[未校訂]堀内墨林庵の弘化大地震の記録
(古牧支部報第2号「のびゆく古牧」から)
解説 小林計一郎
墨林庵が人に頼まれ、その場で書きしるした弘化大地
震の記事です。
開帳で賑わう三月二十四日夜、突然大地震がおき、多
数の死傷者が出たこと、犀川上流の山崩れで湛水し、そ
れが四月十三日に突然切れて高田などが大水害をうけた
こと等が、ほゞ七五調の韻文風に書かれています。こと
に権堂の水茶屋の女の風俗がくわしく書かれています。
頼まれてすぐ書いたせいか、誤字や読みにくいところも
あります。
墨林庵は平林の人、本名堀内源右衛門。俳諧・習字・
算術・剣道等を教えた師匠で、平林宝樹院に筆塚があり、
また安達神社には五反幟があります。慶応三年七十三才
で没しました。なお、この記事は関川喜八郎氏の依頼で
解説しました。
それ、信濃の国大地震は弘化四未年善光寺は[廻向中場|えこうなかば]
にして、三月廿四日の夜[五更|ごこう]におよび燈明[暉|まぶ]しき見世小
家、ともしび移り[合|あい]京も田舎もおもひ〳〵に着かざりて、
袖ふり合も他生縁とや、茶屋の女子の悪心も水[白粉|おしろい]に塗
かくし、言葉の花も実え強くして、髪は島田に結へかけ
て、[脈|くろ]き髪[懸|かけ]ひじりめん、銀のかんざし落しざし、前か
け櫛でとめ[袷|あわせ]はん天[結城島|ゆうきじま]、帯ははやりの小[純子|どんす]に、た
すき前だれ色とりて、表[高子|こうし]によりかゝリ、おめかした
る風情と、客の財布の金ほしか、実に浮世の繩わたり、
此世を猿の芝居、やらずの富を[当|あて]のよしかなと、水から
くりや駒まわし、燈心けたて[餝|かざ]り立たる、からくりの極
楽地獄死出の山々、炎摩の御前の業の[天秤|てんびん]に懸るやら、
我が身の業は知らずして、[睨|にらむ]やいなや、代がかはれば唯
天地の気破れて、たゞどうと鳴わたり、山も崩れ泥押し
出し、村々埋め町々[潰|つぶ]れ、地から気のぼり黒雲下りて真
の闇、天も焼ぬる如くにて、山に里に火花がふり、皆□
□□の、無常のはやかねの声、自国他国の人見わけなく、
親に先[立|だち]子にわかれ、[焼上怪家|やきあげけが]人多き中、我先にと騒動
し、限に[迯|にげ]出し、麦のゑり穂の田も畑も、人の分地も構
なく、知るも知らぬも押なべて、怪我人多きその中を、
僅に濡るゝ丸裸、呑まず喰ずに水たべて、声も細りて行
さまは、此世で餓鬼の加くにて、一息先は知らぬ身の上、
松もさくらも柏木も、只二三夜のうちに、しら灰のはら
となり、鳥の声もたへはてて、何が何やら、誰が誰やら、
自国他国の人、露の消しもわからず、見るも[憐|あわれ]、[聞|きく]もお
そろし。水内の橋は落、犀川のほとりの村々山々かけ込、
[水関|みなせき]となりて湛へ、逆水して数個村堂寺迄も水中にしづ
み、浮もありて、青ふちたちて目にもあまりて、深さは
知らじ。水内・更級・埴科・高井四郡は他に異て犀川の
流とまる。[古|こ]市村の渡し船は砂にしづみ、足洗ふべき水
だにもなき。裾花川とてもそれに似、[必至|ひっし]と流れざる事、
其昔に聞ず。右湛水破れん事を恐れ、足よわ子供は最寄
え送りけり。其日数廿日。しかあるに、四月十三日夕方、
水関破、地響して山の如く波坂(逆)立て、ひろびろと岩木村々
押し流し、千曲・犀川[無差|むざ]に、川中島を荒流し、財宝は
猶々言迄もなき、又その水あふれ、北へ吹上村・市村・
風間村、北は高田や下高田、其外村々立の鼻迄、目のお
よぶまで大波打たておそろしく、田畑村々一面の大川と
なり、口にも筆にもあまる地震。して火なん水なん人死
には、目も当られぬうき世なりけり。今生を受て後生知
れとや。或人のいわく「明日迄といふもおろかやあだ桜、
夜の[凩|あらし]の吹かぬものかは」
夜凩のあてぬ家しきや 桃さくら
蘭草子氏[巾|かみ]を出せしまかせ
墨林庵即辞筆
崖ぎわに埋もれている大杉
小出章
旧小田切村田中集落の東の沢、県道下に三つの堰堤が
つくられている。上から二つ目の堰堤下の西側の崖がく
ずれ落ち、そこに弘化四年(一八四七)、今から二四八年
前の、善光寺地震の時に発生した地辷りで流され埋った
と思われる二本の大木が姿をみせた。
長野市誌編さん委員の、長田健氏にみてもらったとこ
ろ杉の木であることがわかった。下方に根があり、長さ
