[未校訂](三) 熊本地震とその震災
1 震源
震災当時の熊本では地震観測はされていなかった。従
って、被害分布や震度分布などを参照して震源が決めら
れている。熊本地震は鳴動を伴ったという記録があり、
一般に鳴動を伴う場合には、震源はごく浅いことが知ら
れており、熊本地震の震源はごく浅かったと推定できる。
震源が浅い場合は、震度分布や被害分布の最強の場所を
震央と考えて大差ない。
熊本地震の震央として報告されているものを表2、図
5にあげる。震源位置について、今村(一九二〇)は、震
央分布の考察から「震源を金峰山の峰より東方凡そ一里
に於て余り深からざる位置に取る事は前記の如き震度分
布を生ずるに足るべしと思惟せらるるなり、以上の方法
により、また熊本市に於ける余震の観測に於て其震動の
方向主として北北西なることを顧慮して震央を決定する
ときは其位置東経一三〇度四〇分北緯三二度四九分半を
得」と述べている。震央位置として図5のどれを選べば
よいのかの確定的な判断はできないが、前記五つの震央
位置は大きくはなれていない。また、マグニチュードは
6.3と決められている。
図5 震央と立田山断層
熊本市(1988):熊本市震災対策基礎調査報告書より
(1)今村
(2)気象庁
(3)福岡気象台
(4)宇佐美
(5)宇津
2 震度
各地の震度値を表3に示し、震度分布を図6にあげて
おく。ここでは、微震→Ⅰ、弱震→Ⅱ、Ⅲ、強震→Ⅳ、
烈震→Ⅴに相当するが強烈震については、特に定義はな
いが、現代の震度Ⅵに相当すると考えている。
震度Ⅴ以上の地域は、現在の熊本市と飽託郡の全域、
上益城・下益城郡の一部となっている。
3 余震
余震の日別回数は、今村(一九二〇)が述べている。こ
れを図化し、図7に示しておく。余震の日別頻度が調査
されているのは、この地震が最初である。しかし、余震
に対する知識が乏しかったため、連日鳴動を伴って起こ
る余震を、金峰山の破裂の前兆とみた人々が多く混乱が
起こっている。何れの文献にも本震に先立って地震が発
生していた記述がまったくないところをみると、少なく
とも有感の前震はなかったことがうかがえる。
表1 一八八九年七月二十八日の熊本地震による被害表
地名
家屋
全倒
同半倒
圧死
負傷
裂地
道路
壊崩
山林
同
耕宅地
同
提防
同
橋梁
同
同
破損
井水増
井水減
井水濁
熊本市
三一
一七
男二
男二
女一
女三
三八
三
三
三
飽田郡
一四三
一二二
男七
女八
男一九
女一五
六四二
九九
九
三二六七
二八
一〇
一七
一五
一
八四
託麻郡
一一
五一
男五
一三
四
一
二
二
四
七
玉名郡
一三
二七
男一
男一
女六
一四二
二四
二
二三
一二
三
一四
三六
山鹿郡
一一
四
女一
一一
四
六
二
三
山本郡
八
六
女一
二四
三
二
二六
二
三
菊池郡
一
六
一
五
二
合志郡
二
二
二
一
上益城郡
一四
一三
三
五
四
四
三
下益城郡
二
一
二
二
計
二三四
二二九
男一〇
女九
男二七
女二六
八九三
一三七
一七
三三三六
四五
二四
四一
一九
一
一三八
〈県庁調査による〉
4 マグニチュード
熊本地震のマグニチュードは6.3が与えられており、被
害や震度分布からみて、適当な値と考えられる。
5 被害分布
被害の分布を知るための資料は、中央気象台報告地震
の部、今村(一九三〇)、水島貫之(一八八九)に出ている。
ここには、水島の熊本縣庁の調査による震災被害を掲げ
