[未校訂]○田崎草雲
「安政大地震日記」安政二年(一八五五)十月〈抄録〉
○十月二日の条
二日朝少々雨
小川町へ行帰る、風の心地にて打臥たるに夜四ッ過頃、震
起されたるに灯を壁のきはに置たる故土落て火消たれば暗
夜となりて四方を弁ぜず、ようよう逃出たるに早吉原の方
に火の手上り西風はげしく吹て田町芝居町ともに火となる、
妻と熟(?)とを今戸称福寺に返し遣り、予は小川町の屋
敷に至る、途中の家々往来に潰出して、行道更に山坂の如
きを越て駒形町迄至りしに、後の方よりもえ来る火、早く
町の両がはに付たり、中々行くことなりがたければ元来し
方へ引返して、吾妻橋より向へ渡り大川端通りに至り、又
後の方をかへり見しに、我家の方は一面の火となりぬ、左
の方を見しに、本所より深川辺近火となり川向ふを見しに、
下谷のあたりより小川町辺丸の内下町辺迄一面に火光上り
ぬ、藩邸は最早火となりぬべし、左右前後火となりて又此
辺りの潰れ家より火起りなば、のがるる道なかるべし、若
此処にて焼死なんには我心中を知る人もなかるべし口おし
き次第なり、急ぎ藩邸の辺り近く行て死なば死なんと思ひ
直して急ぎつるに、又先に吾妻橋越へる時見しに橋のたも
と一尺斗破れたれば両国も仮橋なれば落たらんも難斗、橋
を越たるこそ不覚なりけれと思ひしか今更せんなし、両国
の落たらんには又すべきよふはあらんと思ひ直してあへぎ
あへぎ橋近く来りて見れば、たもと是も十八(?)尺斗り
破て橋は無事なりければ、かけ通りて柳原に出たるに、火
の手藩邸の辺りなればひたはしりにはしりぬれども、又ゆ
り返しや来らんとて、家に居る者一人もなく、火を避けん
とて家財道具持運迷行馬はせ違ひて往来は箸を立るの寸地
もなし、心斗りははやれども、身は一つ処にあって進む事
あたわず、よふよふ藩の外にて山口清記に逢ひぬ、ひた潰
れに潰れたらんには、御座所迄も推参せんと思ひたりしか、
此辺りは潰れたる家は更になれば、そこら見廻りしに川上
に行逢ぬ、君の上を問ひしに無恙渡らせ玉ふ由を承て、直
に母の居ます長屋に至り見ればはひり口より座敷の中迄様々
の物とり散して足のふむ処もなし、しかし火急の時なれば、
取落したる入用の物をなどかき分かき分調べたるに、懸弟
か常ざしの短刀一とふり、数矢のこぼれたる中にありしか
ば、是を携え出たりしか、又思ふよふ是しき物何かせん火
をふせぎて長屋の一棟だも助けなば、是に勝る事やあらじ
と其儘打捨て西長屋の方へ参りしに、内藤侯の屋敷に火掛
りて西長屋の方に火掛りぬ、同藩の人々慈に寄つどい、龍
吐水にて水を上げ居たりしかば、余も此上に上りてあちこ
ちと水をふりわたりしが、西風烈敷火気盛んにして中々ふ
せぎ難く見えしかば、車長屋の前に引取りぬ、丸山源兵衛
(?)に逢ぬ、君の御座所を尋ねけるに、御庭のつき山の
上におはしますとの事なりと言しかば今や御座所に火の掛
りぬべし御立退をすすめ申さんには如何と言しに、心打た
らんには能々思慮して重職に申すべしと言もすてざるに、
中野氏の此処に来られしかば此の事を申せしに、未早し何
急ぐ事かあらんと言捨て行玉ひぬ。間もなく御座所は火に
なりぬ、藩の此の隅にありぬる米倉に付たる西長屋迄火の
掛り、此火を防がざれば東の表長屋焼ぬべし、人人よこの
たびの火事は常の火事と違いぬるぞ、一と骨折りてこの枰
を打たおせかし、この小屋をこほてとて様々に指きなせど
も、皆いづこへ行けん更に居らで、此あたりに折々見廻る
