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項目 内容
ID J2601603
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1894/10/22
和暦 明治二十七年十月二十二日
綱文 明治二十七年十月二十二日(一八九四)〔庄内地方〕
書名 〔松山町史 下巻〕○山形県H1・9・3 松山町編・発行
本文
[未校訂]第四節 庄内大地震と松山
庄内大地震
明(一八九四)治二十七年十月二十二日午後五時三
七分、折から各家庭で夕食の準備に取
りかかっていたところ、庄内地方は大きな地震に襲われ
た。
 激震による被害は庄内全域にわたったが、特に最上川
河口を中心にして、最上川本流・赤川・大山川・藤島川
の合流点付近が、もっとも被害を受けた。ちょうど夕食
準備の時間と重なったため方々から火災が発生し、被害
をいっそう増大させた。記録によると、飽海郡全戸数一
万二、七六九戸のうち、全焼が二、一一八戸、全[潰|かい]が二、
○九〇戸、半潰が四、〇五二戸、死者四八七人、負傷者
は六七六人であった。内郷村・松嶺町・上郷村の被害状
況は別表の通りであり、一町二ヵ村で合計六五名の死者
を出す大震災であった。
 松嶺町の五十嵐正之は、地震による惨状を次のように
日記に書いている。
 「午後六時、家宅が傾き、つき出しの勝手の根太が落
ち、水屋の屋根が振い落された。座敷、次の間、茶の間
は大丈夫であったが、板の間は残らす根太落ちて、小屋
は東の方に傾き、破損個所は一々枚挙にいとまがない。
地震が鎮まった後、小屋を裏門脇に造り、仮り住居して
いる。
 この日は終夜時々軽震。町方の多くが潰家となり、横
町より竹田木戸まで火災が発生し、延焼している。学校
は大きく傾いたが、登記所、町役場は格別のことがない。
酒田市中の震災は松嶺より弱震なれど、火災延焼には見
るに忍びざるありさまで、驚きいるばかりであり、筆紙
につくし難い」
 松嶺町役場が十月三十日に山形測候所へ提出した「当
地方震動精細取調」によると、地震の模様は次のようで
あった。
 地震前の著しい天候異変は認められなかったが、地震
前二〇日間余りは殊に晴天続きであり、地震当日は、朝
から陰々朦々として今にも雨が降りそうであった。午後
五時三七分から大激震が五七分間にわたってあった。同
六時五分、西北の方向に鉄道車の遠来かと思う轟音とと
もに、家屋を空中に飛揚するような地震があった。地震
による鳴動と家屋の動揺は、西北より東南、東南より西
北に震動し、三、四秒後、一層激烈な震動があり、多く
の家屋は北か北西に傾斜して倒潰した。余震が一〇分か
ら二〇分間隔で発生し、二十二日の深夜まで、一八回を
数えた。
 翌二十三日も微震があり、午後一一時五分、西方の地
底に、雷鳴のような強い地鳴りを記録した。二十四日か
ら二十七日まで、ともに午後一一時前後に強い地震が発
生した(松嶺町役場「震災関係一途」)。
表120 震災被害表(明治27年10月22日)
町村別
内郷村
松嶺町
上郷村
全戸数
362
430
390
種別
全焼
家屋
13
73

学校
0
0

0
1

4
113

寺社
倉庫類
小計
17
187

全潰
家屋
146
141
25
学校
1
0
0
寺社
4
1
2
倉庫類
16
183
11
小計
167
324
38
半潰
家屋
52
115
44
学校
0
2
0
寺社
0
6
1
倉庫類
69
57
20
小計
121
180
65
破壊
家屋
145
148
211
学校
2
0
1
寺社
3
1
1
倉庫類
220
30
88
小計
370
179
301
死亡者

