[未校訂] 3 宝永の大震と大津波
(一七〇七)宝永四年十月四日(陽暦十月二十八日)日向より伊豆に至
る太平洋岸及び其の付近、大震及び大津波にて、潰滅家屋
二万九千、死者四千九百あり。[蓋|けだ]し此大地震は陸地に於け
る激震区域即ち家屋の潰倒を生じたる範囲の広大なる点
に於て本邦地震史上[未曽有|みぞう]に属し、東北は[駿河|するが]・[甲斐|かい]・[信|しな]
[濃|の]より[美濃|みの]・[近江|おおみ]・[丹波|たんば]・[播磨|はりま]の西南諸国及び四国を含み、
西南は九州の東部に達して、二十六ケ国に及び、奥羽・[蝦|え]
[夷|ぞ]を除くの外、皆其の余波を[蒙|こうむ]らざるはなし。震域の形状
及び津波の波及状態より察するに、震源は恐らく日本地震
構造軸に並行せる長帯なりしなるべく、其の位置は紀伊半
島及び四国の南方約二十里[乃至|ないし]三十里を隔てる太平洋底
にありしたるべし。当日午の下刻(中略)俄然激震を起し、
[爾後|じ ご]約一時間にして津浪の第一波来り、更に一時間乃至二
時間毎に一回宛襲来したるものの如く(中略)波の高さは
五、六丈乃至七、八丈に達し、第三波最大なりしに似たり。
本郡にては南部川右岸の地、被害甚だしく山内村(現南部
町山内)の如きは、怒涛激突の衝に当り、民家[悉|ごとごと]く流失せし
が左岸の諸部落には鹿島の激浪を遮るありて被害なし。印
南に至りては惨害更に甚だしく、中村・宇杉・光川三村の
民戸悉く標没し、橋落ち道崩れ、死者百七十余名(中略)に
及ぶ之より先、同浦は元禄十五年の大火に大半焼失し、[瘡|そう]
[痍未癒|いいまだいえ]ざるに再び此大厄に[遇|あ]へる也。日高川口付近にあり
ては名屋浦の民家多く流失せしが源行寺は本堂庫裡等の
破損に止まる。罹災民に対しては(名屋浦鑑)御救として粥
等被下之云々。 (『日高郡誌』)
なお当町のこの地震に関する文書は、『本町史』第三巻寺院
関係文書三 八〇三ページをみられたい。