[未校訂]宝永四年(一七〇七)七月四日 東海九州烈震大津波、紀
州惨害。東富田飛鳥神社宝永四年奉納の欅の板に「六
月四日午の刻半時許り大地山河破裂し民家村家崩損
す、天柱も折れ地柱も摧るが如し、老若男女共に天
地傾覆するかと思い神識迷乱して生死を知る者更に
なし。時に海上俄かに□々、白浪踏天の勢い山を崩
し地を穿つ、□□□衆人、潮津波入来を聞て驚き騒
ぎ気も魂も身に不□跣にて直に小倉山、又は飛鳥山
に逃げ登り身命を全うし(中略)家財に心を寄せ家を
出ること遅滞の輩悉く濁水に没溺して一命を失う者
百数十人、凡そ平地に有る家、富田のうち民瀬、芝、
伊勢ヶ谷、溝端、高井、吉田、中村、西野一字不残
流失し村居忽ち野原と成る(中略)前代未聞の珍事也
(後略)―以上は宝永四年地震津波の際の注意書とし
て奇篤な無名の人が飛鳥神社に納めた板碑である
と。
同年十月四日 午の刻大地震、地割山崩れ夥しく田辺家
中、町家共多く潰れ、地震以後追て津波、江川、本
町、片町、紺屋町家々流失、江川橋落ち下万呂村大
藪の本まで流参の船多し、下秋津、伊作田(稲成)辺
への流参の人も余程相果申候、但し下長町迄波上り
それ故藩士町人共、権現山、愛宕山辺へ逃げ三四日
は山住居致し候、その以後も一日一夜六七度づつ、
明る子の春まで毎日地震致し候―これらの有様を考
うれば中辺路筋での被害や恐慌状態も想像される。
またこの震災は全國で二万九千戸の家屋潰滅と流
失、死者四千九百と云われ「本朝地震考」にも記さ
れると。