[未校訂] 宝永地震は有史時代最大の地震といわれ、亡所浦六一、
半亡所浦四、流家一万一〇六七軒、壊家五六〇八軒、破
損家一七七二軒、損田四万五一七〇石、死傷一七六〇人
等と記録される(1)。「手結の津波は山迄打寄せ」「赤岡、汐
は在所残りなし、流家三ヶ一」「野市で汐は吉原の境迄、
家少し流れる。物部三ヶ所流失、上田村在家中半まで汐
入る。流家なし。下島・久枝・下田村何れも流失。前浜
半流失(2)」とあり、また「津浪潮先キは王子権現宮花表(鳥
居)迄届たると云。又岸本は不及申、此新在家も亡所ニ
成と云(3)」ということで、これらの記録を総合すれば、海
岸地帯は全部亡所となったと判断できる。また[凄|せい]惨な地
震の状況について、次のように述べている。
宝永四年丁亥十月四日は空晴四方に雲なし。其暑さ難
堪事極暑の如し。午之刻(正午)に至りしばらくゆらり
〳〵と静に地震す。夫より次第にゆり出し、天地も一
つニ成よふに家も蔵も崩、あやも見分がたし。其ゆる
事身も裂るが如ク、大地微塵に割れ小砂水など沸。し
バらく有て又ゆり幾度といふ事無、[間|あいだ]もなくゆり、津
浪打入より声々に[啼|なき]上を下へ返し、近辺之山々へ逃走
り云々 (『浜田家文書』)
宝永四丁亥年十月四日晴天、同日未の刻大地震。地割
家倒れ人々打殺され、目まいして死ぬ者、山の下に住
居の者山崩れで死ぬ者もあり、大津波で家財悉く流失。
怠慢なる者、不達者なる者、或は山遠き者共残らず大
汐に引取られ死す。 (『高野家文書』)
1 『山内氏時代史稿』巻六
2 以上『高野家文書』
3 『大変記』