ておく(表1)。
(四) 河内町に関わる震災記録
当時は金峰山の破裂が懸念され、学術調査がなされて
いる。ここでは、水島貫之の「熊本明治震災日記」より、
河内・芳野地区に関わる震災記録の主な出来事を以下に
抜粋する。
『熊本明治震災日記』
翕巷迂叟
七月二十八日 晴れ 正午寒暖計九十八度
表2 熊本地震(1889)の震央位置
(熊本県地震対策基礎調査報告書P.36より)
番号
経度
緯度
備考
(1)
130°40'
32°49.5'
今村(震災予防調査会報告92号)
(2)
130°40'
32°45'
おもな地震の規模表(気象庁)
(3)
130.7°
32.8°
九州山口県の顕著地震の表(福岡管区気象台要報25号)
(4)
130.65°
32.8°
宇佐美(資料日本被害地震総覧)
(5)
130.7°
32.8°
宇津(1885年~1925年の日本の地震活動)
図6 熊本地震(1889年)の震度分布図
表3 熊本地震(1889年)の各地の震度値(熊
本県地震対策基礎調査報告書P.39より)
肥後 熊本 烈 V
〃 飽田郡 〃 〃
〃 山本郡 〃 〃
〃 上益城郡 〃 〃
〃 下益城郡 〃 〃
筑後 三潴郡 強 Ⅳ
〃 三池郡 〃 〃
肥後 菊池郡 〃 〃
〃 阿蘇郡 〃 〃
〃 八代郡 〃 〃
〃 球磨郡 〃 〃
筑後 浮羽郡 〃 〃
肥前 南高来郡 〃 〃
〃 神崎郡 〃 〃
〃 小城郡 〃 〃
筑前 福岡県庁 〃 〃
〃 穂波郡 〃 〃
豊後 日田郡 〃 〃
〃 玖珠郡 〃 〃
〃 直入郡 〃 〃
〃 大野郡 〃 〃
〃 大分測候所 〃 〃
〃 北海部郡 〃 〃
〃 南海部郡 〃 〃
豊前 京都郡 〃 〃
〃 宇佐郡 〃 〃
豊後 速見郡 〃 〃
〃 西国東郡 〃 〃
〃 東国東郡 〃 〃
薩摩 出水郡 〃 〃
日向 東臼杵郡 〃 〃
〃 西臼杵郡 〃 〃
〃 児湯郡 〃 〃
〃 東諸県郡 〃 〃
〃 宮崎測候所 〃 〃
〃 北諸県郡 〃 〃
薩摩 薩摩郡 弱 Ⅲ~Ⅱ
〃 鹿児島測候所 〃 〃
〃 喜入郡 微 Ⅰ
筑前 志摩郡 弱 Ⅲ~Ⅱ
肥前 東松浦郡 〃 〃
〃 北松浦郡 〃 〃
〃 長崎測候所 〃 〃
〃 南松浦郡 微 Ⅰ
肥後 天草郡 弱 Ⅲ~Ⅱ
壱岐 壱岐郡 〃 〃
長門 赤馬ケ関測候所 〃 〃
〃 大津郡 〃 〃
〃 阿武郡 〃 〃
周防 山口 〃 〃
〃 玖珂郡 微 Ⅰ
石見 鹿足郡 弱 Ⅲ~Ⅱ
〃 美濃郡 微 Ⅱ
安芸 広島測候所 弱 Ⅲ~Ⅱ
伊予 越智郡 〃 〃
〃 伊予郡 微 Ⅰ
〃 東宇和郡 弱 Ⅲ~Ⅱ
土佐 幡多郡 〃 〃
此の日、早朝より一天晴れ渡り………………[徒然|つれづれ]をいやさ
んと煙管をとり埋火を搔き出すの際西方に当りて轟然たる響
きを聞くかと思う間に家屋にわかに動揺を始めぬ。傍らに臥
たる妻を呼び、あわてて寝室を出て直ちに雨戸を開けんとす
るも動揺の為に[圧|おさ]れてすきを得ず。此の時はやく家族は皆小
生の背後に集まれり。数分時にしてやや微動に転ぜしかば、
[畢生|ひつせい]の力を出して[漸|やつ]と一枚の雨戸を繰り入れたり。続いてま
た再び震動の興り来たれば皆庭前芝生の上に座せしむ。此の
第二の動揺収まりて始めて時計を検するに十二時五分前を示
めせり。小生戸を開くや庭に飛び下りて泉水を見るにいまだ
[激浪|げきろう]治まらず。南方は僅かにして北方にほとばしり、殆ど深
さ二寸余の水を揺すり出して庭上ただようたり。初めの震動
の際戸を開け得ぬまま、板縁にたたずみして動揺の[形勢|さま]をみ