は三m五〇㎝、梢の方は土中に埋っている。根元のまわ
りが一m二四㎝、奥の方の温ったところには杉の皮もみ
られ、空気にふれたところは腐食し、白ありが巣をつく
っている。樹令は七〇年ぐらいとのことであった。
三つ目の堰堤の西側付近から一〇数年前、さかづきや
おわんなど見つかり家に持ち帰っておいたところ、バラ
バラに分解してしまったという。
昨年五月、石の地蔵さんが沢の中から堀り出され、今
バス停のわきに安置されている。高さ五二㎝、両手で子
供をだいているめずらしいお地蔵さんである。
旧小田切村は、小鍋村・山田中村、宮野尾村・吉窪村
(深沢村を含む)の四か村からなる。『むし倉日記』、権堂
村名主永井善左衛門の記録によるとその被害状況は次の
ようであった。
当時四か村の戸数は四七五戸・人口は二五一七人、地
辷りによる家屋の押埋は四四戸、全半潰一二三戸、死者
九一人(内自家八八人、旅先三人)であった。
小鍋村は全半壊三九、死者一八人で、そのうち千木組
は、地盤が柵層荒倉山火砕岩層のためかたく、抜所もな
く田畑も無難、中組は、大久保砂岩泥岩層で、抜所も多
く、潰屋・田畑の損所も多く、とくに下小鍋は、後山が
崩れ田畑・居家が押埋、茂菅村への道も多く抜けた。一
三軒がつぶれた上焼失した。国見組のうち、西ノ久保は、
山抜けで三軒全部が押潰され、巾一三間(二三m)長さ四
五間(八一m)の池ができた。今でも残っていて蓮が植え
られている。
とくに山田中村の被害が多大であった。東繁集落の上
方から地辷りが発生し、東繁一二戸、その下の二ツ石五
戸、その下の田中一三戸全部が残らず流され、埋ってし
まった。川後は、一五戸のうち七戸が押埋った。東繁・
二ツ石・田中三部落の人口は一六八人、死者四八人約二
八・五%に達する悲惨な被害をうけた。死者のうちうま
ったものをとくに掘り出すことはしなかった。馬もたく
さん死んだといわれている。
下深沢村では、村全体の地盤が地辷りで下がり、南側
に周囲約四〇〇m、深さ約一〇mにおよぶすりばち状の
凹地が出現した。今でもそのまゝ残っているが、長雨が
降ると、晴れた後になって水がたまってくるという。
二ツ石五戸は、四ツ辻という高台の尾根に仮小屋を建
てて再建にあたった。
田中集落に、地震の時つぶれた家の材木を使って建て
た家が残っている。この家は地震当時、四か村の中でも
屈指の大きな家であった。一〇〇mほど流されたが家は
西へ傾いていて半分程土の上に出ていた。土の中から柱
など掘り出してかつぎあげて使った。柱の[柄|ほぞ]や[桁|けた]の[柄|ほぞ]が
おれたので、その分短かくして使ったので、部屋も二間
半のところが、二間二尺ぐらいとなり二尺の分は板じき
とし、柱も短かくしたので天井がひくくなっている。
風呂に入ったまゝ流された人もいた。松ノ木のお堂で
お念仏があってそこへ出ていた人は無事だった。山田中
村は所々に地下水がしみ出ていて、これらが地辷りの引
き金になったと考えられる。
この地辷りの時、荒倉山火砕岩層の中に含まれていた
善光寺地震の時に流され埋まった大杉左側が下方、根がある。
小田切村の被害
村集落名 戸数 人口 地辷りによる押埋 全半潰 死亡
小鍋村 150 900 2 39 18
宮野尾村 100 500 0 48 10
※吉窪村 67 301 - 21 6
深沢村 62 302 0 0 0
田中村
小野平 11 61 0 9 4
西繁 12 47 4 4 0
日影繁 6 29 0 2 2
東繁 12 72 12 0 18
二ツ石 5 27 5 0 3
山田中 14 69 13 0 27
三分一 2 12 1 0 0
矢平 2 12 0 0 0
川後 15 98 7 0 3
松ノ木 10 43 0 0 0
枇杷 7 44 0 0 0
小計 96 514 42 15 57旅先3
自家54
合計 475 2517 44 123 91
『むし倉日記』による。
※権堂村永井善右衛門による。
(吉窪村戸数は安政 人口は文化6 3.5%死亡
深沢村)〃 〃 〃
岡沢要『弘化4年善光寺大地震記録集』による
安山岩がたくさん流されてきて、今でも屋敷の石垣にた
くさん使われている。
(長野市伊勢宮二四六〇―一八〇)
善光寺大地震のまとめ
小林計一郎
はじめに
