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項目 内容
ID J2700130
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1847/05/08
和暦 弘化四年三月二十四日
綱文 弘化四年三月二十四日(一八四七・五・八)〔北信・上越〕
書名 〔続日本随筆大成 別巻10〕森銑三・北川博邦監修S58・4・30 吉川弘文館
本文
[未校訂](巷街贅説)塵哉翁著文政十二年自序
○信濃国大地震
(注、既出のものも含まれているが、 一応全文をのせる)
御代官川上金吾助御届の写
当月廿四日、昼夜快晴暖気にて、穏の日に御座候処、同
夜四ツ時頃大地震にて、信州中野条村、私陣屋構煉塀所々
震倒し、其外陣屋附近辺村々農家、手弱の分は下家廻り
震倒し、厳敷震動致し、暫く相立、漸々相止候処、夫よ
り少々宛間を置、不絶震動いたし、陣屋より北の方に当
り、雷鳴の如き響き有之、夜明迄の内凡八十度餘の地震、
翌朝少々静に相成候へ共、今以震動相止不申、支配所水
内郡村々の内には、潰れ家怪我人死人等も有之候由に御
座候得共、未訴出不申候、追々風聞有之趣に承候処、
同国川中島辺より善光寺、夫より南の方に当り、山中と
唱へ候一郷辺、重もの地震と相見へ、川中島は民家一村
無残焼失いたし候村々も有之、一村三四十人位より二
三百人程も、即死怪我人有之、善光寺は家並大抵不残
震崩し、其上焼失致し、大造の即死怪我人有之候、都而
往還筋は此節善光寺供養にて、夥敷旅人泊り合居候故、
死人も多分有之候由、山中辺は手遠行寄候故、様子難
相分候へ共、犀川上手にて山崩れ有之、河中留切流水
更に無之、丹波島渡し船場干上り、歩行渡致し候由、い
ざゝ越後表之儀、如何に御座候哉様子相分不申候、右は
風聞迄の儀にて、未聢と難相分候間、早速手代共差遣、
支配所潰家其外共見分吟味之上、外最寄村々存亡をも風
聞相糺、委細之義は追て可申上候、且御預り陣屋附、
同国佐久郡村々之儀も、前同様大地震いたし候得共、善
光寺辺とは里数も隔り候次第に付、相劣り候哉、陣屋幷
支配所其外最寄私領村々共、纔宛の破損家等有之候趣に
候へ共、為差儀無之、怪我人亡家等無之候由、右は不
取敢此段御届申上候、以上、
未三月廿五日 御代官 川上金吾助
御勘定所
信濃国更科郡川中島、上の[氷鉋|ひがの]北河原村百姓宮本清兵
衛は旧家にして、相応なる身柄の由、其子久左衛門年
齢二十二三、去年暮の月半より、侍の人替に来りて勤
ぬ、若気のあやまり有て、暫し古郷を離るゝものから、
元より江戸は始てにして、さのみ賤しくも育ずと見え
し、今年正月末、親なるものゝ病気迚、従弟の何某む
かひのため出府し願出たるは、国許の一事片付たると
察しぬ、聊餞別して分るゝに、仮初の名残おしみて、
今年は善光寺如来開帳あるの年操(ママ)なれば、我家を宿り
として必参詣し給へ、彼みてら迄は一里に過ず、左右
有ば御迎に参らん抔、無造作にわかれ去しが、此度の
震はいかにや、よしや命に障りなく共、震災を遁れ難
からむ、
因に記す、過し年越後の大地震は、文政十一子年十一
月十二日にして、今年二十年目也、又洛中の大震は、
文政十三寅年七月二日にして、其夜二百八十餘度、十
七八日頃迄日々五七度は震へりと、帝都を始堂上の
館々、神社仏閣震崩す、
巷に鬻ぐ物の写、爰に記すは早く売出す物にして、追々に増補し、後には幾通りも板行して売る、
夫天地の変動は、陰陽じゆんくわんの多少による物に
