其日札ニ而被下候。はたらき候者
二、三百(文)位も取り候。村方寄合壱日百文、子供五十文
都合村方寄合金〆一四両程なり。前代未聞之事ニ候。
あなかしこ〳〵奇特の古文書
一、変災ニ付、六弥聟養子六郎兵衛江戸ゟ罷帰り村方難
渋の者へ爲見舞金壱両壱分役元へ遣し候間難渋人別
へ融通金仕候。右ニ付御呼出し罷成御孟御褒美被下
候。
御不音ニ付六弥方へ出遣す。
極月
(長野市北条一一六)
小田切山田中の被害
岡沢主計
松代藩月番家老、河原綱徳の「むしくら日記」中に、
「其の次は山田中の大抜け也、是は凡そ一里ばかりの幅
とも見ゆる也、此の村家敷三十九軒、抜け際の上にも抜
け落つべき家居も見えたり」と記されています。私の古
家は長野市小田切山田中で当時の事は祖父等に聞かされ
ており、小野平部落の右の出先、繁裏山が東西に分れ抜
け落ちたもので、二ツ石は全戸押埋り、祖父と長男(六人
家族)が横死しました。その上四辻の山際に假住宅を建て
復旧に精出したのに失火により全焼したといわれており
ます。地すべりの跡は今でもえぐれて畑地になってその
跡を示している。
私が幼ない時、母が子守をしながら唄った「地震より
来る、犀川止る。花の新町や海のようだ」が今でも忘れ
られない。
(須坂市屋部町一九一八―四一〇)
竹生村の地形を変えた弘化地震
大日方辰夫
弘化四年の善光寺大地震は山中西山地方に大きな災害
をもたらしました。山中竹生村(小川村高府)は、「虫倉日
記」によると、押潰六軒、潰二七軒、死者十三人となっ
ております。又同村は平地にて土尻川ぞいにあり、上野
村境上の山大抜け、町組まで一挙に岩石押潰しとあり、
現在でも裏山がすっぽりぬけたのが良くわかります。裏
の山中腹にあった戦国以来の郷士大日方家は、その全て
を土中に七才の幼女と共に埋没してしまいました。ふも
とを流れていた土尻川は向の山すそに流を変え、竹生村
の地形は全く変ってしまったそうです。竹生村全剛寺の
過去帳には、その時のようすが生々しく記録として残っ
ています。山抜けの土砂が家の脇すれすれを通った私の
家(大日方家の別家)は、半潰れとなり、それを引き起し
たものだそうです。二十六年前に家を新築するため解体
した時の写真です。柱はほとんど根つぎがしてあり、通
し柱は折れた所を補強してありました。(小川村高府)
燻製化したお位牌
岡沢由徃
郷土史や、古文書の資料を探し求めて出歩いていると、
心打たれる場面にしばしば遭遇する。この時もそうであ
った。
地震で折れた梁(大日方家)
金剛寺の過去帳の一部
それはこの三月のある日のことだった。長野市七二会
のカルチャーセンターに行った時のことだ。遠見組(長野
市七二会字岩草小字遠見)のSさんが、
「先生にちょっとお見せしたいものがあるんですが
……。」
と遠慮がちに風呂敷の包みをほどきかけた。私は何を見
せてくれるのだろうと、その時は興味半分でSさんの手
元を見ていた。大事そうに取り出したものは、三十セン
チ程の蓮華位牌だった。かつては「金箔の施された立派
な位牌だったのであろうが」、金箔も落ち、位牌全体が煤
けて黒光りしているというよりも、燻製になったといっ
たほうがよい位牌だった。手に取ってみると、
「新皈寂無岳没量禅定門」
と陰刻されている。素人の私には戒名の真意はわかるは
ずもないが、「無岳没量」の四文字が妙に私の心にひっか
かった。時代かかっているので、土尻川沿いの、いわゆ
る中山中の高坂氏・小川氏と同じように、七二会・中条
に威を張った春日氏も武田・上杉の抗争に巻き込まれた。
位牌の主は、その時命を失った武人の一人ではなかろう
かと思いながら、位牌を裏返して見た。私の目を釘付け
