[未校訂]二日曇 當番
夜七ッ時鴻巣出立昼九ッ時ワラひ着大宮ニおいて青木植木
と共に昼飯の仕廻をす然るニ夜四ッ時過予御寐スニ罷出
つき(ママ)心得ニテ支度調へたる時ニ大地震ふり出し家崩れ土裂
け甚しき騒動也同役弥太郎と共に御本陣へ懸付くるに大混
雑にて上下右往左往上ニハ直ニ庭中ニ御出夜九ッ時過ニ至
り御先越の内馬木小五郎馳かへり候處江戸大地震上御屋形
大崩れ尤御殿中かつ〳〵倒れすといへとももはや御坐なる
へき所ハ無く外長屋ハかつ〳〵残りたれとも且又人の住ゐ
ハむつかしき躰其内鍋島境南ノ隅組固屋の所(カ)より出火大番
丁同側御作事辺迠消失御前様直ニ麻布法橋院様御殿へ御立
退若殿様御馬場へ仮屋建にて入らせられ候大番木梨平右衛
門ハ御書院都野藤兵衛両人押ころされ死去其外末々の者廿
人はかり死去浦賀も同時地震にて宮田御備場の六人ほと死
去外様ニてハ御隣鍋島様不残消(ママ)失死人も夥しき由其外ハ会
津侯尤死人夥敷一邸内にて三百人計ノ死去ノ由御馬五十疋
ほとの内二疋残りたりとぞ車力にて死骸を積出す事夥敷天
徳寺御菩提所故寺内ニ坑をほり一所ニ埋め申し由会津侯ハ
格別の大旦那故此事住持もゆるし候由其外ハミな断り候ハ
世上より死人はかりを持込あまり布施にもならすこまり入
る由也其外大名小路大崩れ火事の場所ハ廿ヶ所余ノ所ゟ火
上り候故諸方そここゝに火のもえ上り夥しき事の委曲ハつ
くしかたし尤憐むへきハ吉原也岡本や一軒にて百八人の死
者惣人数分りかたしそハ何故といふに客の入込たるもの□
□りニ入込たる者ミな焼死たる故ワかり不申候との噂也御
大名にてハ郡山侯松平時之助様十一二才の由御小姓抱きて
出候處おしころされて御即死阿部豊後守様御夫婦とも御即
死の外ハいまた分り不申水府□(破レ)もうたれ玉へるよしの風評
なれとこれハ虚實分明ならすさしもの花の江戸たちまちむなし
き原野と相成候事浮世のありさまとハ言いなから歎息すへ
き事也御城も余ほと損したるよし也御門等も倒れたる故御
役人方御出仕の道もなかりしを阿部侯をはしめミな瓦のう
へをふミこゑ〳〵御入と成候由さてこの御方なとへも御使
番を以て上使として即夜御見舞有之御礼等ニハ及ハすとの
御口上也これ八万石以上へ不残有之しと也また明曉御使番
の上使ありこれハ公方様御内々の御命シ家内の者とも別条
ハ無之哉の由承り帰り御安堵被成度との事の由尤これハ御隣
上杉なとへハ無のよしなれハ御家なとの如き御大名のミ候
三日晴 非番
時々地震右の騒動ニ付蕨宿ニ於て一日御見合も可と成りと
の評義もありし由なれとも間道ゟ麻布へ御入可然との儀ニ
定り四ッ時御発駕ニて板橋御休ミそれより雜司ヶ谷通尾州
様御長屋下赤坂紀州屋敷の前ゟ麻布へ御入被成候道々も尾
州紀州の邸を始め諸家の破損目も當られぬ躰也麻布といへ
とも同様なれと御上屋敷の大破損とくらふれハまつハ宜敷
ニ付被為入たる也
(注、欄外に「江戸帰着の御道筋ハ板橋より本郷加州侯の前通り神田明神の外より筋違御門小川町通り神田橋御門夫より八代洲河岸日比谷御門より御屋敷へ御入の事」とあり)
四日晴 當番
時々地震麻布御住ゐ法鏡院様御前様御一所也公義より早速
御達し有之万石已上火災地震ニて難渋の面々勝手次第御暇
可被下との事也これハ明和目黒行人坂火事の例なりとそ
また當年中朔望の御登城等被差留玄猪の御礼をも受させら
れぬよし也
五日晴 非番
時々地震
六日晴 當番
地震非番今日同役福原庄兵衛着之処下海上大不順上地震等
ニてケ様ニ延着の由申候
七日晴 非番
早朝ゟ御上屋敷へ参り隠岐殿へ對面其外諸人ニ相對ミな〳
〵崩れ跡へ假小屋をかけて住ゐし躰目も當られぬ躰也それ
より八代洲河岸へ出大名小路大破損の所を過き川へ出たる
ニ道もわからす焼野原也原孝庵を訪ひたるに無事也それよ
り通筋を芝まて来り増(カ)上□の内ゟ切通へ抜六ッ時前帰り候
然るに今夜六ッ半時過また大地震尤先日ニくらふれハ甚わ
つかの事也上ニも庭中へ御出被成ぬおのれらもミな土地ニ
坐をかまへて夜を明しぬ
十日晴 非番
金比羅参詣夫より横山町宮崎又兵衛を訪たるに地震の騒き
ニ足を折りたる由ニて店ハ手代等ニ任せ置自分ハ尾州侯小
網町三丁目の御屋敷瀬戸物會所へ引越保養いたす由ニ付京
師名所扇十本大石墓碑並圖二枚贈物とす醫家へ罷越候留守
ニて女房へ相對何角咄しゝて帰路原孝庵を尋ね此者へ唐綾
金巾一反をおくり蒲生寛(憲カ)一を訪ひて罷帰候事
十二日 當番 晴
時々地震
十月廿一日晴 當番
朝ノ間地震
廿二日晴 非番
朝の間地震少シ