[未校訂]幕府の対応
地震後の幕府の対応は素早かった。対応の方向は二つあっ
た。第一は被害の激しかった江戸城の復興と被災市民の救
恤であり、第二には江戸周辺地域の治安の維持、物価・賃
金の抑制であった。早くも十月四日には関東取締出役重田
荘太夫が蕨宿に廻宿し、江戸城と浅草・本所の幕府米蔵修
復のため職人と竹木の取調べを行い、さらに七日にも同河
野俊八が「府内窮民御救小屋」建設用の[筵|むしろ]・縄・丸太の
買上げに廻宿している。河野俊八の命により組合村々では、
翌八日に筵一五〇〇枚(うち宿方で二〇〇枚)を調達して昼
七つ時(午後四時)に戸田河岸へ送付し、九日には竹一六
○把(宿方六〇把、上・下青木村で一〇〇把)を集めている。
この際、戸田村と[新曽|にいぞ]村では竹の「員数決めかね」て、こ
の日のうちには出せなかった。代金が払われるとはいえ、
地震後間もない混乱の中で、出役の命令に直ちに応じるこ
とは困難だったのであろう。幕府買上げの縄・筵・竹等の
代金は十一月三日に下げ渡されたが、村々へ割渡されたの
は十二月八日であった。諸職人については、十月五日に開
かれた組合村々の集会で「[荒増|あらまし]諸職人名前取調」べのうえ、
九日夜、出役桑田幸三郎の滞在する板橋宿へ届け出た。江
戸へ出る職人等の員数は高割で村々へ割当てられたが、十
月二十九日に至ると「諸職人市中にて間に合い、不用(要)」に
なった旨が出役から蕨宿に達せられた(「役用向
日記」
)。
当時の幕府は前年の日米和親条約締結後、外国船の頻繁
な渡来による人心不安と、開国の是非をめぐる幕府指導者
内部の亀裂に対して、幕政改革の必要に迫られていたから、
そのような中で起きた大地震で、江戸とその周辺地域が混
乱に陥ることを極度に恐れた。十月十五日、取締出役安原
燾作は板橋宿に組合村大小惣代を召集し、「混雑に乗じ悪
者共入り込みも計り難」いとして府内の警備を厳重にする
ため、勘定奉行本多加賀守安英を奉行として、五街道入口
宿々に仮小屋を建て、番人を一人詰め切りにして、往来旅
人の取調べに当たることになった旨を伝えるとともに、最
寄の宿、街道沿い村方もそれに准じ、仮小屋の取建てを命
じた。これを受けて蕨宿では翌十七日「自身番詰所」を宿
の上・下二か所に定めて高張提灯を掲げ、宿年寄を詰めさ
せた(「役用向
日記」
)。また、幡羅・高麗両郡組合村々は、取
締出役の命を受けて四か条の議定を結んだが、その第一条
は、やはり「悪もの見廻り」であり、続いて諸値段・職人
手間賃の引上げの停止、古物商・質屋への盗品売捌・質入
れの警戒、若者の集団酒食・賭事勝負の禁止などの条々で
あった。組合村々は「昼夜油断なく見廻」り、「悪もの」
どもが立ち回った節は、「竹貝を吹立」て召し捕る旨を取
り決めている。
職人手間賃については、蕨宿では十六日、幕府の抑制令
にもかかわらず、「職人作料当分の間取決め」として一定
の増賃を決め、時節柄「不相当」ではないとした例もみら
れるが、銚子口村(春日部市)では、同月付けで幕府の命
令どおり「作料増方致す間敷」という請書を出しており(
銚子口地区
区有文書
)、他の各地でも同様に職人手間賃は抑制され
たと思われる。
地震後のこれらの幕府の対応策は、いずれも地震の混乱
から江戸を防衛し、被害を復旧することを至上目的とする
一点に集約できるものであり、したがって県域各地を廻宿・
廻村した関東取締出役には、県域の被害状況は眼に入らず、
もっぱら江戸復興の資材と労働力の供供地及び江戸治安の
防波堤としての役割が県域に求められたのであった。さら
に旗本の知行地村々では、損害を受けた江戸屋敷の復興の
ために御用金や資材を上納したところもあった。牧野氏は
足立郡[中分|なかぶん]村(上尾市)ほか二か村、秩父郡で二か村、常
陸国茨城郡で一か村計一五〇〇石を領する旗本であったが、
地震後、知行六か村に普請入用金として五〇〇両、家来衆
見舞分として九両二分の上納を命じた。六か村ではこれを
高割で負担し、その年のうちに中分村は四〇両ほど負担し
たほか、杉皮・檜垂木・杉板・縄などの資材から出府人足
の賃金まで負担しなければならなかった(上尾市 矢
部家文書
)。
一六〇〇石の旗本伊奈氏の所領[植田谷本|うえたやほん]村(大宮市)など
足立郡六か村は地震の「損所御修復御用」として二〇〇両
を課せられたが、全額払えず割賦払いとして四三両余を納
めた。また、久留里藩領の埼玉郡葛梅村(鷲宮町)でも、
普請入用の内へ「献金」として一二両余を納めていた。こ
れらの農民負担に対して、領主の側から農民への救恤的な
行動が取られた例はほとんど記録されていない。わずかに
蕨宿では、地震の折に宿泊していた「長州様」から酒代が
下付されたが、宿一軒に付き四七七文ずつにしかならなかっ
た。また年を越えて安政三年四月には、幕府直轄領の埼玉
郡西袋村(八潮市)では、地震による家屋の倒壊で村民三
五三人中二一五人が「夫食差支難儀」の困窮人として、三
○日間の貯穀籾下げ渡しを受けたが、これは「願」に対し
て「再応人数減方御吟味」の上「拝借」が許されたもので、
五か年賦で返済することになっていた。
この間、大地震による混乱は十月末から翌月初め頃には
次第に収拾に向かった。幕府は十一月一日には「追々在中
穏やかに付」き、さきに命じた仮番屋の詰人数を減らすよ
う達し各地に出動した取締出役も江戸へ引き払った。翌二
日から江戸一一か寺で地震による死者のための施餓鬼が催
された(『武江
年表』
)。十二月二日には鳥見林八郎右衛門は鷹
場村々役人中へ廻状を送り「最早大半家作向差し支えの箇
所修復」もできたので、近々「鷹仕込」を再開する旨伝達
している。このころには、各地の旅宿をはじめ一般農民の
住居に至るまで、[罹災|りさい]建物の修復がかなり進んでいたこと
をうかがわせる。
しかし、地震の影響は前述のとおり、県域をはじめとす
る関東農村に、のちのちまで大きく尾を引いたばかりでな
く、当時の開国をめぐる幕府内の亀裂と幕政改革の動向に
も大きな影響を与えたのであった。