[未校訂](注、既出の部分は除く)
室戸地方における被害の状況では、武藤致知の『南路
志』や、町村史によると、羽根では、「羽根浦八幡宮板書」
に、「未刻俄に磯より沖え三丁余も潮干、其より大潮入る。
財宝尽く流失、達者でない者や、逃遅れたる者は残らず
大潮に引かれ死」とあり、檜垣左近右衛門の記録による
と、当日は晴天で大地割れがあり、家が壊れ下敷きとな
ったり、婦人は目まいがして死んだり、山崩れなどで死
者が相当出ている。未刻に磯から三丁余も潮が引き、た
くさんの死者を出し、高知近辺は大潮が石淵から城下ま
で入り、大道筋を船で往来し、その船賃二〇文とある。
奈半利は野根山の大道下に十二、三反の廻船が打ち上げ
られ、羽根浦では尾僧新町(戎町か)船場前は波打ち際か
ら一町半、川筋は四丁余潮が上がり、四日から二十日ま
で大潮が入っている。尾僧戎町の者は後ろの一段高い田
に小屋を造って住み、船場の者は一段高い山の下や平野
山に上がっている。
『谷陵記』によると、吉良川には特に大きい被害はな
かったようで、元では、「磯辺の家少し流る。潮は[田丁|たちょう]三
ケ一迠、慶長九年の潮より六尺[卑|ひく]し」という。
室津においては、港番久保野家に伝わる文書によると、
宝永四亥年十月四日午の刻、晴天大地震、所々山崩
る。大地壱尺より下われ、水がたきの如くにごり出る。
同未の刻大潮入る。室津浮津の内水尻、耳崎多田助丞
ノ大道[越戸|こえと]より潮入、家数弐拾三軒港ノ内へ流レ入・
又奈良師家五軒・元分家二軒・都合三拾軒流レ・地下
人耳崎浜にて弐人流死……云々
津呂では、港が隆起して、干潮には船の出入りが困難
となったが、人畜に被害は少なかったと伝えられている。
佐喜浜においては、「暁印の置文」(慶長地震)にのちの
人が書き添えたものとして、
于時、宝永中ひのとい十月四日大地震、此処板葺家ゆ
れ乱れ、屋根より石落ち、けが人多し。大地十間、二
十間大割れ申し、地より水湧き出で、雪隠ごえ上り、
山は崩え人民驚き或は気を失ひ泣きわめく事只蚊の鳴
くが如し。或は寺山観音へ逃げ走り、皆、道具まで運
び、或は戸障子にて仮屋を建て、十日程住ひ仕り、右
大地震、北南へゆり申せし故、大汐は上へのぼり、上
は甲浦よりかみへ入り、野根は入申さず、当浦(佐喜浜
浦)は[波止下|はとのした]へ汐打入った。
とある。震度は非常に強かったが、負傷者が出た程度で
被害は少なかった。
室永四年は[丁亥|ひのとい]の年であるので、この地震は俗に「亥
の大変」ともいわれている。