17
3
2

30
12
1

47
15
3
救助活動
人家が密集している松嶺町では、あち
こちで火災が発生し、被害を増幅させ
た。緊迫した地震と火災の最中に、人命救助に活躍した
人々の「始末書」「[顚末|てんまつ]書」によって、必死の救助活助
の模様を再現することができる。
 その一 内郷村北目の佐藤順吉は、松嶺町字片町の能
登山五郎左衛門を救助した。佐藤順吉は松嶺町で地震に
遭遇し、急いで内郷村へ帰ろうとしたが、途中片町辺で
[倒潰|とうかい]した家屋の中から救助を求める声があったので駈け
っけたところ、絶命寸前の状態で能登山が児童を抱いて
苦しんでいるのを発見。直ちに[潰|つぶ]れた家の屋根を抜き取
り、助け出そうとしたが少しも動かず、たまたま通りか
かった南平田村谷新田の人の手助けによって屋根を抜
き、木材を押し除けて、やっとのことで能登山五郎左衛
門を救出した。しかし、彼に抱かれていた児童は、すで
に絶命していた。
 その二 松嶺町字北町の渋谷智明は、同町蔵小路の阿
部丹蔵並びに同人の孫丹治が、倒潰した[梁桁|はりけた]に圧倒され
ているのを発見。屋根を[剝|は]いで、ようやく二人を救出し
た。
 さらに同町桜田喜三郎宅も全[潰|かい]しており、「誰かいる
か」と問えども応答なく、[潰|つぶ]れた家屋に潜り込んだとこ
ろ、二階が墜落した際に下敷きになったのであろう、喜
三郎夫婦が息絶えだえのところであった。直ちに壁を抜
き取り、助け出そうとしていたところに台所から出火し、
大事になる寸前に火事触れをしたので、近くから高橋鷹
次郎が駆けつけてきて消し止め、やっとのことで壁を抜
き取り、両名を救出した。この時、渋谷智明は、足指二
本をくじく負傷をした。
 その三 上郷村大沼新田の佐藤文治郎と松嶺町字仲町
の毛利五郎の両名は、松嶺町字肴町の高橋嘉七と出会い、
肴町の齋藤金助宅の父娘が、倒潰家屋の梁桁に圧迫され
ていること、並びに東隣の能登山慎太郎宅が火災中で、
近くの山本馬之助・高橋嘉七宅にも延焼の恐れがあるこ
とを告げられ、直ちに駆け参じて倒潰家屋を取り除いて
いたところへ、肴町の伊藤三蔵、内町の日下部権之助の
両名も応援に駆けつけ、齋藤金助父娘の救出に協力した。
佐藤文治郎らは負傷した父娘を、医師の久米井歳三宅ま
で運んだ。
 その四 余目村字町の梅木豊治郎は、この日たまたま
松嶺町字片町の親戚、佐藤元吉宅へ所用で来ていた最中
に地震に[遭|あ]った。元吉宅や隣家も[悉皆|しつかい]倒潰したが、この
後、救助を求める声を聞き、元吉の娘が屋根に圧倒され
ているところを助けた。さらに、隣家の[桶|おけ]屋で水風呂に
入ったまま倒潰した家屋の下で手を挾まれていた女性
を、同家の夫と協力して戸外に救出した。
 この後、隣家より出火した炎は、天を焦がして延焼し
始めた。この時、巡査が通りかかって圧死寸前の者がい
ることを告げたので、ともに奔走して駆けつけ、倒潰し
た家屋の下で助けを求めて叫んでいる後藤いしのを発
見、邪魔な障害物があって中に入れなかったが、巡査が
帯剣でそれらを切り破ったので手を挿し入れたところ、
二女のちようを抱いて倒れていたいしのの頭部に当た
り、心を鎮めてよくよく調べてみると、顔が板に挾まれ
ていることがわかった。さらに手を探り入れたところ、
冷たくなった人の足に当たり、この世のものとも思えず、
驚いて巡査の提灯で調べて見ると、いしのの母は全身を
圧迫され、すでに絶命していた。この場に居合わせてい
しの等の救助に当たった人たちは、後藤又四郎・佐藤元
吉・新舘馬治・東海林嘉吉らであった。
 その五 松嶺町字新町の田牧七郎と、同町後藤六助の
二名は、字新町の齋藤とみが、齋藤つねの長女みゆきを
抱いて、倒潰した家屋の軒下の[桁|けた]に圧倒されているとこ
ろを救助した。さらに同家に用談に来ていた内郷村茗ケ
沢の遠藤與吉は、[梁|はり]に押されていたところを彼等に救出
された。
 その六 松嶺町字仲町の木村常蔵は、同町奥井道三郎
の妻かねと長女ふさの両名が梁に圧倒されているのを発
見、同家勝手より出火し、付近も火災中で近づくのも困
難な状況の中で、まず屋根の萱を抜いて、やっとのこと
で火災を消し止め、二人を救出した。
 その七 内郷村土淵の後藤三蔵と松嶺町字仲町の手利
五郎の両名は、自家の倒潰をも省みず、松嶺町字本町小
田東十郎宅のつねよ、より江の二名が、差物に圧迫され
て絶命状態にあったところを救出した(「震災ニ付救助願
書一途」)。
医師、門山周智・久米井歳三の活躍
震災による負傷者・火傷者の治療
に当たった字内町の医師門山周
智、及び字本町の医師久米井歳三の活躍は、当然のこと
ながらすばらしかった。
 門山周智は嘉(一八四九)永二年三月の生まれで、当今働き盛り
の四十五歳であった。
 門山周智宅も半[潰|かい]したが、薬剤器具等をまっ先に庭園
に運び出し、さっそく字本町の齋藤多郎右衛門を訪れ、
彼の妻ちよへの顔面部や、下女くめの肢腫骨部を治療、
さらに全焼全潰地域へ駆けつけて、負傷者四八名を徹夜
で治療した。地震後一〇有余日間は、近村の罹災負傷者
がひっきりなしに門山医師を訪れており、門山は重軽傷
者一〇〇有余人を治療した。
 同じく松嶺町字本町の医師久米井歳三も、怪我人の治
療に奔走した。久米井は、元(一八六四)治元年四月生まれで、三
○歳の若さであった。彼は、重傷であった字新町大内清
表121 明治27年震災取調報告
全焼
全潰
半潰
破壊