人は川上氏、中野氏、福田氏、動く人々は中島伊助、中村
萊之助、鈴木安三郎、上図余五郎、丸山源兵衛、品川某、
佐藤兄弟某なりけり、東京長屋に火の掛りて古川理左衛門
去りぬ、其外小者足軽の五、六人居しが名前は不知とも皆々
能く指揮に応じぬ。余の目前火の追々に来ればくり行に行
て御広処の前に来り、御広処御門の板べい、御畳所の出張
のした三杯折こふちて、最早表長屋は残りぬ、懸(黙)弟
の長屋如何んと心元なければ行て見しに中の口に火通りて
南の中長屋の下みに火付んとす、此長屋に火掛りては御門
並に南の表長屋中はあやうし、面々此処をふせぐべしとて
中長屋の中に入取散たる道具片わらに寄て、前に有し井戸
より水運せて下みにかかりたる火を消し、御玄関と長屋の
間に有しぬりべゐを物干杭抜もて来て佐藤久太郎、中村伊
助、鈴木安三郎、中村栄之助と余と五人にて向へ押たおし
たれば火勢もよはくなりしが、又下味の火盛んにならんと
する故にまどより水をはこびたるに、森頼母、富永潰兵衛
も来りて大いに働らきつつひに此処の火は消へぬ。表門の
側にありし土蔵に火のうつつて門番所に火うつりたるに人々
掛りて押たおしたれば表門はきづも付かず残りぬ、御台所
の火勢つよくて御つきやの屋根に火うつりぬ、消さばきへ
ぬべかりしを龍吐水の水口抜けて見えずなりしかばて手も
空敷焼落しぬ、治に乱をためし見んはかかる時ならでは叶
がたし軍器ととのはざればいかなる精兵ありといへども勝
利はなしがたし、「藩抔には鳶口と言もの更になく」防火
の「器を」と知るべし、余宅を出る時飯びつを持出たれば
にぎり飯十斗こしらへ両のたもとへ入て行たれば、是を丸
山に一つあたへ人々にも一つづつあたへて余も二つ吃した
り、諸方も焼しづまりたれば丸山、川嶌二生と供に筋違迄
来り久保田へ行見しに家居半たおれかかりていといとあや
うげなり、余宅も如何なりしや覚束なかれば、慈(?)に
て二生にいとまをつけて七曲り迄来りしに、此処東西より
の通りは屋ゐも少し頽れたるのみなれども南北之通りは多
くは悉く潰れたりみはかい(?)へは東西に震ひしと思は
る、自夫御蔵前に出たるにさしもに広き小路も夫夫に假屋
を出来も有、家財道具持運びて中々通るべくもあらず、向
ふを見しに黒舟町の辺り火勢盛にもへて、今や此辺り迄も
火の来らんとする有様なれば、西福寺の中を抜けて新堀に
出たるに此等も悉く潰れたり、本堂は普請出来上りたる儘
にて未壁も不着有ければ是は其儘なり、森下に出たる病後
にて身体甚つかれ其上空腹になりて一歩も進事不能、老婆
の疊二たひら敷て火鉢に茶を掛たれば是を無心して二、三
盃呑て浅草広小路に来りしに、火の見の横丁に中山瀬江と
言人初門生なれば、是に寄たるに是も玄関書院ひたと潰れ
其中に下役の者潰たればとて掘いだすとて人々寄つどひて
家根抔むしる処に至りぬ、時余の時ならんには気の毒にも
思ひ供に手伝ひも致すべきにそこそこに物いひて勝手に至
りて見しに、飯ひつと湯のわきて有しかば茶呑茶椀にて、
七、八杯飯打喰ひて家に来りて見れば、家はひたと曲りて
今にもたをれんと見へたり、家内のものは稲荷の小高き処
に、一むろ敷て集り居たり、家に入って見しに棚は不残落
て、神仏のづし飲食の具夜々の物抔壁土の中に散乱し、玉
(?)行燈は物に押潰されてそこら油に汚れ、すきとは勝
手の戸打くだきて外の方に転び出座敷の戸障子は出る時乗
越たれはみぢんとなりたり、かからんよりは結局焼たらん
こそ清からめと思ふ斗りなりしか、日をふるにしたがひ不
