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項目 内容
ID J2700132
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1847/05/08
和暦 弘化四年三月二十四日
綱文 弘化四年三月二十四日(一八四七・五・八)〔北信・上越〕
書名 〔長野第九一号〕S55・5長野郷土史研究会発行
本文
[未校訂]弘化大地震による吉村の災害(続)
内山信政
 弘化大地震による飯山藩領水内郡吉村の災害について
は、さきに「長野」第八七号の八七ページに記載させて
いたゞき、その概略を報告した。弘(一八四七)化四年三月二十四日
の夜の大地震による山抜け崩壊による泥流は吉村の村落
の中央に押出し、戸数五五戸を潰し、一五三人を死没せ
しめ、村の耕地の半分の高二一六石の地を埋めたのであ
る。この災害は長く吉村の地域住民を苦しめ、その地域
の復旧は容易でなかった。
 ここでは災害後の田畑復旧の過程における用水の村定
めと、御林人足を減ずる嘆願の件について、吉区有文書
より考察したい。
(一) 田畑復旧について用水の村定め。
奉差上一札之事
一、弘化四未三月廿四日夜、大地震ニ而三登山元取山所々
致山抜、石砂夥敷押出、田畑等多分之石砂入、泥押ニ
相成并用水溜池ニも石砂押込候得ば水供々村家に押懸
り、人家石砂下并泥押懸り候故、及退転候者も有之、
御見分之上、厚キ御手当等被下置、石砂入荒地之儀は、
以御慈悲田方ニ相成候共、畑方ニ相成候共、開発出
精可致旨、被仰聞候ニ付、石深ニ而畑方ニ出来兼候
場所、致田方候処、本田用水引足り不申候趣ニ而、
彼是差縺、御上聞ニ相達候故、種々御利解被仰聞一
同奉恐入、其上南郷村庄屋内山戸右衛門エ立入候様、
御内意有之候ニ付、村役人并立入人供々睦敷馴合候
様、異見差加エ候処、和談仕候。然上ハ村方一同相談
之上取定、左ニ奉申上候。
一、去ル未年荒地田方ニ相成候共、畑方ニ相成候共、起
返リ出精可致事。
一、畑地起返リ新田ニ仕付水之儀ハ融通可致事。
一、同断。新田差水之儀は余水并究寄ニ而水溜拵置、用水
ニ可致事。
一、本田用水エ決而、無差障リ可致事。
一、毒水之節ハ村役人致世話、睦敷馴合可致事。
前書之通、熟談之上、村定仕、奉差上候義□御威
光ト難有仕合奉存候。万一差支等有之候ハバ御願
可相成候間、其節御憐愍之程奉願上候。右様相整
候上ハ、御上聞ニ御達候儀ハ御下ケ被成下置候様、
伏而奉願上候。已来此義ニ付、異論ケ間敷義、毛頭
仕間敷候。
 依之連印仕、奉差上候処、如件。
(一八五〇)嘉永三年戌十月
吉村五人組重左衛門㊞
同村同断 小兵衛㊞
他五名(省略)
 前書之通、相違無御座候ニ付、奥書連印仕、奉差上
候。以上。
吉村百姓代 栄七㊞
〃村組頭 常八㊞
同断 松右衛門㊞
〃村庄屋 九左衛門㊞
〃村重立 安兵衛㊞
南郷村立入 内山戸右衛門㊞
坂本吉蔵様
 これをみると次のようなことがわかる。大地震によっ
て、三登山・元取(もとどり)山の山抜け崩壊(山津波)に
よって石・砂・泥が押出し、用水池にも石砂が入り、用
水池の水も泥流と共に人家をおそった。その災害の状況
は飯山藩でも役人がきて、見分し、災害手当もくだされ
た。泥流の下になって荒地となった所は田にしてもよい
し、畑にしてもよいから開墾に精を出すようにと役人か
らいわれた。そこで石深の地を田に開墾し、水をひいた
ところ、従来の本田の方の用水が不足する事態となり、
用水をめぐって争いが起きた。このことが飯山藩の上聞
に達した。藩では南郷村庄屋を立入人として和談するよ
うに命じた。そこで吉村地区一同が相談して村定めをし
た。
(1)は荒地開墾に精を出すこと。(2)は畑地を開墾して新田
にした場合、その仕付水を融通しあうこと。(3)新田差水
は水溜をこしらえて用水にすること。(4)本田の用水にさ
し障りのないようにすること。(5)悪水の場合は村役人が
世話をすること。以上の四項目を定めたのである。村定
めの中核となったのはおそらく(4)の本田の用水にさし障
りのないようにすることであったと推測される。
 後書では、このように村定めをしたから、さきに上聞
に達した争いのことはおさげください、以後はこのこと
について異論申しあげません、というのである。
 末尾に各五人組の代表の計七名が記名捺印し、奥書に
は村方役人の百姓代・組頭二名、庄屋・重立の計五名と
立入人の南郷村庄屋が記名捺印し、これを飯山藩の代官
(あるいは奉行)坂本吉蔵あて、差し出している。
 このように田畑復旧に関して、種々の新事態が生じ、
容易なことではなかったことが判明する。
(二) 御林人足を減ずる嘆願書
乍恐以書付奉願上候御事
一、弘化四未年大地震之節、山抜、家作土中ニ相成、死
失人夥敷出来、人別減少仕候ニ付、御定御人足之内六
人減少奉願上候所、当年ニ而年切ニ相成候得共、只今
以、御田地普請所等、多分相残リ、村方一同難渋仕、
何卒御憐愍ヲ以、是迄之通、来戌年より寅年迄、五ケ
年の間、六人減被成下度、奉願上候。右願之通リ
被仰付御下置候ハバ大小百姓一同難有仕合奉存
候。以上。
(一八六一)文久元年酉十二月
吉村 百姓代 清太夫
〃 組頭 小平次
〃 同断 佐吉
〃 庄屋 此右衛門
御林御奉行様
 これは弘化大地震により死失人一五三名にのぼり、村
の人口が減少したので御林人足のうち六人を減らしても
らいたいという嘆願書である。文久元年(一八六一年)以
前も減じていたことは「是迄之通」ということで判明す
る。なお、来年の戌年より寅年まで五ケ年間、六人減に
していたゞきたいというのである。御林人足は統計では
幾人であったかはわからないが、推測すれば、減少率は
相当大きかったと思われる。
 なお、文久元年は災害後、十四ケ年を経ているが、「御
田地普請所、多分に相残り」というように、田畑の復旧
が困難であったことが推測される。
 先にも述べたとおり、弘化大地震は吉村地区にとって
は開村以来の大惨事であったと推測される。もちろん弘
化大地震は善光寺はじめ北信地区一帯に大災害をもたら
したのであるが、吉村地区もその災害は筆舌に尽くし難
いものがあった。
 大災害の後の復旧に長年月を要したことは言うまでも
ない。その間、藩制時代において、領主側でも種々憂慮
し、力を貸していたことは、「御見分之上、厚キ御手当等」
を下し置かれたという文面にも想像される。
 なお、吉地区では、この大災害を忘れることなく、毎
年十二月十五日には法要を営んで子孫に伝えている(長
野八七号、八七ページ)。
 弘化大地震より早くも一三〇年の年月が経過し、封建
政治も終わり、明治・大正の近代を経て、昭和の戦後の
現代にいたったのであるが、いまもなお、その災害を忘
れることなく往時をしのび、その復旧の労苦を現今の指
針にしている吉地区の住民に敬意を表するものである。
(長野市田中九七三)
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 別巻
ページ 215
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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