して、更に人力の納むべきものにあらず、弘化四未の
歳三月廿四日夜四ツの頃ほひ、江戸を始其外地震あり、
其もとは信州水内郡善光寺より北の方、吉田宿いなつ
み村、山口、西条、荒井宿、徳間村、新光寺、神山中
宿、高坂むれ宿、小ふるま、大ふるまは甚しく、黒姫
山に至る南の方、石堂村問御所中御所、あらき村、わ
だ、かざま、松岡、新田、上高田、下高田、権堂町、
柏原、此近辺人民牛馬多くそんじ、高井郡に至り東の
方、小ふせ宿より、すさか御城下近辺、大地さけて土
中より水涌出、にげ迷ふて人多く死す、更科郡丹波島
近辺より、東西九十餘村、おば捨山辺は別して強く、
大地さけ土中より煙りの如く気吹出、眼をさへぎり落
入者多し、はに品郡松しろ御城下近辺七十餘村、小さ
がた郡上田御城下近辺百四十三ケ村、追分、かるい沢、
くつかけ、上州口迄、此辺山中うごき、音ありて雷鳴
の如し、筑摩郡松本御城下近辺百餘村、殊に震ひ強く、
西方みたけ山より塩尻まで、皆家居震倒し人馬多く死
す、諏訪郡高島御城下、西の方百四十餘村、此内すわ
の海あふれ上りて、人馬家々多く震り流す、佐久郡弥
強く、家蔵大地へめりこみ死人多し、安曇郡北の方百
三十餘村破損多く、此外悉くは筆紙に尽しがたし、村々
在々老たるを助け幼きを連て、めう火にむせび泣さけ
ぶ声、天地に響きて夥し、殊更に善光寺如来当時開帳
まし〳〵て、諸国より参詣群集なれば、又怪我も多し、
其騒動大方ならず、此大震に善光寺坊舎も、残りなく
震倒したれ共、御堂はつゝがなくおわす事、三国一体
の霊仏と申べし、廿五日に至り追々に漸く震納りぬ、
御代官御地頭より御手配ありて、人民を助け出火を取
鎮め、大水をふせぎ給ひ、爰においてやう〳〵に安堵
の思ひをなせり、前代未聞の珍事なれば、其荒増をし
るす、
神国のしるしぞ見えてかしこくも震納めたる万
世の御代
地は[震|ふる]ひ山は[崩|くず]るゝ世の中に何とて[弥陀|み だ]はつれ
なかるらん
此度は[床|とこ]も取あへず[潰|つぶ]れ[家|や]のもみあふ人は[壁|かべ]の
間に〳〵善光寺しなのでなくて[死|しぬ]のとはゑんぶだごんの
一言もなし
はる〴〵の道を詣でし善光寺[地震|ぢしん]にあふてとん
だけちゑん
[草臥|くたびれ]ぞん、[路銀|ろぎん]がそん、[命|いのち]が大そん、
是をや三[損|そん]のむだ[如来|にょらい]とやいわん歟、
大地震急難御救拝借金之儀奉伺候書付、
御代官所当分御預所、
惣高五万八千三百六十二石九斗二合二勺
内高一万七千七十六石二斗九升二合
中野村外八十一ケ村無難の分
村高四万千二百八十六石六斗一升二勺
潰れ家二千九百七十七軒

七十七軒、身元可成之者共、無難之者助合村之分、
村々除之、
二千九百軒、信州高井郡、水内郡御代官所御預所九
十一ケ村、
十六軒、土中へ埋り相知不申分、
二千六十三軒、潰れ家、
七百三十七軒、半潰れ家、
但、半潰の分家作木品悉く折砕け不用立、潰家同様
に御座候、

潰高札場 十二ケ所
潰堂宮寺 四十六ケ所
潰郷蔵 二十二ケ所
潰土蔵 三百三十一ケ所
潰物置 九百十四ケ所
死失男女 五百七十八人
怪我人 千四百六十人
内片輪に相成、農業相(ママ、兼欠カ)成候者多分有之、
旅人 二百人餘
三月廿四日夜同所止宿、善光寺参詣の者か、地
震にて焼死、
斃馬 百五十六疋
斃牛 二疋
右は文中に有と雖も見安からん為に爰に朱書きす、
右は、当三月廿四日大地震にて、私御代官所当分[御預|あづかり]
[所|しょ]、信濃国高井郡水内郡村々[災害|さいがい]之始末、御届申上置、
