[未校訂] 安政(ママ)三年大地震起こり、江戸は火災を発生し町数二千
余を失い、死者弐拾数万人を出すという未曽有の大震災
となった。
このとき釜石地方はどのようであったか調べてみよ
う。
代官所記録に、安政三年七月二十三日(西暦一八五六
年)大地震大潮に関する控がある。それに依れば釜石浦
には死者が無かった。人家は十七軒流され、家具や五十
集(いさば)道具を流失した。水は鈴子別当の近所まで押
し寄せ、小船四、五艘流されたと、比較的被害僅少に記
されている。また、その記録には、五十集道具が流され
たため、その後仙台領からカツオ船が来ても買うことが
できなかったとある。
代官所記録が被害は軽微としているが、他の残されて
ある民間記録に依ると被害は相当に多かったとある。松
原嬉石の家の中には、潮水五尺ぐらい入り釜石は上の澤
の石垣まで水が来た。沢村は三徳屋の橋の根まで上がり、
只越通りは勘兵衛家など十四、五軒流された。上只越(現
在の大只越)は大下家の前、十二神前まで田畑に浸水し
て押し寄せて来た。十二神前より大渡までの間に與板小
舟が流されてつき、唐波前平石までの間に與板胴舟十二
艘ほどが流されて来た。
水は河のまま上がり、鳥ケ澤の下までのぼった。
年寄りの言い伝えに依ると、青葉の候には大潮が来な
いものだと言うので釜石の人たちも油断していたら、三
度目の地震のあと急に潮が引き、小島のある辺りが波打
ち際となった。平日の波打ち際より四、五十間も潮が引
き、あっという間に大津波が打ち寄せたというのであっ
た。
その後地震は秋まであり、先ゆき恐しく淋しい年であ
ったと記されている。
なお與板船とはカツオ・タラ漁に用うる漁船、與板胴
船とは漁獲物を運ぶ運搬船であるという。