にしたのは、裏面に刻まれていた
「弘化四年三月廿四日」
という戒名の主、「無岳没量禅定門」の死亡年月日であっ
た。Sさんの住んでいる遠見組は、陣場平山の南山腹に
位置する岩草村の一集落である。
弘化四年三月二十四日夜四ツ時発生した善光寺大地震
は、北信地方に大きな被害を与えた。とりわけ活断層が
動いたと推定されている陣場平山から虫倉山にかけて、
南山腹に散在する山田中・宮野尾(長野市小田切)、坪根・
倉並・五十里平・橋詰・岩草(長野市七二会)、念仏寺・
梅木・地京原・伊折(上水内郡中条村)の村々の被害は甚
大であった。これらの村の地域には地震発生当時、人家
千二百軒余、六千人程の人々が暮らしていた。地震と同
時に発生した山抜けによって、人家の倒壊・埋没五百二
十六軒、半壊百五十九軒、四百五人の命が失われた(数字
はむし倉日記による)。岩草村は百五十軒の内、百三十五
軒が全半壊した。山抜け箇所は多かったが、大抜けの場
所はなかった。これが幸いして、家屋の被害に比して犠
牲者は近隣の村々に比べて少なかった。「無岳没量禅定
門」はこの村の犠牲者五人のなかの一人であったのだ。
「大抜けの出た伊折村じゃ九十人も亡くなったそうだ、
まだ五十人ほど、仏さんを掘り出すことできねえそう
だ。」
「そういやー、倉並村でもこねえーだ藩に出した届けに
よると、六十人も亡くなったうち、仏さんめっかったの
は、徳二や、和吉・嘉左衛門とこの女房と、吉兵衛の子
の四人だけだそうだ、あとの仏さんは、どこへ行っちゃ
ったか今んとこ皆目見当がつかねえーっていうことじゃ
ねーえか……。」
「おら村じゃー、犠牲者がすくねーかったのは、五人の
おきげなんじゃなー、おらあたちのために身代わりにな
ってくれたじゃ、なあー、おい。」
と、村人の取り交わす話しが、肉親を失い、悲嘆に沈む
遺族の耳にも伝わってきたことだろう。この村人たちの
取り交わす「おらーあたちのために……」のことばが、
残された遺族たちに慰めと、生きる活力をもたらしたの
では……。この地を襲った大地震の惨状に思いを巡らし、
位牌を見つめていた私に、Sさんは再び話しかけた。
「私の家で、蓮華位牌はこの一基だけです。ほかの仏様
は、木片を一枚一札重ねる繰り出し位牌に納められてい
ます。この位牌が私の家の仏壇に納められて以来、朝夕
に仏前に香華・供物を供え、先祖の追善供養をしてきた
ものと思います。この習慣は今も続いていますから
……。」
この位牌が燻製化している原因はこれだったのだ。弘
化の大地震以来、S家で生まれ育った人たちが、
「無岳没量禅定門をはじめ、一族家門、一切諸精霊追福
追善菩提、南無阿弥陀仏、々々……」
と追善供養し、家を、村を復興繁栄させるために歯を食
いしばって頑張り続けてきたS家の、また罹災地の村人
たちの百五十年余にわたる生き様の証であったのだ、こ
の位牌は。
Sさんの話を聞き終えて、私が菩提寺の住職であれば、
位牌に刻まれた戒名「無岳没量禅定門」の真意を位牌の
主に問われたら次のように答えただろう。
「おまえは、現世においては震災のために不慮の死を
遂げた。これを薄幸と嘆くことなかれ。お前は死んだの
ではない、お釈迦さまが蓬菜山(無岳)のある極楽浄土の
世界に召されたのだ。(没量)お前の遺族は勿論、一切の
諸精霊の追福追善の仏と化するために…。お前は未来永
劫に生き続ける仏になる霊ではないか、安心して成仏し
ろよ。喝!」
カルチャーセンターの二階窓越に改めて望見した陣場
山腹に点在する小さな集落、白いものは残ってはいたが、
そこにも春の気配は感じられるのであった。
(長野市小島田町)