[未校訂](七) 寛政四年の大津波
寛政四年(一七九二年)四月[朔日|ついたち]の日暮に島原の[眉|まゆ]山
(当時は前山といっていた)が崩れ落ちて、大津波を起し
た。島原町を中心に隣接の村々が大被害を受けたのは勿
論の事であるが、この大津波を真正面に受けたのは肥後
藩であった。北は玉名郡から飽託郡、宇土半島そして天
領の天草の北岸まで、有明海に面した一帯に有史以来の
大災害をもたらしたのである。この大津波は、文字どお
り「島原大変、肥後迷惑」であった。
津波の起る前から、地震は続いていた。前年の寛政三
年十月八日の地震をきっかけに、毎月三、四回の地震が
起り、翌四年一月十八日の夜、温泉岳(雲仙岳)の大噴火
が起った。二月九日に溶岩を噴出したあと、三月中旬に
地震はやっとおさまった。ところが四月一日の午後七時
頃大地震が起り、大音響とともに眉山の前半分が[裂|さ]け、
崩れ落ちた土砂は村々を埋めつくして有明海に流れこ
み、大津波を起したのである。津波は肥後の海岸に押し
よせ、反転して島原の海岸を洗い流し、二度三度うち返
す間に肥後の海岸も島原の海岸もことごとく洗い流して
しまった。旧四月一日だから大潮であり、午後七時頃は
満潮に近い時刻だっただけに、津波は一段と大きくなり
大災害を起したのであった。
当時の記録によると被害の状況はつぎの通りである。
○肥後藩の被害 (寛政両変記)
家屋の流失 三、二五二戸
田畑の流失 二、一三〇町九反歩
海岸堤防の決潰 六、三五〇間
溺死者 五、二二〇人
怪我人 一、三〇七人
津波によるその年の減収高
三六万九、八〇〇石
○島原藩の被害 (島原大変記)
家屋の流失 三、三四七戸
溺死者 九、六四〇人
怪我人 七〇七人
牛馬の死 四九六匹
田畑の流失 三七八町歩
○天草郡の被害 (高波記)
家屋の流失 三五三戸
溺死者 三四三人
田畑の流失 六五町八反歩
牛馬の死 一〇九匹
フェリーに乗って島原港に入る時、左右に松の緑の美
しい小島がたくさん見られる。この島々が、崩れ落ちた
眉山の一部である。眉山は今も尚、荒々しい白い岩肌を
見せてそびえている。陸続きになっているが、簡易保険
保養センターの建っている山もホテルの並ぶ丘も、みな
眉山の爆発でできた小山である。島原港外の島々を九十
九島というが、たくさんの島という意味で、いずれも眉
山の分身である。
有明海に面する三角は、どのような被害を受けたのか、
津波を物語る碑が二つある。
一、津波境の碑
碑は大田尾のバス停から凡そ二百m、海抜二〇m位登
った字大川の道路ぞいの畑の畔に、海に面して建てられ
ている、津波はこの碑のところまで、押し寄せたという。
金助については詳らかでは
ないが、大田尾居住の、魚
田謙太郎さんの曽祖父にあ
たるとのこと。
二、「釈尼妙有」の墓
昭和五十四年八月に発見された。寛政四年四月朔日の
文字は、津波の被害者である事を証明している。御番所
の定番であった大槻家によって建てられたもので、大槻
家で代々祀られてきた。大田尾から大槻家に奉公に来て
いた者である事を物語っている。多くの溺死者の中で、
当時の墓が見つかったのはこの人だけである。
三角の被害について、県立図書館蔵の、上妻文庫「両
肥大変録」には次のように記録されている。
島原表大変の儀、外聞仰せ付けられ、一昨二日、夜[汐|しお]
に出船仕り、先づ瀬戸内より三角の様に[罷|まかり]通り申し
候。瀬戸内も家財等流れ散じ候に付、夜舟の乗り方舟
[加子|かこ]共甚だ難渋仕り、漸く三角へ昨夜明方乗り付け、
かなの浦見分仕り候所、浦御番大槻仁右衛門殿御番宅
も相見え申さず候百姓[竃悉滅|かまどしつめつ]、磯部に荒垣結い廻ら
し、その内に男女死[骸|がい]廾四、五人も御座候。少し入り
込み山手に引き上り、家少し相残り居り申し候に付、
家に立寄り死人の様子尋ね申し候処、死人数当時迄九
十四、五人もある可く御座候由、[朔日|ついたち]の暮過ぎ津波に
寛政四年朔日戌刻
津波境
歳二十七金助立之
て、大槻仁右衛門殿家内衆上下六、七人の内、嫡子勘
