[未校訂]十七、庄内大地震〝茶屋ね〟の火事余目で死者二二人、全壊一六四戸
日清戦争の起った一八九四年(明治二十七年)山形県は
打続く大災害に見舞われた。二十七年五月の山形市の千
二百八十四戸の大火、八月二十五日、最上、飽海郡の大
洪水そして十月二十二日の庄内大地震、二十八年二月の
蔵王山の大爆発などである。
庄内大地震は、「甲午大地震記」によると明治二十七
年十月二十二日午後五時三十七分から大激震が五十七分
間も続き、午後十一時四十分までに震動二十四回、余震
は二十五日間にわたって続き、一〇五回を記録したとあ
る。
震源地は最上川河口新堀附近で、酒田ではごうごうと
雷のような音がしたかと思うと、各地で土が一㍍も盛り
上がり、家屋が倒壊し、地面や道路に大きな亀裂が生ず
るとともに、ほとんど間髪もいれず水が噴き出し、数分
後の第二の強震では、道路の陥没や池沼の埋没など数知
れず、夕食どきのことでもあり、大火災が発生、被害は
さらに広がった。
震災は庄内三郡全域に及び「両羽地震誌」によると、
民家、官公署、学校、社寺などの全焼千百八十八戸、半
焼千七百五十一戸、被壊六千三戸、死者七五九人、重傷
千九人という大惨事となっている。また、当時の「震災
救済義捐金募集の檄文」によると、「庄内のうち震動最
も甚だしきは、酒田、松嶺、南平田、袖の浦、新堀、押
切等の町村」とある。大地震の被害は余目村役場震災関
係記録によると「余目村全潰戸数数一六四戸、半潰戸数
一二五戸、焼失戸数七戸、死亡二十二人」と記録されて
いる。
また「東田川郡震災実記」によると「十月二十二日、
日没の頃に至り、雨止み風静かなりしに、午後五時三十
五分頃、我然西北方に当り遠雷の如き響を聞くと瞬時に
して、上下動の大激震起りたり、人々[警愕|きようがく]、老幼相扶
助する暇なく窓を排し戸を蹴って屋外に出るに、一天暗
くして咫尺を弁ぜず。老幼の泣き叫ぶ声と家屋の崩潰す
る音と相和し、凄然たる状は実にたとえるものなし。
人々、恐怖の余り殆ど狂する如く、唯泣き叫びて東西に
奔走するのみ。
数分時にして第二激震起これり、然れども第一震に比
すれば少しく弱し。第二震の頃に至り、一時に西北東の
三面より火災起り、其の数凡そ十七ケ所、火焔は次第に
勢を増し、一天忽ちにして白昼の如く、続いて第三震あ
り第二震に比して幾分か弱く、火焔の最も猛烈なるは西
方に一ケ所あり、之、即ち袖浦村大字黒森なり。北西に
一ケ所あり、これ酒田町なり。東方に一ケ所あり、これ
松嶺町なり。三方の猛火相応じ、小焔の如きは洋燈の前
に線香を点ずるが如く、殆ど眼中に映ぜざるものの如し。
酒田町の如きは翌二十三日朝に至るも、尚、黒焔の天を
突きて昇るを見たり。三方、斯くの如きも南方に火焔起
きざるを以てはじめて南方の弱きを知れり。(中略)
余目村にありては、大字余目、大字榎木、大字平岡、
大字千河原、大字槙島、大字提興屋等は最も激震なり。
大字余目の如きは湯屋(浴場)川村弥五郎(註・弥五治郎
でいまの精美堂の南側の建物のところにあって〝茶屋ね〟
と呼ばれていた)の家屋倒壊、入浴(註・丁度夕方のため)
の男女裸体のまま家屋、或は壁を破って外へ出るあり、
或は能はずして潰屋の中に号泣するあり。其のうち洋燈
より火を発して、見る見る隣家、梅木源助方に延焼し、
火勢殆ど停止するところ知らざりしも、幸い、風変じ延
焼五戸にて之を消し止るを得たり。
大字榎木は地裂非常にして、長さ数十間、幅三・四尺
に至る大地裂数十条、その方向は多く西方より東方に走
