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項目 内容
ID J2700072
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/10/28
和暦 宝永四年十月四日
綱文 宝永四年十月四日(一七〇七・一〇・二八)〔東海以西至九州〕
書名 〔東予市誌〕東予市誌編さん委員会S62・10・1 東予市発行
本文
[未校訂](4) 宝永四年(一七〇七)の大地震
 この年、富士山が噴火して宝永山ができた。十月四日
東海道、畿内、南海道にM八・四の大地震と津波があっ
て、[潰|つぶれ]家二万九〇〇〇戸、死者四九〇〇人の被害があっ
た。当地方の家や人畜の被害は不明であるが、当時広く
造成されていた新田は、地盤沈下と堤防の痛みによって
大きな被害を受け、中には壊滅した新田もあった。個々
の新田の被害については「新田開発」の項で逑べたので
省略する。
 なお、大明神川河口方面でも、地震と高潮の被害から
左岸の高須に住んでいた垂水家と樋ノ口にいた豊田・茎
田家が、六反地に移住したと伝えられる。この地震の後、
地盤鎮火と高潮を防ぐために、広江川河口や三津屋港付
近は、堤防の[嵩|かさ]上げ工事や石垣に改修する工事が行われ
た記録があることから、ほかの大川の河口も同様な工事
が行われたと推定される。
(オ) 新田の壊滅
 小松藩最大の藩営[壬|みずのえ]新田が完成して五年後、宝永四年
(一七〇七)に、日本三大地震に数えられる宝永大地震が
起きた。当地もこのために地盤が沈下し、堤防が傷んだ
うえに、資料22のように、毎年夏高潮の被害を受けるよ
うになった。宝永六年七月十六日の高潮で新田が残らず
切れ、庄屋の田地八町歩余も収穫皆無で、飯米にも困り、
庄屋職御免を願い出るほどであった。更に翌宝永七年(一
七一〇)八月三日昼ごろ、高潮と東風の暴風雨が重なっ
て、広江村はもちろん東予地方一帯の新田は、決定的な
壊滅状態に陥った。
 このとき広江村でも、堤防を二尺も超える高潮のため、
村中に海水が侵入した。壬、常夢新田は壊滅してしまい、
本田も四分の一が収穫皆無で、その年の年貢は七〇パー
セント引きになるありさまで、村は困窮のどん底に追い
込まれた。
資料22 宝永の地震と高潮の被害
(『久米政右衛門通定一代記』より)
宝永四年亥(一七〇七)十月四日
・未ノ上刻(午後二時過ぎ)大地震。
・壬新田石垣五、六尺下ル。
・壬新田南ノ土手内へいじる。
・常夢新田南樋ゆりはり切レ潮入リ。
・村中召集、潮留作業。
・奉行喜多川宇三衛様そのほか藩の役人総出動。庄
屋の処置に対して賞詞を給う。
宝永五年(一七〇八)
・一月二四日から七月十八日まで壬新田の復旧普請
・七月十九日完成。御会所で完成御祝いに銀二枚折
紙ニテ拝領
・七月二日 高潮で川内所々切レ、川之内総ごし。
・八月一日 高潮で常夢新田北ノ樋はり切れ、村中
召し連れる。
・八月二日 御奉行様御出張、潮留作業。
宝永六年丑(一七〇九)
・七月四日 高潮ニテ諸々新田痛ム。
・七月十六日夜、新田残らず切れ、手前田地八町無
毛、手作三反無毛。飯米ニ難儀仕り、役儀御免を
願い出た所、殿は不憫と思われ飯料に御米五拾石
をくだされた。
宝永七年寅(一七一〇)
・常夢新田の復旧普請中、八月三日昼高潮、雨、東
風ニテ村中残らず潮入、大石搔ノ上、二尺余潮来
ル。惣新田残らず切捨ル、但舟屋ヨリ川原津迄の
沖手堤見えず
村中本田、四分之一無毛、手作五反無毛、同年
ノ御定ニ御物成三二七石六斗余之内二三九石余
(七〇%)潮入ニ御引有之候。
ウ 壬生川北(喜多)新田
『元禄十四年巳三月、桑村郡壬生川新々田畝数改組合
帳』によると
(ア) 位置 大新田の北、新川と境川の間
(イ) 石高と面積
高 一五四石六斗八升
惣合 二十町
図57壬生川北新田配分図
(ウ) 開発時期 元禄十四年巳(一七〇一)三月
(エ) 開発形態と地主
 次のような桑村郡の有力庄屋による寄合開発で、彼ら
がその地主になっている。
A 古田村庄屋 長谷部十右衛門 五町
B 壬生川村庄屋 一色 喜兵衛(与五左衛門)五町
C 壬生川村 七兵衛 五町
D 円海寺村庄屋 市兵衛 二町
E 高田村庄屋 高瀬与三兵衛 二町
F 河原津村庄屋 松木 弥兵衛 五反
G 古田村(庄屋) 芥川忠右衛門 五反
(オ) 開発地の分配
 『畝数改組合帳』に「右者巳表開発新田畝数改組合[鬮|くじ]被
取、如此相究申候。」とあるように、開発寄合衆の庄屋
たちは、開発地を地力別(斗代別)に凡そ一町内外の二一
区画に分割した上で、各人の取得分の地力が平均化され
るように、また面積は出資額に対応するように鬮引きで
分配した。これらを整理して図表化したのが図57の『壬
生川北新田分配図』である。
(カ) 開発後の経過
 東予市大野公民館蔵『明治十六年写 大野村必要 大
手鑑』に壬生川北新田について、開発者の次に、

右新田元禄十五午年高汐ニテ堤切レ申候ニ付、新田入
用銀米地主ヨリ仕配難仕ニ付御公儀在指上モ借用銀米
年賦被仰付、未年(元禄十六年)御公儀ヨリ御普請被仰
付、申歳(宝永元年)ヨリ戌年(宝永三年)マデ三年之内
作付仕、亥年(宝永四年)大地震ニテ堤不残切レ申候。
一、(元八百七拾七俵弐斗八升七合)米千三百拾六俵二斗三升壱合新々田借用米ノ元米ニ、五割利ヲ加ヘテ未年(元禄十六年) ヨリ十年賦デ返済ト相極。但シ一ヶ年百三拾壱俵二斗六升三合宛。
一、(元八貫四百四拾目壱分六厘)銀拾貫九百七拾弐目二分壱厘右同断。但シ元銀ニ、三割利ヲ加ヘテ、 一年ニ一貫七拾七目二厘宛。
右新々田定米ヲ以テ未年(元禄十六年)ヨリ亥年(宝永
四年)マデ五ケ年年賦相定之通返済。亥年大地震ニ付堤
崩作付無之ニ付、丑年(宝永六年)借ハ相断、元銀・元
米之内五年之間相払之分引除、相残り分丑年返済。
とあって、元禄十五年の高潮の被害(年表によると、こ
の年大風と洪水で松山藩は周布・桑村両郡へ米七〇〇俵
を回送している)による北新田の堤防決壊とその復旧の
ために、藩から米と銀を借り受けたこと並びにその返済
の状況を記している。(後略)
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 別巻
ページ 77
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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