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項目 内容
ID J2700082
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/10/28
和暦 宝永四年十月四日
綱文 宝永四年十月四日(一七〇七・一〇・二八)〔東海以西至九州〕
書名 〔香我美町史 上巻〕香我美町史編纂委員会S60・4・1 香我美町
本文
[未校訂]第二項 宝永の地震・津波
 銀札の通用停止、庶政切替条令の発布等、財政立直し
とは言えないまでも急場しのぎの措置を済ませやっと一
息ついたところ、宝永四年(一七〇七)一〇月四日[未曾有|みぞう]
の地震・津波の襲来である。世に「宝永の大地震」と言
われるもので、土佐では白[鳳|ほう]地震、近くは安政地震と共
に、三大地震に数えられる大地震である。打ち続く風水
害による不作のため、財政上のみならず各般にわたって
悩まされ、行き詰まって気息[奄々|えんえん]のところ更にこの大地
震とあって、まさに土佐藩はこの大鉄槌で息の根を絶た
れた状態に立ち至る。県下の被害状況は、『聞出文盲』『南
路志』その他で詳述するところで省略するとして、手近
な史料二つを挙げよう。
宝永四年丁亥十月四日空晴四方ニ雲なし。其暑さ難堪
事極暑の如し。午之刻(正午)に至り、しばらくゆらり
〳〵と静に地震す。夫より次第にゆり出し、天地も一
つニ成よふに家も蔵も崩、あやも見分がたし。其ゆる
事身も裂るが如ク、大地微塵に割れ小砂水など沸。し
バらく有て又ゆり幾度といふ事無、[間|あいだ]もなくゆり、津
浪打入より声々に[啼|なき]、上を下へ返し、近辺之山々へ逃
走り、言や否浪打入事国中一同也。云々
(『無題冊子』岸本浜田康久氏蔵)
昔宝永四年亥十月四日之大変ニは、山ニ[楊梅|やまもも]実、又[躑躅|つつじ]
花咲。又大暑之如くと之云伝有。津浪潮先キは王子権
現宮花表迄届たると云。又岸本は不及申、此新在家
も亡所ニ成と云。
大門(追手門)前迄海之様ニ成。津呂・室津陸六七尺上
ル。下モ灘六七尺下ガル。入込たる汐不減、高知近辺
往来不自由、船ニ而通路ス。翌年ニ成共替ル事なし。
堀端へ汐土手築、又石(布師田)淵迄の内大(往)還高ク築。其後いつ
之時節ニ汐減たると云掟もなく、然時は年数経ニ随ヒ
自然ト汐減ニ究たる歟。
地震未上刻より同下刻迄(午後一時~三時)動。南ハ海
一円大汐寅刻(午後三時~五時)迄昼夜十一度、中ニモ
第三番目津浪。土佐国中二千余死人。流家一万千百七
十軒、潰家四千八百六十軒、破損家千七百四十二軒、
牛馬五百四十弐疋、米弐万千二百七拾弐石余、損田四
万五千拾石余、破損船七百六十八艘。
(『大変記』岸本旧住河村善行氏蔵)
 結局両史料を照合すると、初震は昼ごろであったよう
である。土佐国中の被害額は史料によって相違があり、
被害状況の詳細記述のものもある。
 右史料によると、津波の潮先は徳王子若一王子宮の鳥
居(花表)にまで達していて、翌朝までに一一回に及ぶ津
波があり、海辺は亡所となっている。ちなみに国中では
亡所浦六一、半亡所浦四、亡所郷四二、半亡所郷三二と
記録され、もちろん赤岡・岸本は壊滅的打撃を受けたの
である。当時の藩政担当者の認識は、「御国之破損中々弐
拾年参拾年ニ而如元ニハ成申間敷」(『山内文書』)である
ことからも、その打撃のいかに大であったかがわかるの
である。
 藩主豊隆は重臣山内主馬を江戸に派遣して事情を幕府
に説明させ、翌宝永五年(一七〇八)の参勤出府免除を陳
情して許可を得、地震後の復旧に専念することになった
が、その免除の許可が出て三ヵ月もたたない時期に豊隆
は出府を出願している。その理由として、襲封後まだ参
勤していないこと及び「国端迄介補仕、破損所も大概修
補仕、漁民・農民迄次第ニ成立飢寒之ものも無御座、
手船等も過半出来」て「国用大形手合仕」ったので、「病
身至極の老母御座候。見合保養相加度」である(『山内文
書』)。つまり災害復旧も大方完了したので、病母を見舞
いたいというのである。
 前掲のとおり、藩政担当者は二〇年や三〇年では元の
とおりには直らないと言うような災害である。それが二、
三ヵ月で完了するはずがないのである。まず応急措置は
とられただろうが、それも完全ではなかったはずである。
それも、まさに破産寸前の土佐藩にしてみれば手の尽く
しようもないわけで、尽くすべき手段は藩重臣たちが行
うので、豊隆としては在国しても退屈な毎日であったか
もしれない。出府運動のため豊隆の出した書状に「当地
潮于今[透|すき]と引払不申、湿深病人多御座候。拙者儀自然
病気附候而は遠国ニ而医師不自由に御座候」とある。病
母の見舞いなどと理由を書き立てているが、これが豊隆
の本心であったと思われる。
 豊隆は元来山内分家武蔵国指扇家山内二郎太夫一俊の
三男で、兄の前藩主豊房が病気となったので、宝永三年
五月兄豊房の養子となり、同年七月豊房没後その跡を継
いで藩主となったもので、元来土佐にはなじみも薄く江
戸の生活に慣れていたもので、端的に言うならば、田舎
でしかも大災害後で諸事不自由な生活に耐えられなかっ
たというのが本音であったと思われる。しかし願いがい
れられたのであろう、豊隆は五月一四日高知発、六月二
日江戸に到着しているのである。この結果から見れば何
も参勤交代の免除を受ける必要はなく、実質的には出府
を果たしているのである。古今未曾有の大災害に見舞わ
れた領国であれば、たとえ財政難で手を尽くす手段がな
くても、重臣を指揮して復興に尽力するのが藩主として
の態度である。このような藩主の施政態度は、何も豊隆
に限ったものではなく、藩主代々の一貫したものではな
かったかと思われる。その証拠に、代々の藩主に名君と
してたたえられるものの少ないゆえんはそれを物語るも
のであろう。
 それはともかくとして、震災後の一二月万事省略倹約
の令を発し、翌五年(一七〇八)一月には御郡・御普請・
御山・御浦・代官の五役を廃して郷浦を一支配とし、野
根・奈半利・安喜・赤岡・高知・高岡・須崎・久礼・佐
賀・中村・三崎・宗呂に居役として小身侍一名・下役二
名を配し、岡田又兵衛を郡代頭取に命じて統轄するとい
う、いわゆる機構改革によって役人を整理して経費節約
を図ったが、正徳元年(一七一一)一二月この「郡代制」
は廃止となり、元の五役制に帰っている。また宝永五年
八月七日には百石以下の知行取り侍の借上米を免除する
等の処置が見えるが、震災手当として画期的対策は打ち
出されていない。藩政窮乏時の対策としては、省略倹約
よりほか打つ手がなかったのであろう。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 別巻
ページ 88
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 高知
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