[未校訂] 朝来帰村の被災状況は「吉田一郎家文書」に、「十一月
五日之津波ニ勘七之手船大イニ損ズ。」という断片がある
ほかに今のところ記録が残されていないが、袋浦が津波の
ため田畑並びに家屋に大損害をうけたことが明らかである
ことをあわせ考えれば、朝来帰浦も五日の大地震直後に大
津波の来襲をうけたことは疑いのないところである。ただ
し「普門寺過去帳」には一名の溺没者の名もあげられてい
ない。
瀬戸・鉛山両村の場合、湯崎温泉が一時湧出を停止した
ことは既述したとおりであるが、「御用留」によれば、瀬
戸村地下蔵及び綱不知波除堤二か所破損し、湯崎来迎寺仮
門が倒壊したとあり、「本覚寺過去帳」によると、「夫ヨ
リ昼夜大小之地震何百ト云フ数難計、大地鳴動シ、其音
百雷之轟クが如シ、越年四月ニ至りて猶不止、昼夜鳴
動一日ニ二十、三十或ハ四十、日ニ依テ不定也、七月ニ
至て漸くウスログ、当寺内地震ニテ土塀不残クヅレ、又
綱不知田畑家々諸道具共流し、古今未曾有之大変也。」と
地震津波のすさまじさを特筆しており、翌安政二年六月八
日から三週間かかって同寺内石垣土塀を修覆している。十
一月二十七日にこの嘉永七年は安政元年と改元されたので、
俗にこれを安政の大地震津波と称する。