[早速|さっそく]手附手代共差出、私義も[廻村|くわいそん]いたし、[災害|さいがい]之様子
見分仕候処、誠に以[絶|たへ][言語|ごんご]候[奇変|きへん]之[体|てい]、[恐怖|きゃうふ]見に[不|ず]
[忍|しのび]、地面[割裂|われさけ]七八寸より五六尺餘、数十間づゝ[筋立開|すじたちひら]
き、土[割|われ]目より[夥敷|おびたゞしく]黒赤色等の[泥|どう]水吹出し、[歩行|ほこう]相成
兼候場所多く有之、其上所々[崩|くづ]れ、[土砂|どしゃ]雪水[押|おし]出し、
大石[転|ころ]び[落|おち]、田畑[共悉|こと〴〵]く[変地|へんち]致し、多分の[損|そんじ]所相見、
村々用水路者所々[欠落及|かけおちおよび][大破|たいは]、[或|あるい]は[床違|とこちがひ]に相成候場
所も有之、水[乗|のり]不申、用水干上りに相成候村々多く
有之、谷川[土砂押|どしゃおし]出し[震埋|ふるいうめ]、所々[欠落及|かけおちおよび][大破|びたいは]、水行
を[塞|ふさ]ぎ、[平|ひ]ら一面に[溢|あふ]れ出し、[泥|どろ]水[押流|おしなが]し、且[潰|つぶ]れ家
の儀、何れも家[並平押|なみひらおし]に[潰|つぶ]れ、[桁梁矧臍|けたはりいわんやほぞ]など其外[建|たて]
[具類|ぐるい]打[砕|くだ]き、[家財|かざい]諸道具は[悉|こと〴〵]く打こぼち、[銘々貯|めい〳〵たくわ]へ置
候[雑穀|ぞうこく]の類は、[俵物押崩|ひょうものおしくづ]し[散乱|さんらん]致し、吹出候[泥|どろ]水を[冠|かぶ]
り、中には土砂に[押埋|おしうづみ]候分も有之、[最初|さいしよ]見廻り候頃
は、村々共[小前|こまえ]は[勿論|もちろん]、村役人共迄本心を取[失|うしな]ひ、[更|さら]
に[跡|あと]取片付の心得も無之、[銘々潰家|めい〳〵つぶれや]前に家内一同[雨|う]
[露|ろ]の手当も不致、日々[途方|とほう]に[暮忙然|くれぼうぜん]と致し居、私を見
請[狼狽|うろたへ]、[頻|しきり]に[落涙難|らくるいがたく][止悶絶|とゞめもんぜつ]いたし、[尋|たづね]候[答|こたへ]も出来兼
[打伏|うちふし]居、[小前|こまえ]老若男女共は[泣喚|なきさけび]居、[怪我|けが]人共は[夥敷|おびたゞしく]
[倒|たお]れ、[苦痛|くつう]罷在候有様、筆紙に難申上、甚以[不便至|ふびんし]極
[歎息|たんそく]仕、何れの村々も同様の次第にて、[差当夫食備|さしあたりぶしょくそなへ]
有之候者も、[潰|つぶれ]家下[殊|こと]に[泥水|どろみず]を[冠|かぶ]り、[容易|よふい]に取出し候
儀も出来兼、[小前|こまえ]末々に[至|いた]り、[夫食|ぶしょく]手当無之者共は猶
[更|さら]の義、[呑|のみ]水は用水を[用|もち]ひ来候処、[泥|どろ]水[交|まじ]り相成、[飢|き]
[渇|かつ]におよび候処、[自他|じた]村々[一般|いっぱん]之[危難|きなん]、助合候方も無
之候間、当日[救|すくい]方[夫食|ぶしょく]の手当等、[及|およ]び候丈は致し遣候
へ共、百ケ村餘之儀、中々惣体遠方迄私[自力|じりき]に届兼候、
身元可成の者共[迚|とて]も、[潰|つぶ]れ家[災難|さいなん]にあひ候事にて、[奇|き]
[特|とく]の取計筋も出来兼、[無|なく][拠|よりどころ]郷蔵[囲|かこ]ひ[穀|こく]等を以、手代
共手[配廻村|くばりくわいそん]為相渡罷在、陣屋[最寄|もより]村々の分は、中
