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項目 内容
ID J2700131
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1847/05/08
和暦 弘化四年三月二十四日
綱文 弘化四年三月二十四日(一八四七・五・八)〔北信・上越〕
書名 〔長野 第八七号〕S54・9長野郷土史研究会発行
本文
[未校訂]弘化大地震による吉村の災害
内山信政
 弘化四年三月二十四日夜の善光寺大地震は善光寺町を
はじめとして、信濃より越後にかけて各地に大きな被害
を生じた。
 ここに記すのは善光寺の東北方、約八キロメートルの
地にある吉村(当時は飯山藩領・現在長野市吉区)の地震
による災害の報告である。
一 地震による横死人とその惨状
 吉村の災書について「長野県町村誌」(北信篇)の三八
五ページに次の記録がある。
「弘化四年未三月二十四日の夜震災に罹り、全村の民戸
過半潰滅し、加え、村の乾の方、字鬼岩岸・字鬼岩の両
山崩壊して、隈取川に沿ひ押し来て、新池に泥濘押入り、
之が為めに提防を破り、村落の中央戸数五十五戸、人員
一百五十三口を泥土の下に塡没せしめ、村高四百三十石
の内、二百十六石余の耕地を磽确の瘠土と変ぜしむ。其
惨状、実に名状すべからず。而して爾来、其困難に疲弊
せる損害を挽回するを得ず、困窮益々加はり、年々衰頽
し来て、当今に至りては村民窮苦の情態、近隣諸村に比
類なき所なり」。
 これによると吉村はその夜の地震災害で、五五戸、一
五三人、耕地の五割を泥流のために押し流されたのであ
る。現在の長野市若槻地区内では最も被害が著しかった
のである。
 このように吉村では大勢の横死人があったが、その当
時、吉村木仏堂(現在の吉区公会堂)の住職である円覚諦
乗は、横死人の戸主の俗名と死没者の戒名を書きつらね
た。それが掛輔になって現在に残っている。九段二十行
に記されているが、最上段には右側に「弘化四丁未年三
月廿四日夜亥上時」、中央に「圓覚諦乗」、左側に「大地
震横死人控」とある。二段目から九段目には「俗名 文
五良」「身土㳒宣信士」「俗名 吉治良」「㳒體日理信士」
「開示加入信女・子」「妙住童女・孫」というように記さ
れている。これは文五良の家族では文五良が横死し、吉
治良の家族では吉治良と子一人、孫一人の計三人が横死
したことをあらわしている。このようにみると、茂右衛
門の家族では妻一人、新兵衛の家族では本人と妻の二人、
仁兵衛の家族では妻と子二人、藤八の家族は一人、治三
良の家族は本人と女子一人が横死していることが判明す
る。多くの横死者を出したものには伊助の家族のように、
本人と妻および子五人、政右衛門の家族は本人と妻およ
び子四人、九左衛門の家族は妻と子四人、杢左衛門の家
族は母と妻と子四人……というように一家全滅の様相が
判明する。これから推測するに、その惨状は筆舌につく
し難いものがある。
 住職の円覚諦乗はその後も長く健在であり寺子屋の師
匠もして、子弟の教育に尽力したが、現在、木仏堂(公会
堂)の裏手にある「西照庵諦乗筆塚」によっても伺い知る
ことができる。
 昭和五十年代の現在も、この大地震による横死人のた
めに、毎年十二月十五日の午後、長野市吉区の公会堂―
―木仏堂において、しかるべき寺の住職を招き、区民に
よる法要が行われている。
二 地震による道路欠壊と出入
 ここに記すのは吉村(現長野市吉区)地区の地震による
道路の欠壊とその復旧に関して袖之山村(現上水内郡牟
礼村袖之山区)との間にとりかわされた文書によるもの
である。
 この文書は弘化四年八月のもので、大地震発生後五か
月を経たものであるが、「為取替議定一札之事」とある。
 袖之山村はもともと牟礼宿の生活圏に属しており、現
在も牟礼村に含まれている。しかし善光寺町に通ずるに
は、一つは坂中峠をこえるものと、もう一つは塩沢を経
て、吉村へ出て、それより北国街道により善光寺に通ず
るものである。この二道は共に、中途において急坂があ