1.家屋

58

210

152

10

430
2.社寺
1
1
6
1
9
3.学校
0
0
2
0
2
4.土蔵
28
63
23
10
124
5.板蔵類
85
120
34
20
259

172
394217
41
824






1.死亡
3
12
15
2.負傷
68
65
133

71
77
148
注)「震災関係一途」松嶺町役場
表122 松嶺町町別被害状況
全焼
全潰
半潰
破損






南新屋敷

3
8
19
30
元新屋敷

5
4
13
22
南町
1
11
7
13
32
仲町

8
8
14
30
内町

5
15
14
34
新屋敷

3
6
7
16
北町

11
8
3
22
荒町

16
14
22
52
袋町

4
1
1
6
本町
1
10
3
17
31
蔵小路

8
2
2
12
肴町
21
5
1
2
29
新町
31
3
1
1
36
片町
4
31
16
10
61
合計
58
123
94
138
413
注)「震災被害戸数人名簿」
表123 明治27年震災負傷死亡表
松嶺町
負傷部位
死亡者
負傷者


1.頭蓋部7
10
2.顔面部1
12
3.頸部1
0
4.胸部4
9
5.背髄部0
13
6.腹部0
2
7.上肢
0
8
8.下肢
1
17
9.股間節脱臼
0
1
10.火傷
3
1
合計
17
73
表124 地震による損害高
事項
損害高