野村松川村寺院社地境内へ小屋掛致し、[極難|ごくなん]の者共[救|すく]
ひ置候儀に有之、且追々村々人民牛馬、死失[怪我|けが]等相
[糺|たゞし]候処、男女死失五百七十八人、怪我人千四百六十人、
右之内[片輪|かたわ]に相成、[農業|のうぎゃう]相成兼候もの共多く有之、
斃牛二疋、斃馬百五十六疋、右之内善光寺へ参詣致し
候者か、三月廿四日夜同所止宿、地震にて焼死候者二
百人餘有之、多分人[絶|たへ]に相成、[災害|さいがい]村々之分、人別二
分七厘の減に相成、支配所高五万八千三百石餘の内、
[無難|ぶなん]の村々高三分内ならでは[残|のこ]り不申、高七分餘は[災|さい]
[害|がい]村にて、何共[歎敷|なげかわしく]義に御座候、[差向|さしむき]村々用水[路|みち]手
入不仕候ては、[呑|のみ]水に[差支|さしつかへ]、且田方用水[肝要|かんよう]の時節に
付、何れにも[難|がたく][捨置|すておき]、取[繕|つくろ]ひ不申候ては、[苗|なへ]方は[勿|もち]
[論|ろん]、[無難|ぶなん]の田地[植付|うへつけ]にも差支候処、[場広|ばひろ]大[破|は]の儀に付、
中々[自力|じりき]におよび不申、火[災|さい]等の[難|なん]共[訳違|わけちが]ひ、家々田
畑山林等迄[覆|おほ]ひ候大[災|さい]にて、[然|しか]る中、水内、高井両郡
は別て大地震[痛強|いたみつよ]く、捨置候而は皆潰亡所に相成、
村々多人数一命に[拘|かゝ]はり候、末々御[収納|しゆのう]御[国益|こくゑき]を[失|うしな]ひ
[不|ならず][容易|ようい]義、[迚|とて]も御[救|すく]ひ不下置候ては、何共可仕様
無御座候、且右大地震にて北国[往還|わうくわん]、丹波島渡船場
より凡二里半程川上、真田信濃守領分、平林村地内[字|あざ]
[虚空蔵|なこくうぞう]山より、凡二十町程の処、山[抜崩|ぬけくず]れ[犀|さい]川へ[押|おし]出
し[埋|うま]り、川[幅|はば]を〆切候に付、流水を[堰留|せきとめ]、水[湛|たゝ]へ、当
時川上村々平地へ水[押開|おしひらき]候へ共、[湛満|たゝへみち]切れ候はゞ、[自|し]
[然|ぜん]何様の[洪水|かうずい]に可相成哉[気遣敷|きづかわしく]、[支配|しはい]所[千曲川|ちくまかわ]縁
村々、心得のため申越候旨、信濃守家来より掛合有之、
右[故|ゆへ]当時千曲川、平水より七八尺[減水|げんすい]いたし居、川筋
村々[心配|しんぱい]致し、山[添|ぞひ]高[場|ば]へ立[退|のき]居候、[切開|きりひらき]候はゞ[如何|いかゞ]
可有之、数日[洪水溜|かうずいたま]り候を一時に[押流|おしなが]し候はゞ、又
候水[害異変|がいいへん]出来可申と、[殊|こと]の外人気[不|ならず][穏|おだやか]、心[配|ま]仕候
義に奉存候間、前書申上候[災害極難|さいがいごくなん]に陥候次第、得と
御[賢察|けんさつ]被成下、[相続|さうぞく]方幷[自普請|じふしん]所用水路大破に付、金
二千五百両書面の村々へ、急拝借被仰付被下置度、
左も無御座候ては、[迚|とて]も[相続|さうぞく]筋[手段|しゅだん]無之、万一此上
[難渋|なんじう]に[迫|せま]り、心得違人気立候様相成候ては、恐入[深|ふか]く
心配仕候義に御座候間、支配所村々の者共儀は、昨年
来同国他の支配所に無之、御[国恩|こくおん]を相[辨|わきま]へ、[定免増|ぢょうめんまし]
[米|まい]上納相願、[実|じつ]以[良民|りゃうみん]共[空敷|むなし]く[退転|たいてん]致させ候段、[歎|なげか]は
