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項目 内容
ID J2700083
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/10/28
和暦 宝永四年十月四日
綱文 宝永四年十月四日(一七〇七・一〇・二八)〔東海以西至九州〕
書名 〔中村市史 続編〕中村市史編纂委員会S59・3・31 中村市発行
本文
[未校訂] 宝永大地震 宝永四年(一七〇七)十月四日(午後二時
頃か)におこった大地震で、震域は殆んど日本の南西半分
即ち西国・畿内・中国・南海・東海の三十余ヶ国にわた
る極めて広くて、しかも激しい地震で、「土佐古今の地震」
も「恐らくは本邦記録上に見ゆる最大の地震」とのべて
おり、被害も極めて甚大であったらしい。
 同著によれば、「今回の地震も白鳳年度の大震に同じ
く、日本本島南部太平洋海底に一大震源地を有し沿海諸
国に大震動を感じたるものにして津浪の打入、火山炎上、
温泉の涸渇諸国に渡りて様々の現象を呈したりしなり。」
とあり、時刻を正午より午後二時の間、多分午後一時前
後であろうとし、震度については、南路志に曰く、「人を
転ずる事丸き物を投げ転ずるが如し。恐ろしきとも何と
も途方あるものなし。」とあり、万変記に曰く、「諸人広
場に走り出づるに五人七人手を取り組むと雖も、[俯向|うつぶせ]に
倒れ、三、四間の内を転じ、或は[仰向|あおむけ]になり、又俯向に
成て逃去る事容易ならず。」とある。
 この表現は大地震未経験者には誇張にすぎると感ぜら
れるかも知れぬが、筆者には決して誇張と思われず、そ
れだけ地震は恐しきものであり、平素より心掛けておく
べきものと思われる。更に地震後の津波について万変記
に曰く、「未[刻斗|ばかり](午後二時)大地震ひ出で半時(一時間
)[計|ばかり]ありて沖より津波押入ると呼はり、間もなく[跡|あと]より大
津浪打入。」とあり、南路志に曰く、「地震やみ、少しの
間ありて大浪打入(る)。然らば津浪は大地震より一時間内外
を経て押入りしものなり。当時津浪は沿岸の地、皆打寄
せ来りし由なれど、記録に存ずる確実なるもの左の如
し。」とあって各地の津浪状況と更に地震に伴う地殻の変
化にふれて次の記がある。
 「宝永地震は土佐国全体に在りて、東部は地[稍|やや]高ま
り西部は著しく陥没の徴候を現せり。其実例を左に列
挙せん。但大地震後二ケ月ニ国人奥宮正明が物したる
谷陵記は能く詳かに当時の有様を叙したれば、本章は
便宜上これによって其の事実の記載をなすべし。」
とあって各地の被害状況、或は土地の隆起、陥没を説明
しているが、せめて幡多のみは抜萃したい。上段の数字
は記載番号である。
(注、被害状況は省略、「新収」第三巻別巻、四三一頁に
あり)
現存する諸家資料によって各地の状況を記載したい。
まず下川口、亀井丈夫翁編「幡多探古資料」より全般
的記事の中重要なものと中村市関係を抜萃したい。
「(前略)此日空晴れて満天雲を見ず、[且|か]つ風なくして
煙塵動かず、暑きこと夏の如く[帷子|かたびら]を着、[単物|ひとえもの]を着す
る者もありたり。午前十一時の頃東南の方角にあたり
て大なる音響あり。間もなく大地大震動を初む。
 旧記の録する跡を辿りて考ふれば、海嘯は地震[歇|や]み
てより後来りしが如く、且つ其間に多少の余裕ありた
るものの如し。及べる区域は広くして且つ高く晝夜
に[亘|わた]りて襲来する事十三回、五日の暁に至りて漸く[歇|や]
む。之がため人畜の死傷・家屋の倒壊、田園の荒蕪、
其他船舶・米粟薪炭の流亡せしもの夥しく、沿岸村落
の物件烏有に帰し殆んど棲住に堪へざるに至れり。当
時の言辞にて[所謂|いわゆる]亡所となりたり。(中略)変災録によ
りて幡多各村の被害状況を記せば左の如し。(現中村市
の記事抜萃)
(注、省略、「新収」第三巻別巻、四三一頁にあり)
次に市内資料よりあげたい。先ず下田の状況をくわし
くあげる「広恵簿」からである。
(下田)広恵簿(現代語訳)
 「宝永四丁亥(一七〇七)十月初四日、未之上刻大地
震。予の家の戸は自ら離れ、障子の骨も折れる。地の
開く所(亀裂)多し。母を初め皆々門前に出る。此年母
四十九才、予三十才、弟源七二十八才。此日病ミ、因
ツテ兄弟共家ニ有り。
 母曰く「老母あり。安否を問へ。」と。外祖母である。
叔父福永九右衛門は予の家にあって起つことができ
ぬ。予は走り行き共に門前に集る。三刻(六時間)許り
して大いに震うことはやむ。弟曰く、このような時は
