[未校訂](注「新収」第二巻八〇頁下左8以下は次のようになっ
ている)
宍喰浦里の庄屋政所 川野伊与市
当浦里、真言宗、十月五日、三日の法事、供養米寄付
之帳。仕渡証文の事(大津波の翌年の法事のこと)
一、当浦の儀、先規より談義所といって、浦里の御結衆
持の所である。このことは今まで中絶していたのを、こ
の時、[不断会|ふだんえ]を改めて、浦里六ケ寺が五日、三日の法事
を七月に修行するようしてきたが、昨年の大変事が、殊
の外流死人が多く出たので、浦里一統相談の上今年から、
十月に取りきめ、前の習慣の通り、五日、三日の法事を
行なうよう、諸宗派の方々にも伝え、先祖の霊の[回向|えこう]を
することになった。
そこで、今後御法事の供養米、浦里として米二石、そ
の年々の順番の寺へお渡しするよう、相談の上定り[書物|かきもの]
に[捺印|なついん]して、浦里六カ寺へ御渡しした。結果仲間でよく
相談して、各年々の順番をあらかじめ定めておき、その
年の当寺より、他の方々へ御案内していただければ、右
寄付の米、早速お渡しする。
宍喰浦里政所 川野伊与市 印形
慶長十年(一六〇五)巳正月七日
宍喰村久保 多田太郎左衛門 印形
宍喰村日比原[肝煮|きもいり] 左五兵衛 印形
宍喰村大崎 同 甚左衛門 印形
宍喰村馳馬 同 与五左衛門 印形
宍喰村大野 同 忠兵衛 印形
宍喰村影畠村 同 実左衛門 印形
宍喰村広岡 同 権右衛門 印形
宍喰村落合 同 三五郎 印形
宍喰村小谷 同 彦太郎 印形
宍喰村角坂 同 与次右衛門 印形
宍喰村塩深 同 孫太郎 印形
宍喰村船津 同 彦十郎 印形
宍喰村久尾 源作 印形
右の通りに、今年より定め、浦里六カ寺、御結衆中へ
お渡ししておき、その年の御当番の寺より、御案内次第、
米をお渡しすることとする。
慶長十年(一六〇五)巳正月七日
宍喰浦里真言結衆六カ寺
大日寺 隠居 宥伝様
正福寺 宥厳様
真福寺 宥真様
西光寺 良雄様
成福寺 宥応様
円頓寺 宥慶様
慶長十年(一六〇五)十月より、浦里真言結衆、法界万
霊有無両縁の[回向|えこう]のため、五日、三日の法事先例を以て、
お勤めするので、各御相談の上、供養米二石宛、年々各
より御寄付下さる旨、御連判で書物をして、六カ寺衆中
へ[己|み]正月七日に御渡しいたし、たしかに見届けたので、
六カ寺結衆[請持|うけもち]書をもって承知致した。
慶長十年(一六〇五)正月七日
真言宗一カ寺 大日寺 隠居 宥伝、書判
真言宗一カ寺 正福寺 宥厳 書判
真言宗一カ寺 真福寺 宥真 書判
真言宗一カ寺 西光寺 良雄 書判
真言宗一カ寺 成福寺 宥應 書判
真言宗一カ寺 円頓寺 宥慶 書判
宍喰浦里惣庄屋政所 川野伊与市殿
宍喰村在々、[肝煎|きもいり]人 衆中
元文四己未年之春駅路山圓頓寺開山
住持宥慶之旧記等円頓之二階
之上鼡ノ巣ノ中より取出シ候其時之拝見
之僧円頓寺住持嘉明真福寺住持大雲
舊記之本紙は円頓寺に有之候舊
記本紙之通無相違写取者也
于時元文四己未年
三月十四日 真福寺 大雲印
先住宥慶之舊記本紙之通真福寺
大雲書写申所無相違者也
元文四己未年三月十四日
円頓寺住持嘉明印