り、難路であった。吉村に通ずる道は、塩沢の急坂を通
らなければならなかったが、袖之山村より[新町|あらまち]宿(現長野
市稲田区)へ、また神代宿(現上水内郡豊野町)方面へ行く
には、ぜひとも吉村を経なければならなかった。そのた
め人馬の通行も相当にあったのである。
 弘化四年の大地震は抽之山村より吉村に通ずる道路に
大きな災害をもたらした。すなわち「今般大地震ニ而、三
登山并塩沢辺、所々山崩いたし、吉村より田畑并道筋は
勿論、人家共一面に泥押出し無差別相成、右ニ付、数
日人馬通行難相成左候得バ袖之山村必至と差支候」と
文書に記されている。地震により三登山・塩沢辺で、あ
ちらこちらに山崩れがあり、田畑・道路・人家へ一面に
泥が押し出して人馬の通行ができなくなった。袖之山村
の人たちは全く通行に差支えるというのである。泥流の
状態は簡潔なこの文書からもいろいろに推測される。
 地震災害の状況はこのようであったが、道路を復旧す
るまでには大変であった。袖之山村では道路の通行に差
支えるので、早く復旧するように吉村へ再三にわたって
交渉をしたが、吉村では近年に類のない大地震なので、
あれやこれやと言っているうちに日数もたってしまっ
た。袖之山村では止むを得ず「田畑山崩抜候場所エ抱道
普請いたし侯」とあるように、通行できるように道普請
を行った。ところが相談もまとまらないうちに、勝手に
吉村分の土地を普請したと、吉村の人達がおこり出し、
訴訟にもなりかねまじき様子になった。
 そこで、これでは抽之山村は気の毒であるというので、
赤沼村(現長野県赤沼区)と南郷村(現上水内郡豊野町)の
取締役がこの間に立入って、袖之山村および吉村の双方
へ種々言い聞かせ、仲裁をした。この両村取締役には吉
村か、袖之山村か、あるいは両方からか、何らかの形で
働きかけがあったと思われる。
「右道筋之儀ハ吉村地内之分は同村ニテ常形エ致普請
然上は両村共、合地ニ候得バ、御百姓互ニ致睦敷已来、
道拵普請等有之候節は双方共、究寄を以、八方峠之下迄、
致道拵通行差支無之様可仕候」
 これによると、吉村の地内の分は吉村で普請をして常
形にせよ。そうなった上には両村共、合地であるから仲
よくいたし、これからも道拵普請などのときには双方で
きめあい、八方峠の下まで道をこしらえ、通行に差支え
ないようにせよと言い聞かせたのである。
 なお、「吉村御田地作仕附有之場所ニテ致道拵度候
節は同村エ相届ケ、村役人と対談之上、決而作方差支無
之様可致取計候」というように、吉村分の田地のあ
る場所で道を作りたいというときは、袖之山村から吉村
へ届け出て、村役人が双方話し合った上、田作に差支え
ないようにせよとつけ加えている。
 この取替し文書は、弘化大地震の災害が原因であった
ものであり、災害の復旧過程ではいろいろと困難なこと
があったことを示している。さらにこの文書には「継書」
が十二年後の安政六年(一八五九)に行われている。すな
わち「大地震已来、大雨・雪解之度ニ道幅欠崩は勿諭、
格段難場出来仕候節は、是迄引合之通リ、双方村役人立
合、実意ニ基キ万端差図致シ」とあるように、地震災害
の影響は長く続いたのである。
 現在の塩沢道は新道となって広くなり、整備されてい
るが、旧道は昔ながらの様相を示して、細くけわしく、
長い急坂の中央の辺に松の木があり、馬頭観世音の石造
物があり、その周囲はやや広く休憩場所であったことを
物語っている。
 以上は吉区有文書により弘化大地震の災害の僅かな一
端を記したものである。大方の御教示を得たい。
(長野市田中九七三)
弘化四年地震の山田中村の被害
岡沢主計
 弘化四年の善光寺大地震は折柄三月十四日から善光寺
御開帳とて諸国からの参詣人多く死者領内七千余 旅人
千二百余と伝えられる。家屋全潰焼失流失併せ二万三千
余に達し斃死牛馬八百余に及び、落首に
後の世を顧ふ心の人々も
かく早くとは思はざらまし
二十日頃より小さな前触が度々有り、二十四日午后十時
百雷の落つる如き音響と震動と暗闇に、山は崩れ大地は
裂け、火の手は上り、人々を恐怖のどん底に陥し入れた。
余震も廿五日迄七、八〇回、実にマグニチュード七・四