十郎殿、孫夘太郎殿まで生き残り、衆其の外は一向相
知れ申さず、[尤|もっとも]仁右衛門殿姑福田新之允殿御母儀参り
おられ右の死骸は相見えず。
一、三角御番大槻仁右衛門両親及妻子供三人死亡、
妻の死骸は今もって相知れず、五人は昨日西岸寺
に葬り候、子供三人一つ棺に入れ候。斉藤権之助
姑にて、昨五日世話致し葬り候。
一、肥前船昨日入津二丁に居り候由。島原は御城半
分残り候町家壱軒も相見え申さず候。
一、同所遠見ノ御番所に[罷越|まかりこし]申し候所、川口弾次と
申す[仁|じん]に対面仕り候所処、右の御番所は、磯部山
手高さ七十間程も有るべく御座候処、御番所の窓
より波入り候由にて、母一人[忰|せがれ]一人死申し候由に
て、母は家崩れ候節、家に敷かれ死に申し候由、
弾次居宅は少し山かげにて、家倒れ居り申し候。
御道具等も未だ家より出申さず、心遣い仕り候段
物語り仕り候。
一、三角定番大槻仁右衛門家宅も、従類共只一波没
溺し、嫡子何某、[菅|すが]の如くたゞよひ居り候内、肩
にかかる物あり、岸涯に打ち上げられて見れば、
八歳の幼息也と言う。
一、友岡宇之允大槻が[聟|むこ]なり、大槻菩提所西岸寺(熊
本市高田原)なる故、大槻方の死骸残らず棺に納め
て、大槻聟友岡方につき来たれば、妻女これを見
て父母兄弟の棺五つ並べたりしに依り、悲しみに
絶えず[悶絶|もんぜつ]すと言う。
一、御奉行松下久兵衛津波の在所々々出所見分あり、
且御郡代その懸り懸り出張して、御救米を渡し下
され、残りおる所の人民分散なき様にと再諭すと
言う。
一、三角浦御番に当分石川源之進を差し遣わすと云
也。
一、三角浦 百四十五人死人、家壱軒残る。
一、大田尾 一、小田良 此の村見ず
一、御高礼四ケ所流失(三角、戸馳)
一、汐入荒地
宇土郡 郡浦手永 一三五町
松山手永 一四一町
一、塩浜 二〇町八反
以上のように記録されているが、災害の重大さに驚い
た藩庁では、さっそく一二七〇石取りの[大身|たいしん]松下久兵衛
を奉行に任命して、非常対策に当らせた。奉行から[郡代|ぐんだい]
へ、郡代から惣庄屋へ、それから各村々の庄屋へと、難
民救済の命令が伝えられた。
三角には、三日の明け方にコギ舟で調査団がきている。
『二日の夜汐に出舟、瀬戸内をへて三角へ、三日明け方
乗りつけ候』とある。「瀬戸内」は今の西港、中神島より
一号橋下まで。「湾内はこわれた家の材木・屋根のわら、
家財道具が流れただよい、船頭舟を進めるのに難渋仕り、
漸く三角浦に到着仕り候」と湾内の無残な情況を伝えて
いる。
三角浦村は藩の重要な御番所があるので、まっ先に調
査に来たのであろう。
旧暦の四月一日は、新暦では五月二十一日にあたる。
畑の麦も色づく頃、申の下刻(午後七時頃)は、一日の畑
仕事を終って家路へ急ぐ人もあり、女子供は手足を洗っ
て、楽しい夕食の時刻であった。皆それぞれ家に集って
いる頃、津波は襲いかかった。親兄弟を失い、波しぶき
にぬれ着のみ着のままで逃げのびた高所で、夕食もなく
すき腹をかかえてただ芒然としている村の人達の様子が
想像される。結局三角浦村の死者は一四五人、残る家は
一軒との記録である。
奉行は難民が離散しないように、庄屋達に申し付けて
被災者の救済にあたらせた。死者を葬ること、壊れた家
の取り片づけ、[罹災者|りさいしゃ]への炊き出し、仮住居の建築、衣
服寝具の支給、または病人怪我人の手当など、近隣の村々
の応援で[漸|ようや]くこの困難をのり越えることが出来たものと
思われる。その記録は何も残されていないが、郡浦手永
の先祖附を見ると、次のように寛政五年に藩から惣庄屋、
庄屋、医師、僧侶等に、賞詞と金壱封が渡されその労を
ねぎらっている。
救済に尽くした人への恩賞(先祖附による)
○惣庄屋 郡浦彦左衛門元満
寛政五年三月、去年四月津波一件につき窮飢御救の
こと、且塘手御普請の外諸御用出精ニ付、[作紋袷|つくりもんあわせ]羽
織一具と、金子三百疋下さる。
彦左衛門[忰|せがれ]郡浦紋十郎の出精に付、金子百疋下さ
