[未校訂](以書付御届申上候)
此度変災ニ付死失之者共為菩提来ル十四日於妻女山開善寺
施餓鬼法会相勤度旨ニ付、拙寺共法類之儀ニ付、前寺門未
中共一同修行并加持土砂施行仕度奉存候、此段 御聴置
被成下候様奉願上候、以上
弘化四未年五月
久保寺村
正覚院
境新田村
薬王寺
桑原村
長福寺
清野村
龍泉寺
雨野宮村
正法寺
森村
観龍寺
上徳間村
奥隆寺
羽尾村
明徳寺
右惣代兼若宮村
八幡寺
寺社御奉行所
(注、「新収」第五巻別巻六、三五一頁宝三―一と同文、省略)
(地震咄し)
弘化四未三月変事日記
(前略)
弥々三月十日より御回向初りはじまらぬ先より参詣悉く、
老若男女道せまく御堂も結(ママ)ると聞けるに既に其月廿四日
之癸卯開金曜□丹会家建さひらきよし夜五ツ時頃大地震、未申より震ひ来て既ニ當寺も御ふるゝ
ばかり地震とさらに思ハれす、如何なる魔障之業なる歟、
戸障子戸棚皿鉢や水桶迠もゆりこぼち山里一同鳴渡りあハ
て迷ふて外江出て見れハ地転ふはかりにて生魂もぬかれた
り、あたり隣を問ひ合立ても居れぬ程なれハ皆万歳楽と念
佛に声もかれぬる斗なり、人相供に信心の外ハあらしと御
當社江老若なへて扶(カ)参し見るに社殿もくる〳〵とめくる様
にと見へけるか無恙こそとふとけれ、石宮夜燈立石ハのこ
らすミんなふり落し狼籍不埒といふへきか、更に地動之止
されハ其夜ハ庭に立ツ居ツ 諸方の山陰見あくれハ申未
より丑寅ハ一圓炎の立のほり既ニ稲荷も出火して空をも焼
すはかり也、
尚火之元之気遣敷村役よりも觸しめし、家に居な与火を焼
な垣石古木之根に居な欲をはなれ与あハてるな明る朝之飯
とても畑之畔哉山の腰俄に爐をたて熱こしらい出来しとい
ふて味噌之菜汁たく事も気遣ハし不思議〳〵といゝ暮し其
夜も庭に莚敷廿五日の暗闇に今に居宅も潰やと見まもる空
ハ雨となり笠をかむりて居るもあり、桶箱かむりて立もあ
り、俄に小屋の騒して見て居る我家のこわくして少しの用
事も入かたく変事といふもあまりなり、何れの村も皆同し
家際をはなれて小屋住居山ハ岩角崩れ落平地も山も破筋通
しそこより抜出し村もあり、沼になりたる里もあり、実ニ
恐ろしと聞中に我両村と上徳間小家一ツも潰れぬハ実に産
神之御加護と无明よりして夜るも猶男女之参詣真心そ然る
に隣村須坂村其外村々より□ふし又半破数多き中にも八幡
ハ惣つふれ志(カ)川ハ少し稲荷山下より上まて裏町小店土蔵一
ツも残らすに潰れし上に出火して不残灰になりたりと死人
怪我人数しらす、旅人はかりも四百やら又五百やらいくら
やら寺々つふれて不焼ハ是ハ尊き事にこそ扨塩崎も半つふ
れ、寺々惣而皆つふれ、何れの村も寺宮哉(カ)、冨貴物も土瓦
家ハ多分になしと聞へける
廿六日之沙汰松代御城下町通筋木町より荒神町迠惣倒其外
町ハ半倒、御家中多分之倒とや御城内大手を初め御玄関御
居間通大朱椽御蔵矢蔵塀見附御堀哉、井戸小屋迠大半破れ
御前にも、桜之馬場江御立祓仮之御小屋ニ被為入諸家中大
小諸役人不残相詰諸訴皆此處にて被為聴用弁なること難有
稀なる変事故そわ〳〵同し便冝之事なるか須坂ハ少し飯山