に達したと伝えている。この記録は水内郡山田中村上下
組の名主勝右衛門(現長野市山田中西山悦夫氏祖)の記録
で恰も震災前二月の御改帳に始まり、四月の報告書まで、
 (1)弘化四未二月五人組軒別人別御改書上帳 (2)四月当
村変災御書上帳 (3)八月地震ニ付御書上帳 四月変死人
御書上帳上下
の五冊をまとめ上げたものである。
松代藩月番家老河原綱徳の「虫くら日記」(信濃史料叢書
九巻三一七頁)に「其の次山田中の大抜也。是は凡そ一里
計の幅とも見ゆるなり。此の村家敷三十九軒、人四十二
人押埋りぬ。抜際の上にも今にも抜落べき居家も見えた
り。」
又三九一頁に「目に余り候抜崩にて耕地三分ノ一は不残
候」とあり、東繁、二ツ石は小野平の前沖から抜落ちた
もので現在でも地形に其の後がうかがえる。当夜は批把
部落に会合(講か)が有り男の大人が出席で災厄を免れた
そうである。表濁沢は小田切でも最も激しい地辷り地帯
で知られている。編者の祖先も二人此の災害で変死して
いる。
(1) 弘化四年未二月 五人組軒別人別御改書上帳 山田
中村」には地震後、家別に被害を書き込んである。この
村は本田高三一三石余、新田高三〇石余、家数九四軒、
人数五一五人(男二三三、女二八二)である。
被害状況
 この村は上組と下組とに分れているが、報告書(「変死
人御書上帳」)によると「居宅寄潰候節、逃出し兼、土中
へ埋込」み、死亡した者が五七人(男二六、女三一)で、
人口の一一%であった。
 家の披害は土中へ埋まった家が上組二一軒、下組一八
軒、計三九軒で、四割以上の家が埋まってしまった。
 つぶれた家が上組八軒、下組五軒、計一三軒で、半つ
ぶれ一〇軒を加えると六五%が被害を受けたわけであ
る。うずまった家は三分、つぶれた家は二分ずつの手当
てが与えられた。耕地は上組で一一〇石余、下組で八二
石九斗余が、山抜けで被害を受け、八月にその場所を「地
震につき御書上帳」という帳簿で報告している。減税し
てもらうためである。紙面の都合上各家の人名と変死者
名を省略しましたが詳しく知りたい方は岡沢迄御一報下
さい。 (須坂市屋部町)
 弘化四年
当村変災写書上帳
未四月 山田中村上組
上組志げ二ツ石より抜落居家土中江押埋人別
御 人 別
一、居家
軍三郎(以下二〇名略)
〆居家 弐拾壱軒
御手充金 拾五両三分 抜埋人別
但 壱軒ニ付三分
潰人別左ノ通り
一、居家
弥平太(七名略)
〆居家 八軒
御手充金四両 但壱軒ニ付金弐分
半潰人別左ノ通リ
一、居家
包吉(八名略)
〆半潰九軒 同二人仮居
一、堂 村持一軒 半潰
一、社倉 一軒 土中埋
一、社倉 一軒 潰
〆 抜埋家数弐拾壱軒
〆 潰家数 八軒同二軒住居不相成
〆 半潰家数拾軒同二軒住居不相成
惣〆家数 参拾九軒
〆金弐拾壱両弐分
〆堂社倉 三ヶ所
斃馬 三匹
山抜落 石入 一、高百拾石余
(下組)
志ゲ二ツ石より抜落 家土中ニ押埋
一、居家
喜兵衛(一七名略)
〆抜埋家数拾八軒 潰人別右之通
〆拾参両弐分 御手充金
一、居家
庄兵衛(四名略)
〆居家潰五軒 御手充金弐両二分
一、地蔵堂 壱軒 抜埋 田中村持
一、稲荷宮 壱ヶ所抜埋 田中村持
一、社倉 弐ヶ所抜埋 田中村持
一、薬師堂 潰 川後村持
一、社倉江倉 弐ヶ所 抜埋 川後村
一、水 車 一ヶ所 土中埋
惣居家 弐拾六軒
惣〆金拾六両三分
〆堂社倉江倉水車 七軒
一、山抜蒙り 一、高八拾弐石九斗余
御本田 下組
右は今般大地震ニ付異変の次第御書上仕候通相違無御座
候 以上
山田中村
名主 勝右衛門 
同断 喜兵衛 
組頭 太仲治 
長百姓 庄吉 
御代官所
弘化大地震の湛水地域の避難
桐山繁雄
 弘化四年三月二十四日の大地震は善光寺の御開帳中で
あって、潰れ焼失・流失・山抜埋没等重なり合った大災
害であった。
 岩倉山抜崩れて犀川を堰止めたので下流は干上り上流
は湛水したのである。川辺の村々は湛水の高まりによっ
て避難しなければならない困難に直面した。かくて、二
十日におよぶ湛水の後、四月十三日堰堤を突出して押し
くだした。上流は洗い流され、下流は泥の大洪水に見舞
