[未校訂]「正泉寺往古暦志」(『五ケ所古文書綴』)には「其時ヨリ
檀中モ二、三軒ツブレ候事」とあり、同寺過去帳十一月四
日の条に「梅室妙香信女治助ヲバ」(注、中村家)とある
のは、津波によるものである。」
泉では波先が宮ノ前道ノ下まで来て、東浜田木場除ケ堤
が三十間余り切れ、田地へ砂が入った(『年代諸事覚書』)。
伊勢路は高波が来て、家が二、三軒流れ、波先が桜の淵
まで来たと『穂原村誌』は記すが、奥出ともいう。
『相賀浦郷土史』は、このとき「波高サ一丈四、五尺、
以上橘系図」とし、迫間小学校の『教育資料』でも「波ノ
高一丈四、五尺」とする。迫間浦ではこのとき火災を起こ
して二七軒を焼いている。(『教育資料』)。
しかるに昭和三十九年十二月一日発行の『若潮』(六十
九号)を見ると、『桂雲寺行山和尚の過去帳余白』には、
「波の高さ二丈四、五尺、家屋全滅、満足な家一軒もなし」
とあり、また、橘家系図余白には「大津波ニテ村中大走(騒)動
ス、波ノ高三丈余」とある、と記しているのは、誤植もあ
ろうが、恐らくは筆者の記憶違いであろう。桂雲寺過去帳
には見あたらない。
この津波の被害に対し、家屋流失の者へは久野丹波守よ
り一軒に二朱あて小屋掛救料が出た。神津佐・木谷・下津
浦・宿浦・五ケ所浦・礫浦・船越・内瀬・迫間浦の九か村、
一二七軒分として一五両三分八匁を頂[戴|だい]したという(森岡
万吉記『大地震津浪控』)記録から、被害地とその被災者
数が分かる。
津波で流亡した人のあったことは先に記したが、神津佐
の仕立屋栄三は、三味線を抱えてうつつのまま流されたし
(『為地震津浪心得謹世残』)、下津浦の長兵衛は泉の小田
ノ谷へ流された(『年代諸事覚書』)。また、宿浦の片山嘉
右エ門は、漁をしているとき、相賀の沖で津波に遭い、中
津浜沖、相賀沖へと、二、三回繰り返し流され、四回目に
宿のユブ浦に流れ込まされて、瀧ケ浜へ打ち上げられ、九
死に一生を得たという(『宿田曽村誌』)。