るに、安政度の震動は身体よろよろして歩行になやめるを覚
えしかど、今回の震動は全くひょろひょろのなやみ少なかり
しは、大いに異なるものあるを感じたりき。唯、家屋造作の
[大軸|しん]を震動せしめ殊に強く覚えしは天井を四方よりもみ[崩|くず]さ
んとするがごときの響きは実に凄まじかりき。後にて想像す
るに安政度の震は[横動|よこゆり]にして今回は[縦動|たてゆり]の強なるを以て其の
異なる所以を悟れり(縦動横動のことは学上の説または実践
を挙げて後に言い明かすべし)。初震前のごうごうたる響音
は我人[無意無心|おもいもよらぬ]の折り突然と発せしことなれば、しかと形容
し難きも西方より来たるの感
ありて初震再震とも激動の
後、微動の響きは[延|ひ]いて東方
に向かって去るがごとき感覚
疑うべからず、当夜この再震
の興るまでは響きに[紛|まぎ]れて人
声のあるや否や気もつかざり
しが、やがて四方八方互いに
言を交せるの声は、さながら
ときのこえのごとく耳を[澄|すま]し
て遠く望めば親は児を呼び、
子は親を慕うのこえごえこだ
まに[冴|さ]えて[遙|はる]かに物凄く近く
幼児のなきごえ喧しきを覚え
たり。数時間を経てやや人民
[恐懼|きようく]の声は静まりしも震動は
絶え間なく鳴響を交わえて強
弱互いに起こり、遂に人々家
宅に入ることを恐れ慎み、夜
露を侵して大地に[莚|むしろ]を敷き、
或は畳を持ち出して、一夜を
あかせり。斯かる[形勢|ありさま]なるよ
り、市街一万余の人家[悉|ことごと]く燈
火を戸外に掲げ或は洋燈を吊し或は提燈を用い思い思いに[徹|よど]
[夜|おし]の用意を整えしかば、市街の一天を遠く望めばあたかも火
災かと[怪|あや]しまるるばかりの[光景|ありさま]なりき、被害の町々より急報
を得て警吏は四方に[疾駆|かけまわり]し救助と保護とに力を尽くし、又
は警鐘を急打して消防夫をよび集め各町の倒家に走らせて救
護せしむる様、警察署の繁忙言語に述べがたく、県庁には長・
次官を始め職員皆登庁し庁前の広庭に臨時掛けを設けて庶務
を沙汰し、市役所市長・助役を始め吏員悉く出頭し………。
七月二十九日の熊本新聞の号外
(注、省略、「熊本市史」にあり)
熊本県庁は、大震の後、直ちに阿蘇山、温泉岳(雲仙岳)、
その他噴火の恐れのある地方及び海岸の調査を行ってい
る。その中で松尾村湯谷の人が、二十八日午後十一時三
十分ごろ、松尾海岸を距るおよそ八町くらい沖合いに出
漁中、俄然西南の間に雷鳴の如き響きを聞くや、またた
くまもなく海面激浪となり、ほとんど船体も覆没せんと
する勢いなりしが、ようやくにして海面鎮まれりと。百
貫石付近に住む老漁夫もこの激浪に出会っている。
熊本新聞の七月三十一日の各郡集報によると、
飽田郡船津村は道路所々壊る。
飽田郡松尾村道路谷川堤防数ヵ所破損せり。
図7 熊本地震(1889年)の余震の日別頻度図
また、海西日報は七月二十九日の号外で、 玉名郡小天地方
は地震猛烈なりしとみえ、渓水に沿うたる道は、あたかも櫛
の歯の欠けたるごとく処々崩壊したり。土蔵破損多く、築造
の新旧を問わず。或は棟梁折れ又は中央より裂くるあり。震
動中、山潮の出るとの風説何処より起こり来たり、低地のも
のは高所に引き移るなど一方ならぬ混雑なりし。飽田郡牧崎、
荒尾、平山、岩戸地方は裂け地少なからず、されど人畜に負
傷なし。
九州日日新聞は七月三十一日の報で、
飽田郡南部旧銭塘郷辺の突き井戸は、近ごろ水勢減少して