1.道路 20間
5
2.橋 6カ所
250
3.溜池 1カ所
300
4.学校 2校
15,310
5.神社 8社
10,500
6.寺院 4寺
35,500
7.堂塔 1
2,300
8.仏閣
10,200
9.焼失家屋 58戸
31,905
10.全潰家屋 126戸
64,315
11.半潰家屋 93戸
21,160
12.破壊 153戸
42,570
13.焼失有体動産
30,535
14.全潰有体動産
21,754
15.半潰有体動産
5,035
16.破壊有体動産
4,589
合計
296,228
注)「震災関係一途」松嶺町役場
助、同いちのの両人を施療したのを始めとして、四〇人
の負傷者を徹夜で治療した。久米井は、彼の書生であっ
た助手を、内郷村竹田方面に派遣して治療に当たらせた。
 門山と同様、久米井もこの後一〇余日間は、震災によ
る負傷者の治療にかかりっきりになった(松嶺町「震災
ニ付救助願書一途」)。
松嶺町の被害状況
松嶺町の被害状況は、町長小華和業修
から飽海郡長佐藤直中あてに、「震災
取調報告」として提出された。それによると、震災によ
る死者は、女子が一二人、男子が三人で、合計一五人で
あり、負傷者は、男子が六八人、女子が六五人であった。
また、全焼した棟数は、一七二棟であり、全潰棟数は、
三九四棟の多きに達した。
 「松嶺震災被害地図」によると、全潰家屋の目立つ地
域は、町の西端に当たる片町・本町・蔵小路・荒町・南
町などであり、合計二一〇戸が[倒潰|とうかい]した。
 また、五六戸を全焼した肴町・新町・片町の大火は、
特筆されなければならない。松嶺町では、このほか五個
所から火災が発生しており、夕暮炊事時の地震における
恐ろしさを物語っている。
表125 庄内大震災山寺地区被災状況(注、個人名は省略)
「全潰十一名 半潰十八名 破壊七十九名」
注「山寺地区被災状況並救恤費給付明細」
 松嶺町役場が、二十七年十一月十九日に飽海郡役所に
報告した同町の地震による損害額は、合計二九万六、二
二八円であった。
 今回の大地震で倒潰した建物にみられる特徴は、(一)東
西に長く南北に短い建物には倒潰が少なく、それ以外の
建物に全潰や半潰が多かったこと、(二)柱が細く、重い瓦
屋根のもの、(三)柱根を継ぎ替えたもの、(四)土台作りのさ
れてないもの、(五)棟木が一本通しでなく継ぎ替えたもの、
及び柱と柱の中間の[貫|くぬき]を[楔|くさび]で止めたもの、(六)以前沼沢
であったり、[堅牢|けんろう]でない地盤の所に建てた家屋などに被
害が多かったことである。
 地震によって地盤が陥没した場所は、以前に堀を埋め
たところ一個所であった。道路に亀裂は生じたが、著し
いものではなかった(松嶺町役場「震災関係一途」)。
救済から復興へ
地震発生後、さし当たっての炊き出し
が、十月二十三日から一日平均三石八
斗六升五合の割合で一週間続けられた。その結果、米六
九俵(二七石六斗)を炊き出しで消費した。炊き出しを受
けた延べ人数は、男子が二六七人、女子が三二四人であ
った。炊き出し雇人夫は延べ四九人で、日当は一人一日
一五銭であった。
 松嶺町の各被災者は、十月二十五日付で山形県知事木
下周一あてに、地震被害による小屋掛料を支給されるよ
う、願書を提出した。願書には一家の人員数・耕作反別・
地価金・家屋の建坪などを記入し、当座の雨風を[凌|しの]ぐた
めに、一律七円の小屋掛料及び食料金の支給を、保証人
二名連署の上で申請した。
罹災ニ付小屋掛料御給与之儀ニ付願
 明治二十七年十月二十二日午後七時、私儀[忽然烈敷|こつぜんはげしき]震
動と共に、家屋は破壊致し、家財雑品に至る迄、[悉皆微|しつかいみ]
[塵|じん]に相成り、[素|もと]より未曾有の大地震にて、全町の災害に
御座候へば、差当り[何処|いずこ]に手頼るべき様これ無く、[且|かつ]、
有力の親族もこれ無く、自分路傍に露宿[彷徨|ほうこう]悲歎罷り在
り候間、御成規の小屋掛料金及び食料金御給与成し下さ
れ度、此の段、願い奉り候也
明治二十七年十月二十五日
山形県飽海郡松嶺町字北町四〇番地
士族 願主 佐藤政隆
同県同郡同町字同四五番地ノ内二号
平民 保証人 榎本常三郎印同県同郡同町字同三八番地ノ内一号
士族 保証人 榎本熊蔵印
山形県知事 木下周一殿
人口反別地価金其他取調書
家族(略)合六人
一、所有反別四畝一三歩
此地価金一三円二〇銭四厘
但、右宅地
一、食料金、五円一〇銭、但 一升に付、金八銭五厘
内 金二円四銭 男二人分
金三円六銭 女四人分
一、罹災家屋坪数二四坪
梁間四間
桁間六間
此価格 金七五円
一、小屋掛料 金七円
右の通り相違これ無く候也