れるという大惨害となった。
 この湛水面は標高四六八、五メートルあたりであり、
水没して浮かみ出でて流失した村々はほとんど信州新町
に属している。大地震による被害の上に、湛水による避
難生活をするという特殊の状況をのべることにする。
1 湛水による避難
 三月二十四日夜の大地震によって、新町村は潰れと同
時に火災を起した。圧死・焼死の惨状を呈しながら夜が
明けた二十五日の朝は、水が漬いてきた。人々は驚きあ
わてて直ちに村の上方へ避難しなければならなかった。
二十五日・二十六日と湛水が高まるにつれて、犀川両岸
の村々は同様の避難を余儀なくされた。二十日におよぶ
湛水によって、信州新町内の水没した村と避難地は次の
通りである。
北岸 水内村平 神田
上条村 久保裏山・一の段
新町村 一の段・五百山
里穂刈村 安光寺山
大原村 宮平
日名村 裏山
南岸 竹房村 向林山
下市場村 興禅寺
和田村 堀之内
 この水没地域の現在の戸数は約一、一〇〇戸其他一、
三〇〇戸である。増減を勘案して当時の戸数を推定する
と六~七〇〇戸になる。
2 小屋掛生活
 湛水してくるのを見つめながら、人々は緊急村の上方
の山麓へ避難して小屋掛をしなければならなかった。有
合わせの木や板やむしろで俄か小屋を建て、食糧も家財
道具もできるだけ運ばなければならなかった。村一統で
あるから助けてくれる者はなかったであろう。ところが
よいと見立てて建てたところへまだ湛水してくるので二
度三度と上の方へ懸直した家もあると語られている。ま
だ続いている地震と流言蜚語もあり、おののく生活を続
けたのであろう。
 当時は皆百姓であったから急用の品物はあったであろ
うし、手仕事もできたから、自前で小屋掛ができたであ
ろう。今はこのことは甚だ心もとなく思われる。
 小屋掛生活は二十日間の小屋掛生活に止まらない。岩
倉の堰塞の突破によって減水したものの、もとの住居地
へはたやすくは戻り得ない状態である。おそらくは、小
屋生活は秋までは続いたであろう。そして、冬に向かう
頃になって、もとの住居地へ帰って小屋掛をしたり、そ
のままの地で冬越しの補いをして凌いだのであろう。
 「大地震変災之記」には次のように書いてある。
 「諸人俄に小屋懸ては逃げ登り〳〵して、六度七度程
つゝ小屋懸直し〳〵、山林抔にて夫食の野伏せり。其小
屋懸とは言ひながら、漸く其処かしこの真木抔壱本弐本
づつ拾い集め天秤棒千木など柱とし戸障子唐紙屛風しぶ
紙ねこざむしろ新古をいとわず屋根となし、味噌食物薪
等当惑いたしける処、松代様より夫々御救の御出役有り、
夫食塩味噌金子等夫々に下され漸命をつなぎける。」
3 変災のめど
 非常変災の時は、庶民の目は神社や寺院や森木等に注
がれる、すがりつくめどになる。湛水の漬いた処や高さ
はここが目どとして語られ、お宮の森の頭は鳥が止まる
位残っただけだということをどの方向からも語られてい
る。
 それらの目標物はまた昔から災害を防ぐ役目にもなっ
てきた。そう思って見れば、今ははるかにそれらは少な
くなっていると言えよう。この時は、それらはみな神徳
仏恩によるものと信じたし、善光寺の建物だけが残った
のは如来様の加護によるものとして感恩した。それらの
ことどもを、記録の中から拾い出してみると次のようで
ある。
湛水のめどの森
産神の神木三尺ばかり現出し、
下の宮杉木より高きこと三丈ばかりなる樅の神木残る
所は五尺ばかり水上に見えたり、
産神の森木三尺ばかり見ゆ、
湛水した処
産神境内まで、
神明宮本社まで、
稲荷社の際桝形まで、
産神大門まで、
仁王尊石〆の下まで、
天神社の際まで、
流れない神社
 産神本殿は水上に浮き出でしが鬼門除けに立ち賜いし
程の御神なれば不思議なるかな同敷地に御座し賜えり其
他附属の建物は皆流失せり、
 御本殿は濁水に浮び漂っていた堰場が決裂し当社三十
有余本の大樹に激突し瞬時にして三本の大樹を残して他
は根を払って流失した御本殿はこの三大樹に護られ元の
礎に静かに戻った御神威の厳然たるに人々は皆頭を垂れ
て敬仰せり、
 神明宮の森裏に突かかること猛勢なる故、拝殿は只一
