[未校訂](2) 宝永四年(一七〇七)の大地震
この年、富士山が噴火して宝永山ができた。一〇月四
日、東海道、畿内、南海道にM八・四の大地震と津波が
あって、[潰家|つぶれや]二万九〇〇〇戸、死者四九〇〇人の被害が
あった。
当領内の家や人畜の被害は不明であるが、下三村にあ
った干拓新田は、地盤沈下と堤防の傷みで大きな被害を
受けた。一応、修理はしたが、五年、六年に高潮と台風
の被害を受け、宝永七年八月には、台風と高潮のために
潰滅的な被害を受けた。詳細は、「新田開発」の項参照。
(四) 下三村の干拓新田の壊滅
宝永四年(一七〇七)の大地震による地盤沈下以来、次
の資*料3―66のような高潮の被害によって、下三村を始
めとする燧灘沿岸の新田地帯は壊滅的な被害を受けた。
宝永八年に三代藩主頼徳は、その被害を広江村一九七
石四〇七合、今在家村二三八石九四〇合、北条村二五四
石七〇二合、計六九一石〇四九合と幕府に報告している。
*「東予市誌」の資料22と同じ