[未校訂](1) 宝永の地震 東海道沖地震(M八・四)
宝永四年一〇月四日[午|うま]の刻(正午ごろ)、五畿七道にわ
たる大地震が発生、九州東南部より伊豆に至る沿海地に
悉く津波来襲し、震災地全部を通じて[潰家|つぶれや]二万九〇〇〇
戸、死者四九〇〇人に及ぶ(『大日本地震史料』)。
海南市域での、史料は少ないが、左の文書等によって
被害状況が想定される。
宝永四年[亥|い]十月大津波、床上四尺五寸(約一三六
㌢)塩泥水入、塩入夜分迄[凡|およそ]一三度、寺内一統に塩
泥砂入、所により三、四尺(約九〇~一二一㌢)之に
依りて諸木残らず枯申候(後略)(「永正寺文書」)
当時の永正寺は日方港から約二〇〇㍍の地点にあり、
後の南海道地震(一九四六)に較べて被害が大きかった。
この時黒江村では
海辺近きところは二階まで浸潮し、流出物多く人
民大いに困る。此の際、河内浜の堤及地床は[潰|つぶ]され、
塩田の大部分は破壊され、海岸近くの住家は金銀財
宝を流出し、非常な困難で為に製塩業暫く中止のや
むなきに至った(『黒江町郷土誌』)。
明けて宝永五年の一月、またまた大津波のため海岸近き
所では、衣服諸道具流出したとある。この時の損害は、
塩田一五町一反六畝二七歩(約一五㌶)、其の他一
町三反二畝二七歩(約一㌶)、塩高七五八石四斗五升、
半潰住宅七軒、半潰蔵三軒、半潰塩釜三軒、流失倉
庫一軒、流失住宅一一軒、流失塩焼釜一八軒、両回
の大津波は何れも塩田と製塩業者に多大の損害を与
えたため、 一時製塩業に一大[頓挫|とんざ]を来し、製塩高に
著しい減少を告げた。(後略)(『黒江町郷土誌』)