[未校訂](六月)
廿六日密雲。今暁八ツ貳分に土用に入 中国地震 昼八
ツ時木原君(行蔵)来語言、一昨夜飛脚到来、摂河并伊賀
伊勢尾張辺大地震、当月十四五六日三日に五十余度ゆる。
是は大坂よりの書状の趣也。家は倒れざれども皆々馬場に
げ出し居ると云々。未だ遠国の様子并京都の容もきかず云々。
(廿三日)
諸国地震○中国地震の模様追々諸々より申来る。三河尾
張伊賀伊勢近江山城大和河内摂津京都大坂、別ていせ四日
市町家余程潰候よし云々。
晦日晴朝折々雨大熱。 地震国々 江戸中条(中條瀬兵
衛。醬油問屋)より申来る(注)。いせ四日市伊賀上野奈良等別
て甚敷、其外十ケ国ほどの大変未聞の事也。尤甚敷所は人
家つぶれ火事出来、死人怪我人数不知と申事。尤津の本
家抔は家蔵無事、庭へ逃出しさしかけいたし住居候よし也。
十四日夜八ツ時より十五十六日迄の事と云々。
(注)中條瀬兵衛書簡添書 『色川三中来翰集』二十
三中書入「中條書状添がき」
上方地震の儀追々御承引可被下候、前代未聞の事に
御座候、いせ四日市いが上の奈良、右場所烈敷、過半
人家つぶれ火事等出来、死人数不数、其外十ケ国程
のさはぎに御座候、津主家様(中條家は伊勢津の商人
―編者注)は仕合と家蔵等別条無御座候、庭抔逃
出し、さしかけいたし住居いたし居候よしにて、けが
所は無御座候、御安心可被下候
中條瀬兵衛
徳兵衛
七月朔日戊戌晴折々雨来、土用明の空のごとし。皆人未
だ雨足ざるに過んことを恐る。八ツ時木原君(行蔵)来る、
勢州亀山侯同州こ(菰野)もの侯等の届書持参うつし置候。美濃大
垣辺尤地震強かりしと云々。或言、尾張津嶋天王祭礼中に
て尤大に騒動、此辺強かりしよし云々。
八日(中略)此十四日夜丑時に中国筋大地震十ケ国計な
り、江戸は少しゆる、此辺は更に動なし
地震 或伊勢四日市の宿、大地震にてゆりたふしたる上火
事にて焼失、柳沢甲斐守殿明石佐兵衛殿両侯御朱印人とも
に皆なしと云々。先日より世間の人語り合、虚実如何あら
ん。
十一日 御朱印失○上方大地震の節、勢州四日市は殊に
甚しく、柳沢甲斐守殿御朱印明石佐兵衛殿御朱印御書かへ
とて此節諸国より登る。此両侯の御朱印も此時此宿へ泊り
に成る。地震にて家つぶれ、火事にて人焼死し、残るもの
わづかに壱人のみとぞ。此説先日より諸人謳歌の処愈実説
と云々。当藩大坂登りのものあやうく此宿に不泊云々。
十一日曇陰四方におほふ。四ツ時小沼貞斎老来る。河田
(幸枝)翁四日より大病なるに付見舞に来る云々。 地震
のさま 語言、或飛脚言、伊勢四日市大地震旅客百八十余
人死去、宿のもの数しらず。両侯御朱印紛失云々。
(注、山崎知雄書簡、七月五日付)(前略)
一扨又此義を珍事と存候所、定て追々御聞も可被在候へ
ども、当六月十四日夜半大地震、五畿内五国伊賀伊勢尾
張三河近江美濃越前福井辺凡十三四ケ国大震、殊に伊賀
上野伊勢四日市辺殊に甚しく、且火災大雷等有之、伊
賀伊勢近江には死傷夥敷、京師南都大坂も余程の大震に
て、乍恐皇(平出)上も暫時陽明家へ御立退有之由、三月の内
に両度御動座被為在候御事治世には有之間敷御事、
誠に古今未曽有の珍事、先年の信州の震激より広太の事
に承り候、国語周幽王の時地震に伯陽甫の説等を思出し
候へば、数ならぬ身にも竊に恐怖の事どもに御座候、清
朝の風等も北京落城の事愈以実説の由に御座候、是以余
り可悦の事とも存じ不申候、何分此上皇国の泰平相願
候事に御座候
一江戸町家御用金の噂は定めて外より御聞の御事に奉存
候間別段不申候、先は度々の御文通の御返事旁数件申
上候、猶残暑御大切に御保護、当秋は久々にて御出府被
遊候様奉待候、乍末筆御賢息御令弟君へも宜御傳声
奉願候 恐々頓首
七月五日 山崎武陵
色川盟兄座下
伊勢御鳥居平安の事 或言、四日市桑名歟伊勢御鳥居あり、
石也。それのみ無事奇異殊に甚し。○伊賀の上の(野)地われて
泥四方にわき、人種尽たるがごとし云々。
(十四日)
福井地震○越前福井に大火ありて火を消んとひしめく内
六月十四日夜也、大地震也。人多く死す慥成書状来る処あ
り云々。 伊勢伊(射和)射辺○伊勢伊(衍)射和辺人はつぶれねど、六
月廿一日迄度々震しと、此日漸く仮宅より本家にうつる云々。
(伊勢射和は土浦の醬油醸造者大黒屋〔国分家〕の郷里)
地震にて田作不宜○美濃尾張辺地震にて苗の根を動し候
哉、作大方ならず不宜。