潰焼こそ実に難有かけ(かりけリ)りけりと思ひぬ。
○十月一八日の条
家妻子を捨置て藩邸に至り、○○も不○り不見明け迄は
たらきて、誰一人称するものもなく、家は傾て入る事もな
らで假家に入て夜を明し杯して、よふよふ十八日の夕方家
居つくろゐて是に入ぬ、其夜大雨にて車軸を流しぬ、天地
いまだ我を捨玉はざりけり
○十月十九日の条
十九日藩に至りぬるに、一同へ御手当被下との事也、余
思へらく我も其片端に連りて其夜も来りぬるままに、米一
合だも被下候に於ては一命覚悟すべきに、君は幼なく渡ら
せ玉へば、重職の人々其職司にうときといふべし、寸功だ
もしよせずんば、誰か恩を重し愛する者あらん。然是も皆
ねたみそしるの念よりおこり、又心付ものも人々のねたみ
をはばかるものにして士風のはらざるなりけり、明君賢太
夫と二つながら兼ざれば政を如何士風を如何
○十月二十日の条
焼失後三方を三処に分て置奉る。経ざゐにうとく上のつ
ゐへ民の課役に心付ざるか、又己々が利益にても有之事か、
三所に竈を立たまふついへはぶき早々假所を……置奉べき
也、さなければ焼跡へ假小屋を掛、是に置奉り度もの也、
くさびのふるみたる家に入置奉る事、此節の時ぎにはあや
うき事也、僻(假カ)家は別につゐへのよふなれども、木材は跡に
て用にも立、且大名は大名丈の事なければ其任にもはづれ、
世の噂も如何なり、はつかのつゐへを思ひて己が家に入置
奉る、非禮と言うべき也、すべて御家の政事は、大名らし
き甚少し、己々が身上の格にて、大名の身上をくり廻すゆ
へに民に気がひを損じ、士気をゆるめて、家政益々おとろ
へぬ、領分と言者有て、年々滂石○丈わき出る故に、夫に
て足りぬれども、町人百姓の身上ならんには、番頭は手代
はここの勝手をはたらき、主人は更に之を知らず、とくひ
先取引先次第にあしくなりて、たちまち破めつせん事うた
がひなし、重職たる者此処に心付、百姓取引先同様にて、
藩士は得意先なりと心得、向や先の気をそこなはず、得意
の心をとって家格を落さず、己が勝手をはぶき日に夜に是
に心をつくし玉ふべき也、重職は上の意を下にうつし、下
の意を上にうつすの中立と心得たまふべきに、今の此職に
有人の心得たるや、其職に進みてけん勢をはり富貴栄よふ
にほこらんとの意已にて、民百姓のなげきを不思、上のつ
いへ藩士の善悪を辨へず、飲酒淫楽に光陰を過るのみ、実
になげかわしき事ならずや、士気を張るも、弛るも、いさ
さかの事より出来るもの他、余に千金を借せと言者には、
断りたりとても誰か腹立る者あらん、一円金を借らんと言
者に、断りなば必腹立ん事疑なし、是力に及ざると及との
差別なり、気はとる事度々あり、士気をそこなふ根元は、
重職の人々藩士よりいささかの音物を請玉ふよりおこれり、
○十月二十二日の条
余藩に至りぬる時、火はや西長屋に掛りぬるに一人も是
を防ぐ者なし、己々が家具を持運びわなわなと震ふ者多か
り、重職の人々は立派によそおひて、只ふらりふらりと歩
行已、更に火の掛るを物の数となさず、民を撫し世を愁ふ
る者の所意にあらざるべし、此時風はよし人数の二十人も
骨折るに於ては西長屋已にて外は焼ずとも済べきに、焼た
りとて己が金銭の費ふ事ならねば、さのみ愁とも不思、却
而焼なば普請の棒先に暖まらんとの意も斗難し、一と長屋
助けなば三四百両は違ひなん、さすれば小砲の四五十挺も
出来ずべき也、是迄公儀にては、様々と御精略あって武器
等の御世話も有之といへども、更に整んともせず、むだの