明治二十七年十月二十五日
戸主 佐藤政隆印
(「罹災ニ付小屋掛料御給与之儀ニ付願」)
上郷村の救恤願は、次の通りであった。
特別御[救恤|きゆうじゆつ]ノ儀ニ付願
客年十月二十二日、振古未曾有ノ大震災ニ[遭|あ]ヒ、家屋ハ
全潰半潰或ハ破壊シ、家具日用品等ニ至ルマテ微塵ト相
成、当時僅々身ヲ以テ免レ候体ニ有之候得者、従来赤貧
ニシテ他ニ親戚故旧ノ頼ルヘキ余裕ノ者モ無之、[殆|ほと]ント
飢餓ニ迫ルノ惨状ヲ呈スル危急ニ接シ候ニ付、取[敢|あ]ヘス
御救助ノ儀、奉願置候際ニ再請仕ルモ、甚タ恐縮ノ至リ
トハ存候得共、[奈何|いかん]セン時季三冬ニ会シ、[茅屋|ぼうおく]三間風雪
ノ襲来ヲ[拒|ふせ]キ難ク、[冱寒凜冽|ごかんりんれつ]肌ヲ[砭|いしば]クモ、被衣ノ薄キ
食料ノ乏シキ如何トモ立[凌|しの]キ兼候、殊ニ目下地方一般罹
災後ノ事トテ、他ニ労働力役ノ資ヲ[獲|う]ルニ由ナク、何ヲ
以テ露命を[繫|つな]キ、一家ノ生計ヲ立テ可申哉ト、日夜[哭|こく]
[泣|きゆう]悲歎罷在候、実ニ坐シテ[凍餒|とうたい]ヲ待ツノ外無之境遇ニ
御座候得者、何卒御[憫察|びんさつ]被成下、特別ノ御仁恵ヲ以テ、
別紙調書ノ通リ融雪ニ及ヒ、職ニ[就|つ]キ候迄ノ間、御救恤
被成下度、此段奉哀願候也
明治二十八年二月二十二日
飽海郡上郷村大字山寺今田久三郎外一二四名惣代
願人 高橋権吉
同上 齋藤治良右衛門
同上 冨樫蔵士
同上 冨樫安治
同上 難波清作
同上 河内直政
山形県知事 木下周一殿
 震災復旧のための用材配給が、二十八年一月八日に行
われ、全焼には七本、全潰には三本、半潰には二本ずつ、
合計一、〇五三本をそれぞれ罹災者に給付した。
 [義捐|ぎえん]金も寄せられ、北海道では山形県人が協力し合っ
て、北海道札幌区震災義捐金取扱所を開設し、五、六百
円の募金をしているという情報が、塚越鼎から松嶺町長
に届いた。そのほか佐藤格馬・小華和貞男(以上屯田兵)
や、群馬県桐生町の佐羽吉右衛門他からも、義捐金が寄
せられた。義捐金は、飽海郡役所管内で一万一、三一二
円に及び、そのうち松嶺町への配当額は六九九円であっ
た。なお、上郷村へのそれは一八九円、同じく内郷村へ
は四七四円であった。また、天皇からの下賜金四、〇〇
○円のうちから、全焼家屋一戸に対して九八銭、以下全
潰家屋に四九銭、破壊家屋に一九銭、死亡者に二九銭、
負傷者に一〇銭、それぞれ給付された(「備蓄儲蓄ヨリ御
救願ニ付申添」)。
 内郷村には「食料及小屋掛料金下戻帳」が残されてい
るが、これによると、二(一八九六)十九年一月十日頃、被害者が一
円五〇銭前後の食料金、並びに小屋掛料金を下げ戻して
もらっていることがわかる。
 明治二十九年秋、中北目村の有志は、大地震で遭難し
た人たちを弔うため、「震難者の墓」を建立した。
第126 内郷村「食料金及小屋掛料金
下戻帳」
村名
人数
金額
大字土渕
23人
35.360円
茗ケ沢
5
7.633
上餅山
11
20.931
上北目
8
15.556
中北目
19
30.160
小見
13
22.700
下餅山
4
6.927
引地
7
9.370
竹田
41
63.405
中牧田
5
7.280
相沢
3
3.387
合計
139
222.709
注)内郷村役場,明治29年1月10日
松嶺殖産興業資金
大地震にともなって、「震災地方地租
特別処分」により、上郷、松嶺、内郷
一町二ヵ村の田地租軽減があったが、その軽減分を積み
立てて、二(一八九六)十九年六月十日、これを松嶺町産業復興のた
めの「松嶺殖産興業資金」として発足させた。その趣旨
は、松嶺町殖産興業のために、資本を供することであっ
た。
 「松嶺殖産興業資金」の運営委員長には齋藤元経、委
員副長には小田克巳、委員に土方恕平・阿部松右衛門・
齋藤多郎右衛門・小田東十郎・土方俊夫が当たった。出
資金総額は四〇〇円で、出資額のトップは一七五円の齋
藤元経、次いで六五円の小田克巳、二十五円の齋藤多郎
右衛門、二〇円の土方恕平であり、以下一五名が出資し
た(「興業資金管理規程」「松嶺殖産興業資金出金人名
簿」)。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺
ページ 369
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 山形
市区町村 松山【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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