善光寺大地震についての研究はたくさんある。本誌も
一二七号を「善光寺特集号」とし、 一八一号を「特集地
震」として、多くの研究や報告を集めた。
従来の研究は、根拠になっている史料の検討が充分で
なかったせいもあって、その成果もそのまゝには信じが
たい点もあった。
このたび、「地震」を特集した結果、いろ〳〵なことが
新たにわかって来たので、それをまとめてみることにし
た。
被害のまとめ
さいしょに、表1で各村々の善光寺大地震の被害をま
とめてみた。「長野県における被害地震史料集」(昭和六
二年、国立防災技術センター発行)をはじめ、各種の史料
をできるだけ集めてみた。各種の史料でずいぶん開きが
あるので、どの史料によったかを全部明記することにし
た。
善光寺町などは崩壊の上、ほとんど全焼したが、どこ
掘り出された石仏
表1 善光寺大地震村別被害一覧表
村名
戸数
全潰
人口死者
出典・備考
●新井市長沢
102寛延3
60
784寛延3
200余
4月2日高田藩届56
●妙高村大谷
2315埋
60(1善光寺)
「長野」127-46
飯山市
●飯山
(980)安政8
956(焼失565)
386
市史852県史8-2-119
●柳新田
35
29
181
4
「長野」181-20
●中曾根
35
25
185
63
史122市史856
●中条
80
26
57
史122
●笹川
53
37埋
(272明治1)78
市史855
▲中野市小沼
25
4水漬
虫375
●東江部
55
47
20余
山田家日記
●西江部
60
43
20余
同
●片塩
(70)
60余
20余
同
●七瀬
(70)
70余
30余
同
▲木島平村小見
37
6水潰
史178
中村
70
2水潰
史178
野沢温泉村平林
108
5水潰
史178
坪山
48
1水潰
史178
小布施町大島
120
4水潰
虫373
山王島
86
3水潰
虫375
須坂市中島
87
6水潰8流
虫374
村山
1413水潰70流
11流死
虫374
相之島
75
2水潰
6流死虫375
●野尻
233
143
17
町史289
●柏原全村
257
103
1,005
38
「長野」127-29
●柏原本村
118
46
14
同
●大久保新田
19
11
6
同
赤渋新田
21
2
11
同
▲熊倉新田
21
6
3
同
●二倉新田
80
38
4
同
●大古間
119
107
16
町史288(中野代官報告)
▲稲村
42
10
188
8
同
●牟礼村牟礼
189
182
826
88
村史・中野代官報告
●黒川東
92
84
史178
●黒川西
63
55
史178
●袖之山
40
32
208
2
「長野」181-45
●新井
49
39
史178
●中宿
42
34
史178
●野村上
59
55
197
23
村史稿
●茶磨山
8
6
38
2
同
●坂口
13
13
49
1
同
●夏川
49
38
187
4
同
●横手
18
10
91
同
●平出北
16
9
5
同
●小玉
81
81
327
10
同
村名
戸数
全潰
人口
死者
出典・備考
●三水村芋川町
30余
15
村史630三水村死者127
●蟹沢
95享保9
45
14
県史7-3-500
▲南郷
140文化15
23
8
豊野町の歩み
●石村
63
43
8
同
●浅野
103享和9
36
36
同
●中尾
27
27
128
8
虫372
大倉
99
2
史178
鬼無里
484
33
2,454
村史
戸隠村
栃原
220
8
1,000余
3
虫
▲志垣
60
6
360
1
虫
上祖山
112
3(埋1)
520
4
虫
▲下祖山
(105)
13(埋13)
虫
中条村
●念仏寺
130
86(埋3)
700余
30
虫
●梅木
110
56(埋6)
600余
70
虫
▲地京原
130
29(埋18)
700余
80余
虫
●(藤沢組)
18
18
80
80
虫
▲伊折
170余
32
500余
90余
虫
●(太田組)
11
11
50
50
虫
▲奈良井
(30)
27
(661)
8
虫
●中条
130
87
600余
44
虫
青木
(139)
(782)
虫 被害少し
●専納
36
27
(189)
虫
●長井
(18)
66
(566)
