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項目 内容
ID J2700093
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1792/05/21
和暦 寛政四年四月一日
綱文 寛政四年四月一日(一七九二・五・二一)〔島原・肥後〕
書名 〔年代記〕大阪市史史料第三十一輯大阪市史編纂所編H3・2・25 大阪市史料調査会
本文
[未校訂]○肥前嶋原大変
一肥前嶋原大変之噺
九刕肥前嶋原と申処ハ形三角の嶋にして、三角差渡シ
八里三方之嶋也。中に普賢山といへる泰山有。林下に
小山数多有。元此普賢山ハいおふ・明ばんの多キ山ニ
て、温泉有て近国ゟ諸人集り、此温泉の湯に入湯治す
る。去るより俗に温泉か嶽といへり。又此山に湯玉わ
き上り、或わ(は)泥抔物を煎か如くわきかへる中ニ、魚の
如く成物生ス。諸人是を地獄と呼。是元ゟいおう・め
うはんのせいなり。然ル所、旧冬普賢山の峯ゟ廿丁計
り下北之口ゟ焼出、只富士山の烟にひとし。当子ノ正
月十七日の夜、山吹崩レ火烟天をこかし、大石を飛す
こと雨ゟはけし、此音大空にミち地を震ふ。されとも
人家ゟ道法遠く放れし事なれば、初メの程ハ諸人見物
抔致けるが、段々に火さかんに成、同二月下旬ニ至、
普賢山の麓穴底谷迄焼下る。此間道法凡一里半余。去
ルにも御城下ハ不及申、在々村々大ニてんどうしさわ
きけるが、同三月朔日普賢山の下前山ゟ火もへ出、大
石を飛し天をこかす。其時ゟ地震しきりにおこり、人
家をゆりたおさんとす。元ゟ此前山は御城下の後に有
山也。人家之者、老たるを助け幼を抱て、他国へ逃去
る者数を知らす。夫ゟ廿日ニも及へともかわりし事な
く、只砂をまき大石を飛すのミにて、御城下・在々村々
も別条なし。諸人我住家なれば又々立帰る者数多有之。
され共火烟弥しつまらず。元ゟ地震昼夜を不限ゆりけ
れば、人家の者共誠ニ夢心地にて有ける所、同四月朔
日酉之中刻ゟ大地震、人家をすてにゆりたおさんとす。
山割地崩れ、其時海中破レけん、嶋原沖ゟしきりに大
浪をうこかせ、御城下村々不及申まくり立て来たりけ
れば、人家の者共大にきもを消しさわき、女子供の鳴(泣)声
天地ニとゝろき、一向何に縦ん事なし。諸人あわてさ
まよへ共、海中ゟハ泰山の如き大浪なれは、またゝく
間に御城下・村々に大浪を打かふセ打かふセ、みちん
に致けるこそあわれ成。御城ハ別条無由、御城下之人
家ハ凡四千五百余有、其外在々村々筆紙ニ尽し難、人
壱人も残る者無。前代未聞之珍㕝也。恐るへし〳〵。
 但シ化もの出し抔と申節有レ共、これハ非なり。焼
出シ正月十七日夜より、幅六百間、横九百間、二月末
迄ニ穴底谷迄焼下る。此間道法凡一里半余。三月朔日
に前山ゟ焼出し、此山五ツに割、昼夜とも大地震なり。
 四月朔日大地震・大つなミニ而、御城下ハ不申及、村々
一ケ所も残す打崩、人壱人も残る者無之、宮・寺迚も
板一枚残らす。尤御城ハ残り候由。朔日酉の中刻之事
なり。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 別巻
ページ 99
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 大阪
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