波に流せしかども御本殿は巍々として無難なるは神威の
徳誠に顕然たり、
4 食糧
 非常災変が発生した時の即刻の対策の一つは食糧であ
る。地震の翌二十五日田野口村の小林唯蔵は炊き出しを
初め、食糧配分の手配を村々の名主へ通達した。
 湛水による避難は、小屋掛けと食糧と家財の運び出し
であったろう。麦の取入れの間近い春先であるので自家
保有の少ない季節であったが、当時の百姓は取り入れか
ら翌年の取入れまでの食いつなぎの食糧は保有している
のが常であった。三年味噌といわれているように、どの
家でも味噌はあった。穀類と味噌はある期間の自給は可
能であった。今の生活状況を考えるとどの程度まで自給
できるかと案じられるのである。
 やがて社倉による配分が行われたし、また村内で多く
所有していた者は協力して援助した。当時の村々の生活
は協力互助の精神が強かったが、今の方が心もとなく感
じられる。災変時の食糧対策はどうなっているかと考え
ると不安はつのるのである。
 湛水が引いた後は、崩れ地荒地の復旧修復と作付に精
魂を出して苦闘したのである。
 その史料を二つ次にのせる。
「麦作仕付候処、御高百六拾石程茂御座候内、僅拾参石
程残り、其外数日水冠ニ付腐、一向用立不申候ニ付」
「山中筋数十ヶ所に於て御炊出有之、六日の間御助成
被成下漸々少しは泥を取片付小屋掛等いたしける故、
其後は五月朔日まで十日の内壱人前米五合宛被下置一
……地震潰れ水差入りの分は多少に従ひ御救金被成下
置る、しかのみならず、夏作不残流失しける故、兼て
御郡中に御積置給ふ社倉石此度配分被下、秋作取入れ迄
心支へ無之様御助力……」
5 飲料水
 食糧と共に飲料水もまた緊急欠くことのできないもの
である。水害は水に浸って飲料水に困るのである。
 当時は皆大小の井戸水を使用していたのであるが、水
没した村々ではそれを使うことができない。村々の避難
した場所に当って見ると、その近くに必ず水がある。山
麓の小沢や涌水があって飲むことができた。急難の避難
であっても水のある近くへ小屋掛をしたのである。炊事
の水だけは確保したのである。
 今日上水道が普及しているのであるが、大地震の時は
どうなるであろうか、みんな毀れてしまうであろう。現
在信州新町では上水道一、五〇〇戸、簡易水道三〇〇戸、
無水道地域が六〇〇戸で井戸や涌水を使用している。
 竹房村ではいま上水道が入っているが、もし弘化の時
のような大地震が起ったとすれば毀れてしまう。いま水
道を併用しながら使っている井戸は五つである。そのま
ま放置してあるが使えば使えそうなものは三〇で、潰れ
たり壊してしまったのが一八である。
 震災の時は、飲料水はどうなるか対策をしっかり考え
ておかなければいけない。昔大切にしていた井戸や水源
は無用視したり無下に潰してしまわないで、大事に保管
しておきたいものである。
 弘化大地震による湛水地域のことを考えてみたのであ
るが感ずることは、文明が進歩することによって生活は
便利になっていくが、弘化大地震のようになると被害は
減少しているというよりも増大しているのではないかと
いうことである。電気・ガス・水道が止ってしまった時
のことを考えればわかる。
 昔のこの時の生き抜いた人々のことを考えれば、避難
後の住居と食糧と飲料水の確保が絶対に必要である。行
政においても個人の家庭においてもそれを配慮した長期
的対策が必要であろう。 (信州新町竹房)
弘化大地震の川中島平の被害と松代藩の善後策
大室昂
 この記録は、川中島平の上堰、中堰、下堰の被害を中
心にして、その周辺の村落や田畑に与えた影響について
の記録です。
 小松原村(現篠ノ井小松原)の吉岡運右衛門氏によるも
のと言われ、それを大正三年頃更級郡の郡長であった津
崎尚武氏が整理し、まとめたものと伝えられます。「上中
堰、沿革史」の中に収められていますが、わかりやすく
口語に改めました。
 三堰開発後、だん〳〵灌漑反別が増加すると共に、犀
川本流の変遷があって、揚水事業は次第に困難となり、
水路修築費用が増加して来た。特に弘化年度における善
