[未校訂]十三重石塔
と橋寺
網代の全面的停止によって不要のもの
となった漁具・漁舟など一切の漁撈用
具は、宇治橋の上流にある中州を利用して築いた小島に
埋め、その上に五智如来
大日・阿♠・宝生・
無量寿・不空成就
十三大会諸尊に
ちなむ五丈十三層の大石塔を建立し、その初層塔身の凹
所に、銅筒に収めた紺紙金泥法華経・舎利塔・水晶小
塔・唐鈴・鎮瓶などと共に如意輪観音像・十三仏小像を
収納し、その周囲に金剛界四方仏
(東)阿♠・(南)宝生・(西)
阿弥陀・(北)不空成就
の
種子(梵字)を深く刻み、また台石の正面(北側)宇治橋の
方向に面するところには、西大寺流の戒律護持の宗旨を
宣揚した願文を刻んだ。その願文はいまは風化磨耗して
全文を判読しがたいが、先の太政官府となった奏状と同
じく、宇治橋再興の縁起を含めて仏恩報謝による架橋の
因縁を述べ、仏天の永劫の加護を祈ったものである。そ
れはある意味では朝廷の作善を利用して、その宗旨の宣
揚を図ったものと言えるかも知れない。しかし、たとえ
そうであったとしても、叡尊による宇治橋再興の功績は
いささかも傷つくものではない。
この石塔は、その後洪水や地震などによって再三倒壊
した。まず延文元年=正平十一年(一三五六)八月の洪水
によって損なわれ、秋十一月比久尼道秀によって修造さ
れたのをはじめ、嘉慶二年=元中五年(一三八八)には西
大寺長老深泉によって修復
「宇治石塔供養法会勧化状」。「園太暦」
。また慶長元
年(一五九六)閏七月の大地震によって倒壊し、宝輪・相
輪を失うほどに大破したが、慶安三年(一六五〇)淀城主
永井尚政が、興聖寺の再興にともなってこれを修補再建
した
「永井尚政碑陰記」ほか
。ところが宝暦六年(一七五六)九月の大
風雨による洪水のため、宇治橋とともに流失してしまい
「上林家前代記録」、 「宇
治郷会所留日記」ほか
永らく河床に埋没していたが明治二
十八年(一八九五)になつて、福田海主多田青蓮の発願に
より再建に着手され、同四十一年八月復元されたのであ
る。