なかには全く止まりしも多かりしが、七月二十八日の夜の地
震にてことごとく土砂を吹き出し、水勢を増したり。川筋に
架設せる石橋、ことごとく破損し、なかには全く崩れ落ちし
ものあり。
また、九州日日新聞が滑稽の筆を弄して「仁王走り、
「唐獅子おどる」と題し、
本妙寺山中にある丈余の石体の仁王は、其のすわれる処を
飛び出して危うくも台石を踏み出さんとし、青銅の獅子もま
た同じ。もって其の縦動なるを証すの一なり。
震動前西の方の鳴動を聞き、後に始めて其の動揺を感ず。
また普通の地震にあらずして火山等の作用に原因すると想像
したことにより噴火の恐れある阿蘇山及び温泉岳(雲仙岳)を
実査、異常なきことより、熊本人民の眼は、一に西山殊に金
峰山の一点に映ぜり。故に、誰が云うとなく、近き頃金峰の
山上に遠雷のごとき響きを聞くと。………………金峰山上煙
霞立ち昇と。或はいう、荒尾山の頂にあたり電気発生すと。
……………今回の劇動は金峰山破裂の兆候なるべしとの説
は、大いに勢力を有せることあるのみならず、昔より其の原
因ありて存せり。
今回熊本人民が金峰山に注目する原因として、二十一年よ
り本年にかけ、県内の地質を調査せられし地質局員が、金峰
山は火山質にして未だ噴火せざる消火山なりと陳述せられし
にもとづけり。この言葉が、今回の劇動西方より起これると
の感覚より、氏の言を信じ衆人の疑心を金峰山に懐くに至れ
り。(地質調査局員鈴木敏氏は東京にありて、火山質と今回
の震動は関係なしとの説明を熊本へ向け直送されている。)
七月三十日熊本新聞の号外によると、
二の岳の南側中腹なる野出村は、全村民家の地盤大抵崩れ
ざる処なき程なりという。然しながら、西方の方は熊本に比
すれば却って損害少なく、金峰山のごときは昨日巻狩ともい
うべきさまに、消防組を入れられ、絶頂まで登して吟味され
しも、別に是はという程のことなく、岳村駐在巡査の報告に
よれば、北面に四反歩ばかりの山林崩壊ありと。其の外、海
岸並びに海上はまず平穏にて、最初の地震後は鳴動といふも
なく。郵便船も日々往復せりといえり。是等を以て見れば、
この熊本市こそ震動の中心にして、西山には関係なきかとも
いう。
芳野村村長より大字嶽村外四大字中の被害報告。
一、破壊家屋四十五棟。
内住家三十三棟 物置七棟 小屋六棟 但し家屋上にそび
えたる崖崩壊のために破壊す。
一、道路破損五十九ヶ所。延長三百三十間内三等道路十九ヶ
所 里路三十ヶ所。
一、道路埋没 一ヶ所二十五間。
一、田畑宅地の石垣及び崖崩壊六百五十箇所 延長六千五百
間。
一、地裂 百七十間 但し重ナル箇所
但し幅最も広き処は岐部太郎家屋内にておよそ一尺五寸
位。
金峰山中字大辰およそ五反歩字園山岩石大小四十餘墜落
す。
一、山崩壊 字城山三畝歩、大字野出の内字瓶割迫山中より
大石二個三等道路に落つ。
一、危険の場所 大字野出字川床切通は、大岩双立の間を通
行する処なるが西側の大岩一寸餘土地を離れたり。
一、落橋一ヶ所 長さ五間幅八尺。
一、負傷 女一人軽傷。
熊本新聞による西山の水源調査(特派)
金峰山二の嶽の西なる小天温泉は、地震のとき濁りを呈せ
しが、もはや清水に復せんとし、船津も異常なく、突出しの
湯は地震の時は一時濁りしも、やがて澄めりという(八月一
日発行)。
船津は温泉其の他異常なく、突き井戸の湯は震動のとき少
し金砂を噴出せしのみ(八月二日発行)。
理科大学教授理学博士小藤文次郎、出張中の大分から来熊。
八月三日晴れ 正午寒暖計九十五度
