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項目 内容
ID J2700094
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1792/05/21
和暦 寛政四年四月一日
綱文 寛政四年四月一日(一七九二・五・二一)〔島原・肥後〕
書名 〔みなみくしやま 南串山町郷土誌〕○長崎県 馬場賀臣編S60・5・31 南串山町発行
本文
[未校訂]寛政の大災害―島原大変肥後迷惑―
 寛政三年(昭和五十五年より数えて一八八年間前のこ
とである)秋ごろから島原地方に日夜地震が続発し、眉山
には東西に大亀裂が起る。初めは僅かであったが、次第
にその巾が広くなり、一尺余(三三センチ)となり深さは
底知れなかった。
 島原藩庁では地震の狀況を幕府に報告・民心の安定に
務めていた。三月中旬から地震もおさまり静けさをとり
もどしてきたので、避難していた住民も安心して自分の
家に帰ってきた。
 四月一日午后七時頃、大地震が二回起り、眉山の前半
が頂上から裂けて前の海に突入。山津波と、海からの津
波で島原の町は一瞬のうちに壊滅された。大津波は対岸
の熊本の玉名、飽田、字土、天草の諸郡を洗い去りその
返り波が、北は西郷村より南は南有馬大江崎まで押し寄
せた。被害は空前のもので、島原地方で約一万人、肥後
天草で五千人計一万五千人を越した。牛馬の流失約五百
頭、家屋流失三三三四七戸、耕地三百七八町、漁船など
全滅であった。
 南串山は直接被害はなかったが、流死体が瀬詰沖を越
えて口之津、加津佐、更に南串の小津波見、塚の山、国
崎岬、椎木川等にうち上げられた。流死体はその地域で
供養し、流死塔を建て、霊を祀った。塚之山の流死塔に
は「為三界萬靈丐 寛政四年十二月二十三日乙名井上慶
一郎施主井上金ヱ門」と記銘されている。
 藩主松平[忠恕|ただひろ]は、二
十五年ぶりに戸田氏と
封地交代となって再び
島原藩主になった。天
与の英明誠実の名君と
いわれたがその在世中
に天災、地震、凶作が
相次ぎ最後には寛政の
大災害にあい、その災
害処理中憂慮と過労の
ため発病し四月二七日
北目守山村(吾妻町)の
中村庄屋宅で急死(五
十一歳)した。不運な藩主であった。(あるいは自殺とも
いわれた)
 忠恕没後、[忠馮|ただより]が継ぐ。忠馮の最大の急務は、寛政の
大変の災害復旧であった。様々の方策を実施するととも
に、初代忠房時代にほぼ整備されていた官制を、災害復
興と相まって、新たな官制も加え整備した。
忠馮の行なった災害復旧策
○節約の励行 幕府より一万二千両の貸与を受けたが焼
石に水で、江戸や大阪の商人から多額の借財をすると
共に、領民に節約を強制した。
○村民永保法の実施 平素の食事に穀類を節約し、余し
たものを貯蔵し凶作、災害に備えさせる。
○治安の維持 公事方役所を創設した(現在の裁判所)
○災害者の慰靈 寛政五年、領内七ケ所に流死供養塔を
建立した。
○復興気分の作興 領内の神社仏閣を復興し、祭儀等を
盛んに執行した。
○はぜ方役所創設 はぜの栽培を奨励し、領内生産の三
分の一を買上げ復旧費として利用した。
○民風の改善 孝行、節約、善行者等を表彰した。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 別巻
ページ 100
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 長崎
市区町村 南串山【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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