20
流失を含む
小川村
●和佐尾
80
23(埋5)
390
7
虫
椿峯
130
10
(425)
虫
立屋組
42
200余
虫
▲瀬戸川
(480)
78
(599)
9
虫
▲古山
100
19(埋6)
510余
10
虫
●上野
(96)
33
(484)
11
虫
●花尾
82
39(埋2)
430余
40
(焼失9)虫
▲竹生
130
27
680余
13
虫
小根山
100
7
1,000
1
虫
久木
(61)
(335)
夏和
(103)
(2)
572
(1)
夏和村今昔物語
長野市七二会
坪根
61
37(埋2)
380
10
虫 残存5、6軒
倉並
44
33(埋2)
220余
70
虫 残存5軒
五十平
68
30
340余
10
虫
橋詰
160
60
800余
40
虫
岩草
150
105
700余
5
虫
大安寺
(45)
(251)
虫
●笹平
79
70
390余
25
虫
村名
戸数
全潰
人口
死者
出典・備考
瀬脇
88
81
542
7
虫
小田切
▲小鍋
150
32
900余
18
虫中組のみ被害
山田中
94
52(埋34)
515
57
宮之尾
100余
33(埋3)
500余
10「長野」87-89
吉窪
(67)
?
(330)
深沢
(60)
?
(326)
●吉沢
55
153
「長野」87-87
●駒沢
116
93
史178
●金箱
59
58
史178
●富竹
105
101
史178
●駒沢
116
93
史178
●下駒沢
83明治8
69
72
29
県史7-3-992
長沼上町
51
4
史178
●津野
26
14流1
史178
▲六地蔵
81
17
史178
●平林
43
15
7(内1人善光寺)
「長野」181-48
千田
74
1
史178
▲荒木
51
7
史178
●大門
126
全焼
716
279
戸数嘉永2(市史212)
人口文化5(市史考261)
死者図会234
●岩石
58
全焼
233
88
同
●新町
38
全焼
219
82
同
●横町
81
全焼
635
206
同
●立町
(74)
数軒残る
234
46
同(戸数推定)
●西町
284
数軒残る
1,395
215
同
●桜小路
201
全焼
1,056
140
同
●後町
35
全焼
246
29
同
●東町
189
全焼
851
96
同
●横沢
288
118(焼失29)
906
44
「長野」181-33史124
(善光寺町う
ち潰れず焼け
残った家142
軒とも言う)
▲箱清水
57享和3
16
284
15
大門に同じ
七瀬
277
15
同
●平柴
397
7
同
●妻科
217文化11
83(焼失39)
25
史131
●本郷
(82)
3(焼失)
5(善光寺3)
●後町
(61)
27(焼失)
新田
(43)
石堂
(31)
●権堂
307
274(焼失)
1,163
89
虫372
▲問御所
175寛政4
45
657
1
市史142
栗田
0
558
5(皆善光寺)
▲三輪
(366)
46焼
虫378
●鑢
15
13
70
3
虫388
村名
戸数
全潰
人口
死者
出典・備考
●桜
50
22
80
10
虫388
▲泉平
25
6
40
3
虫388
▲上屋
130
20
8
虫388
●広瀬
100
33
00
虫389
▲入山
200
40
20
虫389
茂菅
41
0
200
1(善光寺)
虫367
▲腰
(158)
23
23
市史141
●山平林
(129)
40余
85
郡史150
▲松代
1376明治2
213
32
虫401
▲小松原
(165)
13 30焼
11(圧死)70(流死)
郡史150
大塚
(123)
30流
上下真島
(261)
20
郡史150
小島田
88
17流
「長野」87-96
▲今里
20
5
史178
戸部
16
2(善光寺)
中氷鉋
121
36流
574
6(流死)
県史7-3-560
下氷鉋
74
69流
372
29
同
岡田
100流
36(流死)
同
●上石川
56
16
「長野」181-40
布施高田
(147)
10
郡史149
▲本鹿谷
(146)
28
郡史151
▲外鹿谷
(92)
18
同
●八幡神領
52天保5
