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項目 内容
ID J2700024
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1703/12/31
和暦 元禄十六年十一月二十三日
綱文 元禄十六年十一月二十三日(一七〇三・一二・三一)〔南関東〕
書名 〔蓮沼村史〕蓮沼村史編纂委員会H4・10・30 蓮沼村
本文
[未校訂]4 元禄の地震と潮除堤
 元禄一六年(一七〇三)一一月二三日におこった地震
は、房総半島全域に津波による大被害をもたらした。九
十九里浜から内湾の安房国の海岸線の村々までの被害に
ついては、死者三四三〇人・潰れた家八四〇二軒・流さ
れた家四六一二軒・破壊された家一九〇七軒・流された
船九二四艘・牛馬の被害三七二頭等が報告されている
(『図説 千葉県の歴史』 一四九頁)。
 九十九里沿岸で特に死者の多かった村としては、古所
村(白子町)一四〇人・中里村(白子町)二〇六人・幸治村
(白子町)三〇四人・一松郷(長生村)八四五人・四天木村
(大網白里町)二五〇人等である。さきにあげた死者の数
を含めて、九十九里浜の成東町以南から安房国までで、
およそ六千人位の死者がいたのではとの推定もなされて
いる。
 この地震での蓮沼村での被害はどのくらいであったろ
うか。蓮沼村全体の被害を示すものではないが、旗本山
内氏の知行地内での被害を示す史料がある。
 山内主膳知行所上総国蓮沼村地震高浪ニ而損亡
蓮沼村
一、田畑二十九町余 砂押
一、流家百七軒
一、流死者男女百二人
(『新収 日本地震史料第二巻 別巻』七頁)
 この史料は、旗本山内氏の知行所内での地震による被
害届である。旗本山内氏の蓮沼村における知行地は、元
禄一〇年(一六九七)七月に与えられたらしいことはわか
っているが、その支配高や、 (い欠カ)つまで知行地を有してい
たかについては、史料不足で、いまのところ明確に出来
ない(一五二頁参照)。一〇七軒の家が流され、一〇二人
が津波によって死亡したというのである。当時蓮沼村は、
六給に分かれており、蓮沼村全体の被害は、これよりも
かなり多かったものと思われる。この津波の被害の後で
造られたのが、潮除堤である。江戸時代の村明細帳に、
次のような記録がある。
潮除
一、堤 但長二千八百三十五間 馬踏一間 舗四間
高さ八尺 壱ケ所
 是ハ浜通潮除堤拾八年以前、宝永元申年地頭美濃部重
 右衛門様・山内主膳様より御普請被成被下候、
(『千葉県史料 近世篇 上総国 上』四八〇頁)
 元禄地震の起こった翌年の宝永元年(一七〇四)に、領
主の美濃部重右衛門・山内主膳の二人によって潮除堤が
造られたというのである。堤の長さは、二八三五間(約五
一〇〇メートル)で、堤の上部は一・八メートル、下部で
七メートル、高さ二・四メートルという大きな堤であっ
た。再度の津波の被害をおさえるという考えで造られた
堤であった。
九十九里浜と津波
殿台 加瀬要作
 竹久夢二は紀行文の中で、九十九里浜を次のように記
している。
見渡せば白い渚が弓のやう、碧い波路が絃のやう。
私は今、九十九里浜の際に立ってゐるのである。曲線
の美と直線の美とが、これ程心地よく調和してゐるの
を、曽って私は見なかった。想い給え青い風に白い波、
紫の砂に黒い松…。
線の美、色彩の美、波風の妙なる響きの美、私達は祖
先より、この素晴らしい景観を当然のごとく甘受しなが
ら生活してきたいま、九十九里浜のもう一つの面を知る
人はすくない。それは過去に私等の先祖が幾度か体験し
た恐ろしい津波である。
 いま九十九里浜沿岸の各所に残る供養塔・供養碑がそ
れを物語っている。これ等の由来に接するたびに、その
どれもが、規模のあまりの膨大さ、凄まじさ、悲惨さに、
ただ驚愕するばかりである。
 本村には、殿台の蓮花寺境内に、元禄の地震・津波の
災害に死去した先祖たちの供養塔がある。村人は続に「千
人塚」とよんでいる。
 九十九里浜は歴史の上で知られているものだけでも、
過去六回もの大地震・大津波に襲われている。古くは「弘
仁」「仁治」「明暦」これらは、いずれも詳しい記録が残
っていないので、被害の大きさはわからない。
「慶長」と「延宝」の津波は、僅かながら記録が残って
おり被害の状況もどうにかわかっている。次の元禄十六
年(一七〇三)十一月二十二日夜に襲来したのが、世に言
われる元禄の地震と大津波である。
 当時の海岸は、今のよ
うな砂防林もあったわけ
ではなく、海水は海岸に
ある舟や納屋を押し流
し、一気にのし上げてき
た模様である。長生郡地
区の一部など海岸より
七、八キロメートルも奥
まで、海水がのしあげて
きたとの、伝承がのこっ
ている。
 まったく想像を絶する
大災害であったようだ。旧暦の十一月と言えば、厳寒のこと
である。津波には、かろうじてたすかったものの、飢えと寒
さに命を落とした人も数知れずいたことであろう。
 茂原市本納の蓮福寺の過去帳によると、九十九里浜全体で
人馬二十万余死すとある由である。どんなにか過去の津波に
よる被害の大きかったことか驚嘆のほかはない。九十九里平
野は、太古、下総台地を洗っていた海が、その後の海退によ
ってできた砂州平野である。
 津波が押し寄せようものなら、それこそ逃げ場がない。元
禄の頃に比べれば現在は砂防もあり、立派な保安林もある。
しかしこれだけでいざというとき、どれほどの効果を示して
くれるだろうか。それに、最近本村に隣接する成東町の一部
や、栗山川河口付近に起きている地盤沈下が気になる。地盤
は一旦沈下してしまえば、人力ではどうにもならないもので
ある。地震・津波は忘れたころに襲来するといわれている。
遠い先祖が味わった幾度かのにがい体験を再び現在に繰り返
さないために、平素とかく軽くみられがちなこの方面の施策
の必要性を感じている今日この頃である。
(大7・6・7生)
荒波寄せる蓮沼海岸
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 別巻
ページ 21
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 千葉
市区町村 蓮沼【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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