本日午前二時十五分、俄然大震動を起こせり、熊本新聞の
報道は次の通り。
熊本新聞いわく二十八日の大地震の後は時々小震動あるの
みにて市民ようやく[安堵|あんど]の思ひをなし昨日頃に至りては仮小
屋を取り去り露臥するもの尠くなりて屋内に安臥し居たるも
の多かりしに、本日午前二時五分頃引続き二回の小震動あり
て同十五分俄然大震動を起こしすわや破裂と言わぬばかりに
全街ごう然として屋外に飛び出て又一夜を露宿せり。此の震
動は二十八日の夜の大震に比すれば幾分か小震なりき。
八月三日 小藤博士西山調査に出発。熊本新聞の博士巡視
の報道
金峰山古松蒼々老杉蔚々、熊城の人西に之を望み風光の美
を称せり。斯かる金峰も今や恐懼の起こる所となれり。けだ
し衆人か今回地震の原因を此山なりと憶へばなり。是を以て
西山を探究するは今回大地震後衆民に安堵を與ふるの第一着
となれり。小生が初め西山に登りしは本月三日にして彼の博
士に随ひしものなり。路鎌砥坂を経既に坂路にかかる道すが
ら、路傍の墓碑を検し、湧水を汲み、岩石を探り、或ひは村
家入りて婦女をも相手に震況を問ふ。頗る周密なりき。午前
八時十分荒谷にて微震を感ぜり。鳴動は西より来たれり。博
士笑いていう、折角登山せり。なるべく地震に遭わざるべか
らずと。鳥越えに達して茶店に休し且向かう処を定めらる芳
野村大字野出に掛かり、須原という処に馬のこうちという処
あり。長さ二百三十間ばかりひわれせりという。さらば行々
大字岳の列地を検して遂に其の処見んと皆茶店を起つ。岳の
内富塚といふ地あり。金峰の山脚より北に延び来れる丘陵な
り。此に岐部氏の屋敷あり。東北西の三面は[断崖|がけ]をなす。斯
の邸地裂けたり。方位南北にしてやゝ東北の方に偏せるか如
し。芳野村役場を出て古閑下といふ処に土蔵の破損せしを見
る。是より進みて川床通りにかかる城山の岩は崖下に墜ちて
あり。金峰の北面龍崩の[崩所|つぶれしどころ]明らかに見ゆ。既にして猿
田彦の水に致る。此処にて小憩す。猿田彦の水は地震後とみ
に著名の水となれり、川床通り路傍にある湧水なり猿田彦神
と大書したる石碑を建つ。是水の名の起源なるべし。傍らに
一家あり。此の度通行人の休息処なり。二十八日の大震に水
濁り両三日にして澄むが、今三日暁の地震にてまた濁れりと
云い白濁色をなせり。是より北、野出、二の岳の山脚を登る。
此の処に三十間ばかりの破綻あり。夫より西に谷を越えて一
の[尾端根|おばね]に登る。此の処即ち著名となりたる馬のこうちなり。
裂地の長さ二百間に餘りつらん。裂地の処を登り尽きて西の
谷に須原の民家茅屋数軒あり。乃ち水ある処を尋ね、博士を
はじめ井水の辺に腰うち掛けて昼食をなす。昼食中午後零時
三十五分地震あり。鳴動の方位東西なりしかごとし、谷間な
れば真方位を定めがたし。食終わりて、また北に登る。中途
に昔年の壊あとあり。此の処より水を噴きたる為壊たりと云
い尚も登りて今二三丁にして野出の人家に達せんとする頃、
小生は暫らく樹下に休せり。後より登りし博士其の他両三氏
同所に休せられる他は速やかに野出へ登り去れり。博士図を
案じ、地形を参看し、自己の考案を示めさる。既にして野出
に達し上妻氏の宅に休む。此の処にて前の博士の談に基づき、
西山の模様を手短に記しなほ誤りを伝へんことを恐れ博士の
一覧を請い、これを我が熊本新聞へ送れり。野出にて亦向か
う処を定めらる。遂に玉名郡山北村に赴くことゝなれり。此
処より熊本へ還える人あり。野出を発し二の岳の中腹を廻り