43
17
5、10松代藩主届
桑原
242
4
961
2
「長野」181-36
●稲荷山
670
370(焼失)
303(内旅人121)
「長野」181-14
屋代
10
8
「長野」181-43
杭瀬下
125
2
史178
新田
92
6
史178
戸倉町戸倉
4(問屋を含む)
死者0
下戸倉
301
3
史178
注
「長野」は長野郷土史研究会機関誌「長野」181-40は181号40ページ
「虫」は「むしくら日記」(松代藩家老河原綱徳著、新編信濃史料叢書第九巻所収)を示す。「虫401」
は「むしくら日記401ページ」
「史」は「長野県における被害地震史料集」(防災科学技術研究資料119号、昭和62年8月国立防災科
学技術センター刊)所収史料を示す。
「史178」は同史料集史料番号178「中之条代官川上金吾助報告書」
「県史」は「長野県史―近世史料編」を示す。「県史7-3-235」は「長野県史近世史料編第7巻235
ページ」を示す。
「図会」は「善光寺大地震図会」(銀河書房刊)
松代藩領戸数のうち()内のものは「安政3年領内村村家数留」(県史近世史料7-3-312)に依る。
●全壊30%以上
▲全壊10%以上
ただし洪水の被害を含まず。
図2 善光寺町の焼失地域と死者の特に多かった地域
■ 死者が人口の30%以上の区域
〓 焼失区域
(原図「地震後世俗話の種」)
表2 善光寺死者(人口文化5)
人口
死人
死者%
大門町
716
279
39
岩石町
233
88
38
新町
219
82
37
横町
635
206
32
立町
234
46
20
西町
1,395
215
15
桜小路
1,056
140
13
後町
246
29
12
東町
851
96
11
腰村
265
23
9
権堂村
1,274
89
7
横沢町
906
44
5
箱清水村
284
15
5
七瀬村
277
5
2
平柴村
397
7
2
妻科村
1,195
25
2
栗田村
558
5
1
問御所村
656
1
表3善光寺大地震の被害
領地
万高
万石
全壊焼失流失
計埋没焼失流失水押潰
死者
死者計注
出典
善光寺領
0.1
2,269
2,179
2,549
旅人1,092
県史7-3-666○図会233
松代藩
10.0
9,550
300
243
2,831
2,707
流死16
県史7-3-232○虫倉401
松代藩預領
0.7
450
274
141
129
流死27
虫倉372焼失は権堂
飯山藩
2.0
2,653
82
570
1,500
県史8-2-118虫倉367
須坂藩
1.0
75
24
11
流死3
7月11日届虫倉363
六川陣屋
0.5
57
42
善光寺で24奥田村人
堀出雲守9月23日届
中野代官所
5.8
2,976
16
778
善光寺で200余
県史8-2-766
上田藩
5.8
735
72
344
水死22、旅人126
史料188稲荷山被害多い
川中島5千石
塩崎知行所
0.5
375
114
90
水死9旅人22
5月松平飛驒守届
村史577(潰235四死41)
松本藩
5
396
67
虫倉351
高田藩
15.5
477
5
29日余震被害あり
虫倉365
高田藩預領
75
260
高田藩届
飯繩神領
0.01
4
3
松代藩5月10日届
図会220
八幡宮神領
0.02
40
17
史料182図会220
19,584
流失3,332
8,304
流死77
表4 都市・地区別死者
人口(M6)
死人
死人%
善光寺
6,928
2,747
39.7
稲荷山
1,940395
20.4
(明13)
飯山
5,736
393
6.9
中条
5,674342
6.1
(慶応4)
七二会
3,623167
4.6
(同)
小川5,625
92
1.6
松代
7,976
32
0.4
須坂
4,492
11
までが全壊でどこまでが類焼したのか、区別がつきにく
い。また、善光寺大地震には第二次災害ともいうべき犀
川湛水による洪水の被害があり、洪水による流失、全壊
の家屋も多数ある。「史一七八」は中野代官による洪水被
害届であり、地震による直接の被害とは性格が違うので、
表1には示したが、図1からは省略した。
図1A・Bは善光寺大地震で家屋の被害の特に多かっ