るものの如し。したがって噴水も非常なり。そのうち、
最も高く噴水したるは殆ど丈余に至り、一時は天地相見
ゆるの感ありしと言う。(中略)
最も、悲惨に死したるは大字千河原、高橋寅蔵及び同
家族にして家屋倒壊の際、家族六人皆其の下敷となり号
泣救いを乞うも容易に之を救う能わず、其のうち内部よ
り火災おこり見る見る焼死せり(後略)
震災死亡者 余目 高橋寅蔵外 二十一名
震災負傷者 余目 遠田作兵エ外 十名」と記されて
いる。
仲町についての記録はいまだ発見されていないが、今
井彦太家の口伝によると「仲町では佐藤佐左エ門(今井
彦太の母の生家で現在の河村清一敷地内にあった)宅は
全壊し〝茶屋ね〟(川村弥五治郎)はつぶれて火事になっ
た」とのこと。また、佐藤幸夫家の口伝では、家は玄関
などが半壊し、夜は又右エ門(現梅木作一)宅の竹籔で過
したと伝えられている。傾いた家屋も数多く、仲町で大
工をしていた佐藤八重作やその弟の由利作(佐藤孝敬祖
父)等は、壊れた家屋等に滑車やロクロなどの道具をつ
かって元の家に復元する仕事をしたと伝えられている。
なお、この年消防規則の改正で初代余目村消防組頭に
佐藤清太(表町)が就任、その後、明治三十年四月から一
年間仲町の佐藤玉作(五組良作祖父)が組頭となってい
る。
十八、斎藤良輔の努力で庄内に「震災地特別処分法」が適用
庄内大地震の発生した明治二十七年、当時、庄内地方
出身の衆議院議員は字町十七ノ一番地の斎藤良輔(現、
茶屋町斎藤整形外科医院院長潔の曽祖父)であった。当
時、政府は大地震の大被害にもかかわらず庄内には「震
災地特別処分法」の適用を認めなかった。このため、斎
藤良輔が上京し、病気のため面会謝絶中の松方大蔵大臣
に面談、陳情によって震災地としての法の恩恵を受ける
ことができたとのことで、後日、酒田町、松嶺町より丁
重な感謝状が贈られた。このことにより茶屋町、仲町を
はじめ当時の字町の住民もいろいろな点で便宜を図って
もらったと推測される。
なお、斎藤良輔の自伝「還暦の斎藤良輔」に、この庄
内大地震について「自宅の震災」という見出しでつぎの
如く書かれている。「さて、私も震災の為め大変な事で
した。前に述べた通り十月二十二日広島での議会も閉会
式挙行せられ、大本営にて立食を賜り、九州林野調の為、
広島を出発し宮島にて秋保親兼と別れ、二十四日午前九
時、山口県庁にて知事と林野話を致すうち、山形県東西
田川飽海三郡大震災人畜多く死すとの新聞を見、大に驚
き電信局に向うたところ不通の旨なれば、九州調査を止
め海陸昼夜兼行して二十八日帰村して見れば、家は勿論、
土蔵建物悉皆墜倒し、宅地所々に亀裂し青砂を吐き出し
たるをみれば如何にも強震なるを慄然とした。況して家
族六人倒れ家の下に敷かれたる話(註・千河原高橋寅蔵
家のこと)を承りました時は、実に寒心致した。
大震は、二十二日午後六時にして私は二十八日午前三
時に帰りしが、家族は畑中に簀を廻し居りまして、実に
憐な様子で、私が帰りましたら、子供の悦びは一方なら
ずでした。先以て、假家を建てに取掛り漸くして雨露凌
ぎの小屋が出来引移りましたところ家族の悦びはたとふ
べきようもなかった。それより、家、土蔵、板倉、納屋
と四ケ年目に漸く落成した。之が為、莫大なる借財を負
い、今に其苦しみ居まする実に非常な災難に遭遇致した
のです。(以上)」
したがって、茶屋町の斎藤良輔宅や川村弥五治郎宅の
被害の状況からしてすぐ近くにある仲町の被害もおしは
かることができるといえよう。