しく奉存候間、御仁恵の御沙汰を以、年[賦拝借|ふはいしゃく]被下
置候様仕度奉存候、然上は、右拝借金村々高に[応|わう]じ
[割符貸|わっぷかし]渡し、年賦返納等の儀は、別紙を以追て相伺候
様可仕候間、[急速|きうそく]伺之通拝借被仰付、御下げ金被成
下候様仕度奉存候、依之災害村々一村限帳一冊相
添、此段奉伺候、以上、
弘化四未年四月 高木清左衛門
御勘定所
右、御代官高木清左衛門、三月晦日四月四日御届書も
見候処、同様の事に付爰に省く、但晦日御届之内に、
本多豊後守居城飯山町城下は、支配所最寄に有之処、
町家不残震倒し候上、所々より出火にて、城下皆焼失
候由に有之、四日の御届中に、今以折々震動、昼夜十
四五度づゝ、対したる地震には無之候へ共、強弱有
之と見ゆ、当日より十日餘り也、
出役御普請役より文通の写
去る十五日、中の条村へ参着仕、翌十六日御勘定方一
同同村出立、[犀|さい]川通り小松村泊罷越候、右[途中矢代|とちゅうやしろ]宿
迄は格別の事も無之、[潰|つぶ]れ家も無少、田畑道[割裂|われさけ]候
処も[薄|うす]く、[壁|かべ]など少々落候位に有之、[矢代|やしろ]宿にては[潰|つぶ]
れ家相見へ、夫より[千曲|ちくま]川を渡り、塩崎村へ[移|うつ]り候所、
次第に[割|われ]相見へ、大地を[持上|もちあげ]、村中多分の[潰|つぶ]れ家有之、
焼失も有之、[途中|とちゅう]小松原村の方へ[近寄|ちかより]候[程|ほど]、[割|わ]れも大
きく、岡田川と申は、両[縁堤|ふちつゝみ]川床より[低|ひき]く[震崩|ゆりくづ]れ[干川|ひかわ]
に成、川床八角十文字に[割|わ]れ[持上|もちあげ]、或は[減|へ]り[下|さが]り大乱
と相成、川中島は大変地の上に水入民家[潰|つぶ]れ、[残|のこ]りも
[押流|おしなが]し、且[地震|ぢしん]にて[怪我|けが]人死人等も[夥敷|おびたゝしき]上に、猶又水
死多く、[未|いま]だ人別等何程の死失に候哉[調|しらべ]出来[難|がた]く、小
松原村[向|むか]ふ小市村との間を[犀|さい]川流れ、[山間|やまあい]より川中島
へ出口両山[崩|くず]れ落、[彼虚空蔵|かのこくうぞう]山の[崩|くず]れ、[磐石|ばんじゃく]の如く[堰|せき]
[留|とめ]、水丈二十一丈相[湛|たゝ]へ、場所[押流|おしなが]し候[水勢|すいせい]にて、前
[山間|やまあい]へ出口にて、水[嵩|かさ]六丈餘の高さにて、水鼻[押出|おしいだ]し、
[神明|しんめい]の山中を[押抜|おしぬき]、[堤|つゝみ]は[悉|こと〴〵]く[押|おし]切[散瀬|ちりせ]と相成、[滝|たき]のご
とく相流れ、いまだ平水より水[嵩登|かさのぼ]り居、言語に難尽
事に御ざ候、同所に[旅宿|りょしゅく]無之、山[中腹|ちうふく]に寺有之、此
寺も地震にてゆがみ候へ共、可成に付御勘定方一同合
宿いたし、[賄|まかない]は領主より参り、[膳椀抔|ぜんわんなど]夫々取[集|あつ]め、[陣|ぢん]
[中|ちう]の如くの体にて一夜を明し、[翌|よく]日に相成、御勘定方
幷佐藤氏には、[犀|さい]川切込[変地亡所|へんちぼうしょ]の場所見分に被参、
私儀は[虚空蔵|こくうぞう]山の[押抜|おしぬき]水、[干落|ほしおとし]の様子見届として出張
仕、三里餘の間可成高き山にて、里より[登|のぼ]り候事一里
餘、追々[登|のぼ]り候[途中|とちう]の山に成候ては、[割裂|われさけ]里よりは一