小天村山の神に至りして頃、巡査あり。跡を追って来たり。
報して言う、本日大多尾に灰降れりとて居民は家を捨てて檜
山に避けたりと。さあらは其の地に赴きてこれを検せんとて
野出に引き還えす。山の神にて謝遣せられし人あり。小生は
なほ行くことを得たれとも野出村より別れて熊本へかえる。
而かして彼の大多尾に灰降りしといへることは思うに誤伝な
らんかと敢へて新聞にも記さず。又人にも語らざりき。翌日
に至り果して施風にして灰にあらざることを聞きぬ。
西山沿海漁業及振動の方位井水の景況を取調本日報告あり
しは左の如し(八月八日熊本新聞)。
○白浜村は震災後一切不漁。
○船津村の漁業者及問屋などの言によれば、本年は昨年など
に比し極めて尠なし。長雨後晴天になり三日位は少々大漁
ありしも震災後一切不漁。
○島原港より船津へ積み送る魚類も例年に比し頗る尠し。
○塩屋村は地震前後漁業に格別のかわりは感せされど例年に
比し頗る不漁。
○百貫港へは地震後一尾の魚類陸上げせず。
○小嶋村も頗る漁尠なし。震災後は格別の不漁なり。
白浜村にて平井は悉く濁り飲用に適せず。堀井戸は清水に
して格別異動を見ず。南方より鳴動し来るの感あり。
○船津村にては海水やゝ濁りをみる。平井は赤色の濁りなる
も並井戸は清水なり。方位は東南隅より鳴動し来るの模様
あり。
○塩屋村は平井戸は濁り飲用に適せず。普通の井戸は清水な
り。鳴動の方位判然せず。
○八月三日振動後船津世安半田の温泉と井水量の増減温度の
昇降なし。
この頃、西山破裂の恐れは人々を不安におとしいれ、破裂の
恐れを鎮静すべき手段はないような状態であった。それでも、
三日、四日には幾分、人々安堵してきた。
八月四日、熊本新聞は小藤博士の西山探検の一斑を記し恐
怖することなかれと冒頭を掲げて本日の付録とせり。其の文
に曰く。
今回の振動は金峰山の東北の一角より起これるがごとし。
ひわれは此の東北の一角より一面は鼓ヶ瀧、川床、須原に連
なり(此の所までは実験せり)白浜の海に至りて尽き、(此は
博士の想像)また一面は鎌研坂より熊本城下の南部に連なれ
りがごとし、[頃日|このごろ]来のことく日々左まで大震動もなく[打過|うちすぐ]れ
ば格別心配はなかるべし。決して人々の恐怖するがごとく容
易に西山の破裂することはなかるべし。若しまた万一西山の
破裂することありとせば熊本は随分はげしき震動を受けるや
は知らされども火石の害は免かるるを得べしと信ず。鳴動を
起こすところの東北の一角は全く熊本を背面にするかごと
し。故に万々一破裂するようなことありとするも其の害をこ
うむるは海面の方角にありて熊本には波及することなかるべ
し。
八月六日、理科大学教授関谷清景氏、東京出発の電報着を
各新聞に記載。氏は明治二十二年七月十五日の磐梯山の噴火
を調査せし有名な学者なり。
去る四日午前より午後にかけ続々と難を避くる者数を知ら
ず。小藤博士の調査もいよいよ安心することを知るや、全街
状況一変し、六日夕刻及び七日の朝よりボツボツとして立ち
帰るに到れり。
八月八日、理科大学物理学講師理学士長岡半太郎氏、研究
のため個人の資格にて来熊。
八月十一日、関谷氏長崎より来着。すぐ実査のため西山出
張の準備。関谷氏は肺病にかかり熱海へ療養中のところ。
海西日報は、今回の調査に諸器械を携帯。明日より西山に
据え付けらるる筈なり。
九州日日新聞は、本日西山の実況を視察せし報知を掲げて曰
く。
岳村、野出村地方は一体に頗る静穏にして人民は各々業