る。(金子一疋は二五文のこと。)
○専行寺
寛政五年三月、去年四月津波一件につき出精に付、
金子百疋下さる。
○御郡医師 楊祐奄 波多村(楊 照美氏の祖)
寛政五年三月、去年四月津波の砌、怪我病人等多く
これ有候処、療治方出精いたし候に付、金子弐百疋
下され候。
祐奄忰楊元逸儀、去年四月津波即下、怪我病人等
多くこれ有候処、療治方出精いたし塘手御普請場
へもまかり出相勤め候に付、金子百疋下し置かれ
候。
○医師 田中宗雪 戸馳村(田中継雄氏の祖)
寛政五年三月、去年四月津波即下、怪我病人等多く
これ有り候処、療治方出精塘手御普請場へも罷り出
相勤め候に付、金子百疋下し置かれ候。
○医師 浜田甫碩 里浦村(浜田玄達先生の先祖)
寛政五年三月、津波即下怪我病人等多くこれ有り候
処、療治方出精仕り塘手御普請場へもまかり出相勤
め候に付、金子百疋下し置かれ候。
○波多村庄屋 岡村栄助(岡村則安氏の先祖)
寛政五年三月、去四月津波一件に付ては、その諸御
用まぬけ無く取り計らい各別出精仕り候に付、金子
三百疋下し置かれ候。
○戸馳村庄屋 松浦新内(松浦邦明氏の先祖)
寛政五年六月、去夏津波にて海辺村々難儀の様子承
わり及び出精相勤め候に付、[旁|かたがた]に対し苗字刀御免な
され御郡代[直触|じきふれ]に仰せ付けられ候。
○里浦村庄屋 高浜宇左衛門
寛政五年三月、去年四月津波一件については、諸御
用[間抜|まぬけ]なく取り計らい各別出精仕り候に付、銀三両
下しおかれ候。
○中村庄屋 積庄肋
寛政五年三月、去四月津波一件に付、御普請の節、
始末相詰め昼夜の相分け無く格別出精仕り、塘手併
びに樋等人の手だすけ出来、且流失跡の家建て[片付|かたづけ]
も世話仕り候に付、御賞作紋[麻上下|あさかみしも]一具、金子二百
疋下し置かれ候。
○一領一疋 佐田忠左衛門 石打(左田尊氏の祖)
寛政五年三月、去四月津波一件については、諸御用
[間抜|まぬけ]なく取り計らい格別出精いたし候に付、銀五両
下し置かれ候。
○一領一疋 佐田善左衛門 石打(佐田輝光氏の祖)
寛政五年三月、去四月津波一件について、諸御用間
抜け無く取り計らい格別出精仕り候に付、銀三両下
し置かれ候。
○一領一疋 岩崎十蔵 中村(岩崎家の祖)
寛政五年三月、去る四月津波一件について、諸御用
間抜け無く取り計らい格別出精仕り候に付、金子三
百疋下し置かれ候。
○一領一疋 正垣常右衞門 中村
寛政五年三月、去る四月津波一件に付、御普請の節、
始末相詰め昼夜の指別無く格別出精仕り、塘手並び
に樋所共手がたく出来致し候に付、御賞作紋麻上下
一具、金子弐百疋下し置かれ候。
○地侍 吉田伴之允 手場村底江(吉田喜代太氏の祖)
寛政五年三月、去る四月津波一件については、諸御
用間抜け無く取り計らい、格別出精仕り候に付、銀
三両下し置かれ候。
○佐藤彦右衞門 戸馳村(佐藤立行氏の先祖)
寛政五年六月、去る夏津波にて海辺村の難儀の様子
承わり及び、鳥目寸志差し出し候に付、御賞地士に
召し置かれ候。
この様にして、津波被害の救済は三角浦のみならず、
村々の堤防の修理、樋門の改築など各方面に復旧工事な
どに及んだ。
一村全滅に近い被害を受けた三角浦村は、その後永い
間貧苦とたたかわなければならなかった。それについて
三角浦村庄屋忠蔵の文書が、郡代であった網田の中園家
に残っている。それは安政二年五月の日付だから、津波
から六十三年も後の文書であるがその一部を掲げる。
覚
(前文省略)当村の儀、先年津波後零落に陥り、其の後
追々御救い立をも仰せ付けられ御願い上げ候。次第に
立ち直り候内近年不作続きにて、内輪難渋の次第見物
のとおり……。零落立ち直りのため、御百姓受持の山々
願い奉り、[槲|かし]仕立候はば往々一[稜|かど]何合に相成り申すべ
き見込みを以て、小前小前いづれも当惑の段、願出申
し候。……。
安政二年五月
三角浦村 頭百姓
同村御山口 緒方良左衛門
同村庄屋 忠蔵
郡浦新五左衛門殿
中園英之助殿
各村々の損害は熊木県潮害誌によると次の通りであ