[倍|ばい]に相成、[絶頂|ぜつてう]へ[登|のぼ]り候得ば、長さは十町も十五町も
有之、[幅凡|はゞおよそ]五間程、[深|ふか]さは一丈八九尺より二丈四五
尺位の[割裂|われさけ]多分有之、[潰|つぶ]家[数千軒|すせんけん]の事にて、中々難
尽筆紙、黒沼村と申候村方は、山の[中腹|ちうふく]に有之候所、
村頭の山[崩|くず]れ少し下より[崩|くず]れ一村丸に土中と成、民家
は不及申、老若男女共[不残|のこらず]土に[埋|うま]り、[漸|ようやく]二人[助|たすか]り
[逃|にげ]出し候儀の由、[誠|まこと]に[歎敷|なげかわしき]次第、又中には[割目|われめ]に家は
まり、是も[住居|すまい]候人々は、[悉|ことん〴〵]く[生埋|いきうづめ]に相成候由、誠に
以言語に述がたく、[餘事|よじ]の[珍事|ちんじ]は[咄|はなし]より[評判|ひゃうばん]より事[小|ちい]
さく候処、此度の[地震|ぢしん]は[咄|はなし]より事大きく、[場所|ばしょ]様子は
書面にも咄しにも致し難く、[実|じつ]に大[変|へん]の事に御座候、
夫より山平林村へ参り候、[虚空蔵|こくうぞう]山と申は、下より一
里餘[登|のぼ]り申候高山にて、右[絶頂|ぜつてう]へのぼり見候処、[嶺|みね]を
[幅|はゞ]七八尺位[残|のこ]し、[切立|きつたて]に左右へ[崩|くず]れ[落|おち]、[中腹|ちうふく]に小山幷
[分郷|ぶんけう]有之、夫を其[儘|まゝ]に谷へ[押落|おしおと]し、[絶頂|ぜつてう]に有之候道、
木立の分、[凡|およそ]十五町程先に有之候[向|むかふ]の山[脇|わき]へ[押付|おしつけ]、
[中腹|ちうふく]に有之候岩山を[犀|さい]川へ[崩|くず]れ落、川を〆切、[磐石|ばんじゃく]
の如く相成、廿日近く水[湛|たゝ]へ、二十一丈迄水[嵩|かさ]み、水
上松本領二三ケ村[水腐|すいふ]致し、時日水[干方|ひかた]の所にては、
平水より六丈餘相[湛|たゝ]へ居、其辺川床[埋|うま]り中島出来、右
川敷は山[崩|くづ]れにて[押埋|おしうづま]り、当時新川敷と相成、[幅|はゞ]三十
間程の間、右の中島[幅|はゞ]十間程、[黒岩|くろいわ]の如き物出来、[二|ふた]
[瀬|せ]にて水滝のごとく相流れ、[其姿|そのすがた]は日光[大谷|たいや]川位の[勾|こう]
[配|ばい]にて相流れ、[至|いたつ]て物[凄|すご]く、いまだ河上は二里程相[湛|たゝ]
へ居、松[代|しろ]領新町と申村方半分水附、床上へ水附居、
此四五日の内水干落無之候得ば、往々二里程の間水中
と相成可申[迚|とて]、[心配|しんぽい]いたし居申候、水内橋と申も[落橋|らくきゃう]
いたし、左右[欠崩|かけくず]れ、古形[更|さら]に難分儀に御座候、其外
山[中腹|ちうふく]に有之候民家、十町餘も[押|おし]出し、谷を[埋|うめ]平地と
相成候場所不少、家は地震にてよぢけ候[儘|まゝ]、底[抔|など]も其
儘立木[枝折|ゑだお]れもなく、其[儘遥|まゝはるか]に先へ[押|おし]付候も有之、[実|じつ]
にあきれ[果|はて]申候、右の次第にて村々人気相立、金銀衣
類も不残[失|うしな]ひ、米一[粒|りう]麦一[粒|りう]も無之、領主より小屋
掛、[諸色|しょしき]手当致し小屋に入、所々にて[焚出|たきだ]し致し[凌|しのが]せ
置候、松代城も[震|ゆり]こわし、餘程の[破損|はそん]の趣にて、明日
城下へ参り見分候積にござ候、稲荷山は過日申上候通、
[震潰|ゆりつぶし]出火いたし、是も[憐|あわ]れの[体|てい]に御座候、領主[夥敷|おびたゞしき]