に就き更に震動に頓着するものなきがごとし。本日は恰も
旧暦七月十五日に当たれるを以て、夕方よりは盆踊を執行
するとて舞台をかける処もありて、至って安堵し居れり。
又この地へ出張の警官及び村長には時々小震鳴動ある故す
こしも注意を怠らず。工藤警部は鳥越の小屋に駐在して四
方の景況を探知し、中島警部は長岡理学士を案内して山谷
の間を跋渉し、其の他二十余名の巡査を大小字の村村に配
置し、消防夫数名と共に昼夜事変の前兆をうかがい、時と
しては田の水にまで異常は現せずやとて泥中に入りみる等
其の注意の周到なる至れり尽くせりというべし。云々。
八月十二日曇 正午寒暖計九十度
関谷教授は地震取調べに要する器械を携え本日より西山へ
向け出張せり。もっとも彼の西山中、震動最も劇しき所をぼ
くして器械を据え付け験測せらるる筈に付き、数日間山居の
つもりにて職工(大工鍛冶職)、炊夫まで連れられ、自身は山
駕に病を助けて登山せらる。右に付き県庁よりは芦田属が随
行されたり。登山の上はかねて鳥越、岳村等へ出張中なる工
藤、中島の両警部も随行さるる筈なりと云う。さきごろ来滞
熊日日西山を跋渉しありし長岡理学士も関谷教授に随行出張
せられたり。同教授は登山のうえ岳村尋常小学校を験測所と
定めらる。(同校は旧寺院の跡なり)校内の一間(四坪)の床を
はずして即日器械据え付けの準備に取り掛かられたり。
熊本新聞は十四日付録にて左のごとく報ぜり。
関谷大学教授は西山中芳野村大字嶽に器械を据え付け中
なることは追々掲載せしが、右据え付けは十三日中には整
頓の筈なりし由にてこの分にては小藤博士の見込み同様破
裂の徴兆なしとのことと伝聞せり。云々。
熊本新聞は西山の模様と題し左のごとく報道せり。
十三日に地震は関谷教授の据え付けられし器械には暮れ
迄に二回感せし由。即ち同日午後零時四十二分と同五時十
分なりしという。もっとも同日までは器械すべては整備せ
ざりし由。云々。
八月十五日雨 正午寒暖計八十四度
内務省技師試補理学士金田楢太郎地質調査のため、且今回
当県庁地震実査をもかね本日より到着せられたり。西山にお
いて地震探験中なる関谷教授より本日の報告左のごとし。
今午後四時四十九分三十秒に発したる地震を嶽村におい
て検測するにその結果左のごとし。
当地震の性質は甚だ急速にして上下動、横動相混じて起
こり、横動即ち地の横に揺れたることは二十九回にして二
十三秒間にして静止し、其の大なる時に当りて一分(曲尺)
震動せり。而して震動の方向は主として南北なりき。又上
下動即ち縦に揺れたるは終始十九回ありて六秒間にして静
止し、其の最大なる三厘なり」四時五十三分に微震し、又
五時二十七分より極微の地動二分間余継続したり、ちなみ
に云う。嶽村の地たる岩石、質にして堅硬なる故に震動は
柔軟の地におけるよりも感ずること少なし。
明治二十二年八月十五日
理科大学教授 関谷清景
熊本県知事富岡敏明殿
本日の地震に付き面木村の保田詰の水、岳村の猿田彦の水、
小天村権現下の水、同村の温泉は濁れり。船津温泉は異常な
しという。
八月十六日 正午寒暖計八十七度
昨十五日着熊ありし金田理学士には本日より金峰山へ登
山、それより西山地方嶽村、野出村等を実査されたり。長岡
理学士は関谷教授が嶽村に器械を据え付けらるるに付き助力
し居られるが本日河内、面木、平山等を巡廻され夜に入りて
熊本へ帰宿されたり。
八月十八日、岳村小学校に装置ありし験震に関する器械は
飽田郡大塘村へ装置を移転せられたり。(以上)