[未校訂](3) 慶長十九年(一六一四)の地震と津波
『多賀村郷土誌』の厳島神社の項に「御津屋は豊公四
国平均のママ頃大革命有りて北条村より分村す。此地[丹生川|にゅうがわ]
保に隣り、人家多き所なるも、慶長十九年十月二十五日、
大震災のとき、海上荒れて大波打来り、田畑及人家流失、
人死多く其跡荒果てたるを領主加藤嘉明の命に依って奉
行徳本三郎兵衛開墾す。又寛永二年(一六二五)三月十
八日、再度震災ありたるも、人家も追々に出来、回復し
て今は三津屋と呼ぶ。」とある。
これは、北条川の河口近くに古三津屋と呼ぶホノギが
あるが、そこに元の三津屋部落があって、地震と津波で
壊滅したので、西方の土地の高い現在地に移転したこと
を物語るのではないだろうか。また、この地震で道後温
泉の湧出が止まったことを『松山[叢|そう]談』『伊予温故録』
は記している。