入用と見請申候、
松本城[悉|こと〴〵]く[震潰|ゆりつぶし]、若殿死失之由、家中十人程死失御座
候、
松本の城は山の上に有之候由之所、一丈八尺城相下
り、城下の市中は五尺餘地面上り候趣、実事に御座候、
明日は[犀|さい]川、[千曲|ちくま]川へも、[水難|すいなん]の様子、切所の様子見
分の[積|つもり]、追々中野[陣屋許|ぢんやもと]へ参り候間、猶見分之趣[後便|こうびん]
可申上候、善光寺は多分の事にて、土地の者九千人
餘死失、[旅人|りょじん]は何程に候や数相知不申、是又九千か一
万人位の事と、皆々[推察|すいさつ]にござ候、
市村氏在所相島村も、地震にては[潰|つぶ]れ家死人も無之、
乍併十三日の水にて、[堤悉|つゝみこと〴〵]く[押切|おしきり]、[床上|ゆかうへ]四五尺水入、
小前の物三四人流死いたし、□□二[軒流失|けんりうしつ]の趣、御預
所役人申聞候、同人宅は[怪我|けが]人無之由、右之段、荒増
申上候、云々、
四月十八日夜 大次郎
要 助様
尚々当国未だ四方の山鳴響、一日に五六度づゝ地震有
之候、此一両日は少々薄らぎ申候、尚追々可申上候、
云々
冠狂下も百人首
[歎|なげ]くとて[帰|かへ]らぬものとおもへども
かこち顔なる我なみだかな
親や子のけふは七日よ四十九の
うきにたへぬは涙なりけり
[地震|ぢしん]して[跡|あと]は[野原|のはら]と成にけり
たヾ有明の月ぞ残れり
あちこちと吹出したる[泥|どろ]水は
われても末に逢んとぞ思ふ
[苗代|なわしろ]も[震崩|ゆりくず]したる[埋|うも]れ田に
哀れことしの秋もいぬめり
[妻|つま]や子が[尋|たづ]ねて来ても死わかれ
かひなく立ん名こそおしけれ
[尋|たづ]ぬれど[問|とふ]人もなき[焼野原|やけのはら]
今一度の逢事もがな
夫ぞとはしらで参りし善光寺
けふを限りの命ともがな
[泊|とま]りたる[宿|やど]も[焼|やけ]のと成にけり
なほうらめしき朝ぼらけかな
開帳でしぬも前世の[約束|やくそく]と
人をも身をも[恨|うら]みざらまし
我ばかりつれなく友に死わかれ
あまりてなどか人の恋しき
三[尊|そん]のみだはさぞかし[歎|なげ]くらん
人の命のおしくも有かな
浅間山のけぶり立止て、其火気地に鬱伏して、
此度の震災ありと流布せるに、
三とせあまり[浅間|あさま]の[煙立|けぶりたち]やらで
[信濃越後|しなのゑちご]の[震|なへ]のはげしき
東山道信濃十一郡並城下八所、
[諏訪|スワ] 高島 [筑摩|チク マ] 松本 [安曇|ア ヅミ] [更級|サラシナ] [埴科|ハニシナ]
松[代伊奈|シロイナ]飯田、高遠 [水|ノ]内飯山 高井
[小県|チイサアガタ] 上田 佐久 小[諸|モロ]
信州大名、
埴科郡松代城主、十万石 真田信濃守
拝借金一万両、
筑摩郡松本同、六万石 松平丹波守
小県郡上田同、五万三千石 松平伊賀守
諏訪郡高島同、三万石 諏訪伊勢守
水内郡飯山同、二万石 本多豊後守
拝借金三千両、
伊奈郡飯田同、二万石 堀左近将監大和守息
佐久郡小諸同、一万五千石 牧野遠江守
須坂陣屋、一万五千三百石 堀長門守
拝借金千五百両、
伊奈郡高遠城主、三万三千石 内藤駿河守
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 別巻
ページ 197
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