る。
三角浦村 四十軒流失 七十四人溺死
大田尾村 十九軒流失 六十八人溺死
赤瀬村 八軒流失 三人溺死
戸口浦村 百五十六軒流失 五百三十五人溺死
下網田村 四十四軒流失 百十一人溺死
網田村 八軒流失 十六人溺死
長浜村 百五軒流失 三百九十人溺死
郡浦手永全体では千二百二十一人が溺死
(各記録されたものによって数字には差異がある)
大槻勘十郎の覚
災難にあい奇跡的に助かった勘十郎は、次の様な文章
を残している。(原文を読み易くするため送り仮名を入れ
て句読点をつけた)
覚
四月朔日の六ツ半時分(午後七時)[忰|せがれ]夘太郎、島原の
沖より高く火の相見え来し由申し喉に付、門内まで走
り出見申し候処、早門前まで山の如き波参り候に付、
御用間の内より、津波来り候に付いづれも用心致し候
様聲を立て、御書出しを取り申す所存にて、[椽|たるき]より上
り畳壱枚程も入り込み候と存じ候処、早や向うより山
の如き波家を打ち越し参り、私を直ちに打ち流し申し
候に付、御番宅も多分一同に打ち流し申したると存じ
奉り候。
右の通りの事故、両親家内共に何様相成り候共一々
存じ様御座無く候。右の通り私波に打ちこまれ候に付、
海底にていくころびともなく、打ち廻され候と覚え申
し候。然れ共兼ねて少々水練仕り居り候に付、汐を呑
み難なく海上に浮き上り申し候。右浮き上りの節、海
上に材木、屋根茅等打ちおおい居り候に付、甚だ難儀
仕って漸く浮き出申し候に付頭上の痛きづ、後に至り
波はげ申す様に相成り申し候。
右の通り難儀致し、御番宅より奥の方一町ばかり東
の方、村ぎわに浮かみ出候事に付、余程隙ひまどり申
し候と存じ奉り候。浮かみ出申し候処、呑み候潮にて
腹満ち仕り候に付、気分あしく御座候に付、[咽|のど]に指を
入れひた吐きにはき申し候に付、少しは気分よく相成
り候に付、聲を限り両親尋を呼び申し候へ共、[一向|いっこう]波
の音までにて、人声も御座無く候に付、御番と存じ候
所まで参り、弥強く声をかけ申し候処、元の御番宅よ
り四、五十間も沖より、忰夘太郎返事仕り候に付、[遇|あ]
いに参り候心得は御座候へ共、右の通り材木等海中一
面に御座候につき、容易に游ぎ申す候事相成り難く候
へ共、成るだけ精を出し声を立て参り申し候処、初め
は一之の返事いたし申し候へ共、後は返事も聞こえ申
さず候に付、最初返事仕り候処をしるべにいたし、游
ぎ参り強く声を懸申し候処、足の元より漸く少し返事
仕り候に付見申し候処、あおのけに相成りあたまは潮
にひたり、あぎより下は材木の下にしかれ、漸く口ま
で浮き候て、潮を吹きおり申し候に付、木をこじ除け
肩を取り引き出し申そうと、余程力を出し候へ共、材
木等にしかれ候て、引き上げ申す事相成り申さず候に
付、足の方なる材木をなんなく押し除け候跡で、首を
海中に押し込み、足を取り引き申し候へば浮かみ候に
付、則ち引き上げ申し候。
三角浦御番所の災害報告
三角浦定番大槻仁右衛門当四月朔日の夜
津波ニ而七十七歳ニ而流死仕り候ニ付
従類附
一、壱人 大槻仁右衛門嫡子
大槻勘十郎
一、壱人 右勘十郎嫡子
大槻夘太郎
右之通御座候 以上
寛政四年四月 斉藤権之助
石寺甚助殿
大津波によって、番所の家屋は勿論のこと、備えつけ
の武器も文書類も全部流失してしまった。
(旧番所は本町米村氏宅前の山ぎわにあったとのこと)
藩では再びこのような災害を受けないようにと、波の
届かない高台に番所を移した。移転したのは新たに備品
の届けられた同年九月のことと思われる。
海岸から拾い集められた番所の備品は、四月十日目録
と共に勘十郎に渡された。藩の備品であるために、破れ
た提灯に至るまで記載している。
覚
一、御条目 壱箱
一、御槍 壱筋
一、御船印 壱箱
但三拾枚
一、御鉄砲 四挺
内壱挺帯金本ヨリ折居申候
一、大丸提灯 壱張
一、箱御提灯 七張
内壱張ギレギレ相成居残ル
六張共損居申候
一、同棒 七本
右ハ今度流失致候ノ内追々見出申候由ニテ御引渡被
成受取申候 以上
四月十日
石川源之進
大槻勘十郎殿