[未校訂]宝永の地震
宝永四年丁亥年八月十九日、土佐国中に大暴風雨があ
って被害が多かった。同年十月四日には大地震と津浪が
入って損害が多かった。この時の損害は死人が一八四四
人、米の流失が二二一二〇石、損田が四五一七〇余石等
記されている。
この年立田村の被害は非常に大きくて上咥内の如きは
竹が端堤防がきれて東西の田畑は残らず荒地となり、長
く免租になった。またこの年の地震は激震で、その後半
年程微震が続いたと云うことである。津浪は当村堺まで
来た。 (『立田村誌』)
宝永四年十月四日の大地震は、その日の午の刻よりゆ
れ始めて、これに伴うて津浪が起り、前浜の東、古湊の
切戸を押切って大潮が高く北上して伊都多神社の前から
東の窪にまで来た。人心は恟々として大籔の中に畳や莚
を敷いて日夜を過ごし、あるいは遠く北へ走って立田
村・岩村の辺まで逃げた者もあると云う。何れもカア、
カアと連呼して走ったと伝えられているが、川の水を見
よの意か、それとも無意義な言を無意識に云ったものか
は明でない。 (『田村誌』)