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項目 内容
ID J2500436
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東~九州〕
書名 〔静岡県榛原町史 中巻〕○榛原郡榛原町S63・3・11 榛原町史編纂委員会
本文
[未校訂] ここに取りあげた嘉永の大災害は、地震によって突如と
して起こったもので、しかもその激甚さと範囲の広さとに
おいて想像を絶するものであった。ようやくに戸外に逃れ
出たものも着のみ着のままで、家は倒れ肉親は家の下敷き
となり、しかも、気のついた時には食べる物はほとんどな
かった。正に三重苦、四重苦に同時に身舞われたのである。
 嘉永七[甲寅|きのえとら]年(一八五四)十一月四日辰の下刻(朝九時・
五ツ時)ごろ、突如大地震が発生した。[轟然|ごうぜん]たる大振動と
共に家の[棟|むね]は折れ、屋根瓦は木の葉のように飛び散り、山
は崩れ大地は割れて泥水を噴き出した。傷ついた親は子を
求めて叫び、家の下[敷|じ]きとなった兄は弟を助けようとし、
老幼男女の呼び合う声に郷土は一大修羅場となった。
 上庄内邨(村)の某の「安政地震見聞録」(仮題)に
(原文のまま)
 嘉永七甲寅十一月四日。此年 改年[有|あり]て安政元年トナ
ル。辰の下刻頃、諸国大ニ地震す。志州・勢州(三重県)
より西の国ニハ、四日辰の刻と五日申の刻と両度の大地
震なり。我郷里ハ他所に[競|くら]ふる時ハ地震小なりといえど
も[須臾|しゆゆ]の間に[仆|たお]るゝ家[有|あり]。殊更[瓦葺|かわらぶき]の家、軒端の瓦等ハ
大半破損せざる事なく、諸人恐[懼|ヲソル]ル事甚し。時ニ[俄|にわか]ニ
[千仭|せんじん]の山の如きなる高波起りて打[寄|よせ]んとしける故、老若
男女皆山上へ逃[登|のぼ]れり。隣郷ニハ波打入て家の流失せし
処もありといへども、我里ハ幸ニして波の打入事もなく、
暫く有て高波も打[鎮|しずま]るといえども尚隙なく地動きて[止|やま]ず。
程なく日も暮るに[及|および]けれバ[芝薪|しばたきぎ]・[藁|わら]等ニて四方を囲ひ、
山中に打伏けるに、其夜寒風甚しく[搔|かき]曇りける故、若大
雨降来らバいかゞして[凌|しのが]んと諸人皆案じ[煩|わずらい]けるが、次々
と空も晴、ことなく夜も明けれ共里に帰る者もなく、其
後或者(は)三日或者(は)五日も日をへて皆々里に帰りけれ共、又々
強く地震せバ津波の起る事もある[無|なき]か、と五軒三軒又[者|は]
七八軒[斗|ばかり]も一所になりて、小高き所に仮屋を造りて日を
送る。
……中略……
 この時大海の水減じて[干潟|ひがた]となる事数十間にして吾隣
村落居村の海ハ昔より出たる事なき岩根、数多出現し人々
此岩根にて海草類貝類[等|など]を取事也。隣郷相良・川崎辺は
我里よりも地震甚しくして破壊せざる家ハ僅に三四軒ツヽ
のみ也。[且亦|かつまた]、相良ハ同時に炎上し焼失する事、過半に
して死人三十人[斗|ばかり]。[怪我|けが]人廿二十人斗り。川崎にて死者廿余
人・怪我人十余人なり。相良川崎の間坂井村に長徳寺と
いふ曹洞宗の小寺あり。此寺の門前に温泉[湧出|わきいで]、諸人是
に浴するに諸病共に効験ありと。之ニ新庄村には津波打
寄せんとするを見て、家内を少々片付て[遁出|のがれいで]んとする時、
[納戸|なんど]にて魚一[疋|ぴき]拾ひ得て不思[義|ぎ]の思ひなしけるに、屋敷
の中ニハ数知らず魚集り居し家有しと也。……中略……
 予、此地震に[逢|あい]て後地震を恐る事甚し。[譬|たとえ]バ虎に逢し
者、虎の説話を聞て恐るゝ事[甚|はなはだ]しきが如し。故に後世人々
地震を忽せに思ハざらしめんが[為|ため]に、古来よりの地震及
び今般の地震の次第迄を[尋|たずね]求め、聞究めて[拙|つたな]き筆にて模
写し[畢|おわんぬ]。……中略……
 去年十一月四日の地震より当年二月上旬迄九十日斗、
……安政二乙卯[弥生|やよい]穀旦。
(注)この一文は相(三月)良の須々木村にいた香川芦角の「地
震年代記」を相当参照している。
又同一筆者にて、「安政二年大地震[口説|くどき]」と題する
講談式な一文がある。
前記の一文は郷土における嘉永地震の[梗概|こうがい]である。
 そこで更に詳細に朝生村の「地震潰家並川堤痛訴書上下
帳」をみると次のとおりである。
1 潰家並大痛。
居宅潰家 十五軒。 同半潰 四軒。 雪隠潰
家 十二軒。
納屋潰家 六軒。 同半潰 六軒。 座敷半
潰 六軒。 土蔵半潰 一軒。
2 村谷川道堤。
堤長弐百三拾間、川堤大割大[窪|くぼみ]、割口二尺余モ有之、
窪深さ四・五尺。
3 山崩。二か所、高さ五間長さ八間。二か所共間数
同断。
南(おなじ)ノ谷山崩。高さ長さ[凡|およそ]二百間余。谷新田凡壱反歩
程も埋り申候。
本谷山崩。高さ横巾共に五十間余。
4 堤。字上海戸、延三百間大割大痛。字うちかけ、延
百四間 大割大窪。
字高山、延百四拾間余、大窪。字下川原その他、六
百六十間、大割大窪。
川床押出す。
勝間田川、六百四十六間、大痛。
中痛。
朝生川。二百三十
間、大痛。
5 小痛の所は数不知、驚入間数相改不申候。
上記のことをまとめると次のようになる。
1 相良川崎辺地震甚しく破壊しなかった家は各村内に
三・四軒という。(地震年代記)
2 河崎町[壊|つぶれ]家多し。(大地震極極日記目録)
3 福田掉月庵・西町の東光寺・釣学院・勝間田西光寺
が倒壊する。(榛原町史稿)
4 大地は泥水をはき、大家小家一同[惣潰|そうつぶれ]となる。(大
地震之事)
安政を迎えて、この潰家がどのようにして再建され、川
堤・道などの大痛・中痛をどのようにして修覆したかを知
ることのできる材料はほとんど見当たらないが、再建の困
難さは言語に絶し、筆舌に尽し難いものがあったであろう。
(注1)安政の地震を現代風にいえば、郷土(榛原・吉
田・相良)においては震度七、震源は御前崎南方。
震害、天竜川から大井川流域まで東海道以南の地。
地震の規模マグニチュード八・四、津波の高さ五~
六メートルと伝える。
(注2)六大地震。永長(一〇九六)明応(一四九八)
慶長(一六〇五)宝永(一七〇七)安政(一八五四)
東南海(一九四四)
出典 新収日本地震史料 続補遺 別巻
ページ 580
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 静岡
市区町村 榛原【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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