[未校訂](注、他出ある部分は省略)
また大変記には手結浦の被害については触れていない
が、『手結浦日抄』には、
手結枝浦新町
承応元辰年(一六五二)三月新町手結浦に奉願仰せ付
けられ、庄屋七丞・年寄関右衛門願書の扣有り。予関
右衛門宅今新町[笑子|えびす]堂の東に村をなして住居せしが、
宝永四年亥年(一七〇七)潮変(津波)に残らず流失、今
の新町へ引き移すと云う。
承応元年(一六五二)成立の手結浦新町が、この津波に
全滅しているので、手結浦にも大被害があった。『谷陵記』
には「手結亡所、潮は山まで山の上の家少し残る」とあ
る。『手結浦日抄』も「大変」としてこの地震・津波の恐
ろしさを伝えている。咽喉元すぎて忘れ易いのは人間で
ある。忘れた頃には天災はくるので、忘れてはならない
ことを古人はよく知っていたのであった。