た村を示したものである。●は全壊が三〇%以上の村、
▲は一〇%以上の村である。三〇%は、地震の震動のも
っとも激しい激震に当たる。ただし、多くの村は、村と
して報告を出している。ところが、村はいくつかの集落
が集って一つの村になっている所が多いので、一つの集
落が全滅の被害を受けても、他の集落の被害が少なかっ
たために、この図にもれた村もあろう。例えば地京原村
では藤沢が、伊折村では太田が、それぞれ虫倉山の崩壊
によって家も住民も埋没してしまったが、全村の被害は
三〇%未満なので、この図では▲になっている。
表1は、善光寺大地震の被害のうち、全壊と死者とを
村別に一覧表にまとめたものである。正確を期するため、
全村について、出典を記した。出典はできるだけ出版さ
れている史料を使用した。略号で示したが、その出典名
は注記したとおりである。「届」というのは、「弘化四年
三月ヨリ、信州越後大地震始末御届書写」による。これ
は各領主の幕府への届をまとめたもので、類書がたくさ
んある。
「全壊」には、各種のものが含まれている。地震によ
る倒壊のほか、山崩れにより埋没したもの、火災による
焼失などがある。焼失は、つぶれた上、焼けたのか、地
震ではつぶれなかったが、のちに類焼したのか、必ずし
も明白ではない。表では、焼失は「焼」、流失は「流」、
洪水による全壊は水潰、埋没は「埋」と注記した。
(注、表と図一枚のみを掲げる。「新収」第五巻別巻六―
二、一〇六五~一〇六九頁の表参照)
表5 都市・地区別死者
人口(M6)
死人
死人%
善光寺町
6,928
2,747
39.7
飯山藩
32,287
1,500
4.6
松代藩
148,669
2,707
1.8
東灘区
190,354
1,239
0.7
灘区
129,578
816
0.6
長田区
136,884
720
0.5
芦屋市
87,524
403
0.5
松代町
7,976
32
0.4
兵庫区
123,919
409
0.3
北淡町
11,444
38
0.3
須坂
4,492
8
0.2
西宮市
426,909
980
0.2
須磨区
188,199
339
0.2
○善光寺・飯山・松代・須坂の人口は明治
6年(本誌119号138)
○中条・七二会・小川は明治元年、阪神地
区死者は2月14日現在、人口は平成3年
○藩領は明治初年
箱清水・往生寺史跡めぐり
平成七年四月十六日
箱清水 善光寺境内から大峯山に至る地域。地名は箱
池(箱清水)からおこったという。慶長六年(一六〇一)、
箱清水村二七四石余が長野村等とともに善光寺領となっ
た。(徳川家康寄進)
戸数、人口は天和三年(一六一七)一八戸・一一七人、
文化五年(一八〇八)五七戸・二八四人、明治三年(一八七
〇)四八戸・二四二人、平成三年九七六戸・二六〇六人。
地震横死塚 宝篋印塔、高さ台石とも約6m。弘化四
年(一八四七)三月二十四日(太陽暦五月八日)の善光寺大
地震横死者のうち、引取手のない旅人等の骨を葬ったも
の。発願主は上田の土屋仁輔徳昆。世話人は真田村白山
寺義門、上田横町宗吽寺覚賢、当所(横沢町)山崎文冲(医
師)、上田房山村橋詰三平、世話方長野町(天神宮町)久五
郎である。(銘)
土屋仁輔は上田海野町の質屋、上田藩の産物取締役、
弘化四年当時四十二歳。災害がおこると、奉公人等を動
員、大八車に救援物資を満載して善光寺へかけつけ、続
いて物資を追送したという。また遺体を収容処理して、
この塔を建てた。
地震塚の向って右に一字一石供養塔がある。地震横死
者の菩提のため、経文を一字一石に書写して埋めた。弘
化五年二月、大勧進現住山海の建てたもの。
御本尊仮安置所跡(横山窪地蔵畑) 御本尊・前立本
尊・御印文・御朱印等は地震の夜、本堂からこの場所へ
お移しし、五月十六日朝、万善堂へお移しするまで五十
三日間ここに仮堂を作って安置し、参詣者が多かった。
いまその跡に石仏地蔵尊を安置し、傍に「南無阿弥陀仏」
の碑がある。大勧進住職山海筆。
地震塚(正面)「地震横死塚」
(向って右)「発願主当國上田住土屋仁輔徳昆建之」
(裏面)「世話方当所長野町久五郎、石工吉左衛門、鳶頭常八」
(向って左)世話人、当國上田真田村白山寺義門、同 同横町宗吽寺
覚賢、当所山崎文中、当国上田房山村橋詰三平