[未校訂]本宿用水経過
慶長八年(一六〇三)に天野三郎兵衛景能によって新設
された本宿用水は、穴二八〇間平掘二〇〇間であったと高
田文書は伝えているが、隧道の地盤が箱根用水と異り河川
の運んだ堆積土であったから、穴を掘るのには容易であっ
たが崩れ易く、地震のある度毎に崩壊しては通水不能となっ
て修復や掘改めが行われて来た。今に残る高田家文書の中
から年代別にそれを並記して見ると次の様になる。
慶長 八年(一六〇三) 穴二八〇間平堀二〇〇間を新
設
寛文 二年(一六六二) 浚渫補修
延宝 二年(一六七四) 穴三〇〇間平堀二六七間に改
修した
宝永 四年(一七〇七) 富士山噴火による補修(十一
月二十三日)
安政 二年(一八五五) 穴三八三間平堀二〇〇間余地
震により掘り改める横溝文右
衛門(十一月四日)
大正十二年(一九二三) 関東大震災による補修(九月
一日)
昭和 五年(一九三〇) 北伊豆大地震による補修(十
一月二十六日)
以上の様な天変地変の歴史を経過して本宿用水は今も豊か
な水を流している。二百七十余年の歴史の流れとともに。
子僧池用水
位置と地勢
子僧池は甚だ特種な位置にあり地勢にある。地籍は長泉
町竹原字天神原ではあるが、天神原の村落の屋敷から数メー
トルも低い河岸断丘の中腹にある。従って旧竹原村ではこ
の水を灌漑に利用することは出来なかった。恐らくこの河
岸断丘は古代黄瀬川の流水によって浸蝕されて出来たもの
であろうと思われる。
池は清水町伏見部落と長泉町竹原の部落の境界にあり、
その湧水は竹原村と伏見村の境界を水路を通じて本宿村ま
でかつては通じていた。その水路は天神原部落の崖下の中
腹にあり伏見窪の地盤より一メートルないし二メートル位
の高さのところを東西に村境を西に向って流れている。
この用水で一番多くの水田を作っているのは伏見村の農
民であった。昔から本宿や竹原の人々の[入作|いりさく]はあったと思
うが地勢上から見ると伏見窪五町歩余りの水田を灌漑する
為に湧き出した様な池である。人工の堤を築かなければ湧
水は自然と地勢の低い伏見窪の久保川に流れ入ってしまう
湧水であった。
湧水の誕生
この池の湧水は安政元年寅十一月四日のこの地方の大地
震の際に忽然と吹き出したものであると言い伝っているが
種々の資料を綜合して見るに子僧池は地震以前にもいくら
か水が湧いていて若干の堀も存在した様に思われるのであ
る。従って子僧池の原形となる水をたたえた池も地震以前
からあったのではないかと思ってはいるが詳かでない。
わずかであるが湧水があり、それをたたえた池があり、
堀があって水が流れていたのが地震によって吹き上げて来
たというのが真実の姿の様である。
当時の模様を下石田村名主、伴右衛門の記録では左記の様
にしるしている。
(注、「史料」別巻五―一、七〇八頁上欄参照)
とある。地震の為に地下溶岩の岩盤に亀裂が生じ忽然と
して地下水が湧出したものである。当時の子僧池の様子は
よくわからないが湧水は四五尺も吹きあげて池にあふれ、
伏見沖田地域の崖下の低地に土砂と共に勢よく流れて久保
川にそそいでいたものであろう。
その四五尺も吹きあげて湧出していた水は後の続々と[震|ゆ]
れる小地震の為に四五日で吹き上げるのを留め、こんこん
と湧き出て流れる姿となったのではないかと伴右衛門の手
記から推察するのである。
幕末の頃、此の地方でうたわれた俚謡に「小林しや地震
でめり込んだ、おまけに沼津は丸焼だ」というのがあった。
大地震の被害を率直に物語るものであろう。
(注、以下、この湧水の用水化に関する記述は省略)