光寺平の大地震によりて、ここに用水事業は一大打撃を
受けるに至った。時は弘化四年三月二十四日の夜、亥刻
(午後十時)に始まって暁に達し震動数日に亘ってやま
ず、其勢は猛烈で、地裂け山崩れ、家屋を潰し、人畜を
害し火災は到る処に起った。特に犀川筋山平林(今の更府
村)の内虚空蔵山の大欠壊によって、犀川は全く堰き止め
られ、国道筋の丹波島の渡舟場も干上がって、人馬皆こ
の大河を徒歩し得るに至った。大震動の余波は尚日夜に
継続して人は皆びくびくしていたのに、更に堰止められ
た水が何時襲来するやも測られず、一層不安になった。
山の崩壊は二か所で、一は三十町、一は五町許で、河水
は次第に高くなり危険刻々に加わって来たので、松代藩
は、水除け普請の為め関係村落より十五才以上、五十才
以下の男子たるものは皆これを犀口に召集し、石俵材木
土俵等を堆積して堤防を高め以て洪水の侵入を喰い止め
ようと図った。当時の崩壊地は独り虚空蔵山に止どまら
ず、犀口の対岸、小市村の真神山も、亦、高さ二十間、
南北八十間、東西五十間程も欠壊して川に押し出して居
り、その為に川幅は僅かに七間許りに狭まっていたから、
人夫を督励してその排除に努めたが、大石が多くて工事
容易に進渉しなかった。
 かくて一方に堤防を修めて汎濫に備え、一方には土石
を排除して疏水を図ろうとしたが人力の到底及ぶ所にあ
らず、二十日間ののち遂に四月十三日の夕刻七ツ時(午後
四時)に至り、差しも頑強な湛えも遂に水勢に敵せず欠壊
し、濁流は一時に川中島平に殺到し、二里四方の平原忽
ち漫々たる一大湖水と化し、千曲川の平水より増すこと
二丈余となり、下流川東・川北一帯は皆水中に没した。
水勢は激烈で、先に地震により川式に押し出した真神山
の土石を排除して痕跡なく流し去り、洋々たる激浪高さ
六丈六尺四寸に達し、小松原村社に茂る森林も水中に没
して見ることができなかった。されば水の衝に当たった
四ツ屋村八十戸の民家は二戸を余すの外、ことごとく濁
流に洗い去られ、その他同村の被害惨状は目も当てられ
ず、田園と言わず道路と言わず溝渠堤塘いずれも殆んど
その影を留めぬようになった。
 上、中、下の三堰を始め、小山堰等の揚口も亦一面の
土石の山と変じ、濁水の引いたあとも、水路全く形を存
せず、本流は遠く北方の低所を流れ、用水全く欠乏し、
目前の苗代田は勿論、日々の飲料水にも差支える状態と
なった。松代藩は善後策として、幕府に対し金弐万両の
借り受けを請願したが、財政乏しいの故を以て金壱万両
だけ貸し下すの旨四月二十八日を以て許可せられたが、
揚水路の修復は一日も忽がせにできぬ事業だから、全力
でこれに当たるべき手配をすすめた。その為普請役の佐
藤奥三郎を出向せしめ、四月二十二日より、三堰の揚口
の修復を重点に着手せしめ、五月二十四日に至り工事竣
成、通水することができた。当時修築した堤防は前型に
よったもので国役堤防の名と共にその大半は今も残って
いる。
 最も被害の多かった四ツ屋村と今里村の一部では、田
畑の土石を排除するに、土砂と石を別に集めたので、今
日に於ても、この地方には砂山または石山として約三十
か所に小高い山が存するのは、当時の土砂を整理した処
である。
 用水路の修復に対しても、その工事の困難を測り各村
の石高に応じて割当て、人足料及び物料代を交付せしめ、
夫々督励したが、なお作毛に就ては万一を慮かって稲苗
を下付し或いは木綿の仕付をなさしむる等の注意も至ら
ざる処なかったという。
 震災と洪水とに対する松代藩の善後策は単に復旧工事
を施こしたるに止まらず、其工費の交付と共に、一面に
作物其時を失わざるに注意したるものであった。
(長野市川中島町今里)
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 別巻
ページ 205
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県
市区町村

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