大潮が来ることがあると。予もかねて聞いている。然
る時は足弱の者を早く高所へ逃がすべしと。弟が外祖
母を負い、家僕が母を負うて上の谷の竹薮に集まる。
(以下、同居の親籍など詳述するも省略)此時予は家に
あって当用の諸品を整理し、衣類・[舗物|しきもの]・綿・木綿・
飯米等を家僕にもたせる。弟が帰って来て、母が予を
待つこと切であり、しかも潮は既に往還に近づいてお
り、早く退くべしと。予も同感、脇差をもち、左懐へ
御祓を入れ右懐へ父の位牌を入れる。弟が再びかえし
て来て潮のます事愈々急であるとせかす。
 さあ山の上へ退げようと墓のある所まで来てふりか
えると既に流れた家は川の中に満ち、嶋は既に没して
いる。然るに伯父伝九郎正美と[従々兄弟|またいとこ]正利の祖母が
まだ来ないので弟を尋ねにやる。所がその祖母がどう
しても家を出ず。無理にすすめるも聞き入れず。かれ
これする中潮が大いに来て祖母は家と共に流れだす。
正美がふりかえって老婆が引潮に流されるをみてこれ
を追い、鵜の[碆|はえ]まで行ってようやく追いつき助けだす。
二番潮が来て山に逃げ弟と逢い一同集まる。
 その夜は峰の横道に寝る。朋友江口治右衛門その他
集まる者七~八十人。
 翌五日潮は平静となるも財貨は悉く失う。時に流死
した人老若二十七人。青砂島(水戸)・鵜の碆(串江)は
家悉く流れ、下田[下|し]タ町には残った家が七~八軒、上
ハ町や松野山は家流れず。」
とあり、また次の記もある。
「(前略)食頃まで(夕食事か)大潮俄かに至り、雲[奔|はし]り山
来るが如く、平地より水高き事丈有五尺(約五米)。山
有る所に至って止む。大いに呑吐する事七~八回、民
居蕩掃、溺死数を知らす。潮退て山に登って一望すれ
ば四望蕭条、一物の存するなし、(中略)幡多郡下田浦
を甚だしとす。」
古津賀、土岐文書から
「然ルニ宝永四亥年十月四日之地震ニ即時海波[興|おこり]、
流(す)人家(を)、諸人横死、言語筆頭(の)[所不及而|及ばざる所にて]、山川一
時(に)改観(観を改む)。」
と古津賀の惨状をつたえ、山路小野文書には、
「十月四日晴天に成候所、[俄|にわかに]大地[震夥敷事人|おびたヾしきことなり]家ゆり
乱れ、無程大潮入(る)。灘(の)辺人家財宝八方へ流失(す)大船宇(右山)山
へ掛り居候。[下々|しも〳〵]村々ハ[不及言|言うにおよばず]、下田ノ浜松、山路
村沢田へ来候。灘辺(の)人・牛馬死スル者多(く)、山路村木戸
分へ潮入(ル)。御貢物流失之事、[尤|もっとも]大潮ハ引候へ共、小潮
ハ沢田へさし[不止|やまず]候事。」
谷真潮旅行記から
 この災害後約七十年を経過した安永七年(一七七八)五
月(六日~二四日)幡多旅行をした谷真潮が通路に当る佐
賀、入野、福良、大津、三崎等で津浪の爪跡を記録(西浦
廻見日記)しており、その中から興味をひく次の一つのみ
抜萃しよう。帰りの入野の項
 此社(加茂八幡)亥の大変に、ここの松林へ送葬に来りしも
の、かへらんとするに大潮道をとり[廻|まわ]して帰ること能
わず。此の社ににげ入しに此社も三度の浪に、此のあ
たりを浮きてたヾよい流れしが三度ながら[本|もと]の柱つぼ
へすはりたり。されば其人も助かりしとぞ。
とある。
 大海集から
 また悪瀬々の住人桜木吉貞の著「大海集」にも下田の
惨状を書いており、その中次の哀話がある。
「或る者人の妻とや。壱人は我が子、一人は甥なるが、
両手を引きて山の方へ逃る。引潮に木のかぶにもたれ
てとどまるに、両人は留めがたし。時に我子をはなし
て甥を抱きとめけるなり。其頃の評判に義理をほめぬ
ものなし。」
とあり、次の笑話も記されている。
「大塩入るとよびつぎ、津野川へ岩間よりよび、村の者
山へ上りける。我等母飯米を荷にさせ[拵|こしら]えて、父三亟
貞行は寝て居たり。早く起き給へ、そらの山へ子供を
連てあがるといふに、父少もさわがず、下田より潮来
れば与州の潮は山を越して来るべし。遁るる道なしと
ておきず。母申(す)は夫と親を残してにげ命助かる子や女、
世にあろうか、是非なしと[止|とどま]りけるが汐は来らず。後
に大(い)に笑ふぞ。歴々の人見る〳〵山へ上る也。(下略)
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 別巻
ページ 90
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 高知
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