評議にのみ掛りて埒明す、此度屋敷の焼失なしたらんには、
領分へも何程づつか役金を当行ふならん、是止事を不得な
れども、公儀の事はなをざりに捨置、己が勝手には用金を
当行ふ、是皆不政よりこの慈に至る也、当藩抔は諸侯と違
ひ、領地のよき処を知り玉ふ故に、町人の金主と言ものを
頼むにも不及、公の御金を借る事もなくて、士人安穏なる
ゆへに、只々安逸にのみ流れて、他を不知、己々が勝手に
働きて足れりと思ふにぞ、僅かでも猶余りのこされし屋敷
の焼たるを念頭に掛けざるは、またし然の事なるべし、常々
藩中の人を撰みたまふ事なく、名跡養子抔も、更に人物を
ただしたまふ事もなく、己々が親ぞく縁辺とさへ言へば、
他所にて生産も覚束なき者に格外録を与へ、在所にて身持
不埒にて、身上も持兼る者を、江戸屋敷に引上げ、士に取
立、僅かの音物を持参なしてへつろふ者は、中間足軽より
も取上げたまふ故に一藩ははき溜同様に成行て、物の役に
立つべきものなくなりぬべし、かかる者に民百姓の膏腴を
ねぶらせて、こころよしとし玉ふは何事ぞや、故に領内の
上を恨み且藩士を軽んじ領主の威光益々おとろう、中には
領分の百姓とし、縁組を心掛けなしで、己が身上の足にな
さんと斗る物多し、陣内の者共も是に類するもの多く、奉
行職の人の兄弟を町の富家に縁付、ふ熟にて争論に及見る
に不忍あり様々也、或は領地より××普請等其外何よらず、
公に願ひ立る事あれば、留守居役の者共何出入はいくらと、
直段に極り有て、願賃を取る事なりとぞ、元より夫を司る
故に平人よりも余分の格録を頂戴し、其上に不足百姓より
其賃をとるは何事ぞ、又川除普請等は皆上の御用筋也なれ
ば、己が第一の役義なり、夫を金一両に定めて是をとると
の事也(高のしつまが神のしる云)然れば其外の公事は何
程の賄賂をとるやらん、難斗、又領分内にて陣内へ願立る
事有て、是を陣内にて取用ひざるときは上屋敷へ越訴なし、
音物の光にて上屋敷取上る事とぞ、然る時は陣屋は有ても
無くてもよきもの也、是皆己には利益をはかって、上の御
為を思はざる也、是人臣たるものの所業にあらずといふべし。
○同
「吉原の茶や―宅にては小供両人を女房が連れて遁出
るに勝手迄至りし処、上より屋根落重りて出る事能はず、
肩に棟の掛りて其下になりたりしに、最早隣家に火の起り
壁の透間より見へければ、母の子供に申様、所せんのがるゝ
事不能、今に焼死すべし、幸にかまどの下のあきたれば、
この中へ両足を入よ、然れば足わ助りなんとて親子足を延
して入たりとぞ、其内に亭主の帰り来りて屋根をめくりて
引出され、屋根の上に三人出たれは最早出たる穴より火の
出たりとぞ、当人の物語りなり、
「本所辺にて一人犬と共に物の下に敷かれたりしが、犬
は足を挟まれ男は手を挟まれたりしに、犬の思ふにはこの
男より足がおさへたりと心得へて、かの男に喰付たり、男
は手をはさまれて如何ともすべき策なく、その犬に喰殺さ
れたりとぞ、地震おさまりて後に取片付たりしに、犬は其
儘にげて行しが人は死したりとそ、
「今朝妻近辺にて承り候由、吉原三浦屋にては、能き遊
女三十人程自分夫婦一同穴蔵へはゐり、上へ畳を積せ、是
にて地震は大丈夫なりと申候由、禿子供抔はゐり度由申候
へば、手前達は勝手に可致とてはまひ不申、其内出火にて
道入らざる者は夫々立退、身命を全したりしが、穴蔵へ這
入りし者共は不残むし焼になりしとぞ。
(塔影十七―五 河野桐谷「人間草雲」所収)