ハ殊ニ地震之大きにて若殿様にハ御怪我あり御家中多分之
死亡とや、御城も深くゆりこみて其上出火之町々も大方な
しとの咄なり、扨亦不思儀之大変ハ善光寺には極まりぬ、
其夜町々寺坊迠不残つふれ何ケ所も出火致して、堂宮も宿
屋も不残今日三日焼てもいまた不消と聞に大火之其中に流
石ハ如来之御徳に御堂と三門無恙誠ニ尊く難有されとも此
度焼失し佛菩薩ハ幾千万宝物迚も数しらす、死亡之人も幾
千万坊中にてさい千之余と聞も哀や旅人等ハ迯出し者は堀
出され命拾ひし者共も親を焼捨夫婦子や孫を失ひか(かへる)ゐるあ
り、帯さいなくて縄や藁手拭さきて結ふあり、哀といふも
かきりなき丸之素肌乃女中等ハ手拭巻てかへるあり、一ツ
着物裏表二人して着る人もあり、草履わらじもはかすして
川辺之方江迯出し夜明て見れハ犀川も裾鼻川も干川して平
地之如く舟ハあれと無用ニなりて我は先人より先と蜘蛛の
子をちらせしことく方々に渡り得しこと不思議なり
一犀川干水となりしハ丹波島渡し場より四里程上ニ而山平
林村虚空蔵抜崩れ二ケ所所(ママ)ニ而留る此留切之厚サ八丁余
川巾ハ七拾間斗之所次之留十丁程下ニ而厚サ弐丁ばかり
一丹波島渡し三船之一瀬すゝはな川といふハ此渡し少し上
ニ而落込なるか此川茂管村栃木村上くもり岩之所抜崩し
留る
一大安寺村上ニ而落込渡尻川是ハ五十里村志垣村二ケ所ニ
而留る
一小市村舟渡し場真上山百弐十間程之内抜出川巾五十間之
處纔七間と相成、尤干川なり、此抜南之岸小松原村天照
寺山弐百間斗之処土底より抜出而此下川中に百五拾間余
之島出来る
(注、小市先工事のこと、類書あり省略)
廿八日吉原村光明寺法□寺坊より崩れ壁之下より這出し
来る近村潰寺ハ牧之島村福高寺正明寺牧田中村高禅寺穂
苅村安光寺新町村 上条村源真寺安養寺 水門村延命寺
三水村長勝寺塩崎村康楽寺寺中不残天用寺長谷村長谷寺
寺中不残稲荷山村長雲寺極楽寺此外寺半つふれ殊ニ犀川
留所水面より五丈余も高サ之あまへきよし、新町穂苅ハ
水之底大岡之方迠淀たれハ竹房下市なんとハ水内平彦神
別神社ハ森木之末たも見へす、穂苅村鎮守之杉之先小し
見ゆるとなん、同日煤鼻川上鬼無里道白心庵に居合より
崩壁下ゟ這出したる長右衛門来る菅茂村朽木村曇り岩
抜崩れ川留相成候由、善光寺後町辺モ下々咽水に差困り
たる由、下祖山村不残中村不残抜崩し人馬多く死亡す、
わらひ平四拾七軒人家共不残抜埋戸隠領下仁礼村弐十七
軒ハ家ありて人壱人もなしと其外村々大荒と相成由此者
元来越後畔鍬職人也諸道具埋まり其身ばかりたすかり居
合候人之怪我人死人数不知、尤其辺之申事にハ此度殿村
念佛寺村臥雲院江御入夫より椿峯通にて鬼無里村江御通
りに付道つくり之者共志垣村ニ有之昔より石之宝塔を立
てある處の鬼之塚てふものを破り骨なんと大きなる物な
り迚為見あるきたるゆいならん、必其□(祟カ)を請たるならん
といふ由、是ハ是持将軍退治ありける戸隠山之もミじの
塚也といふ、将運塚ともいふよし、臥雲院もよりつふれ
寺中は不残池と相成由、寺内七不思議も滅亡とはなりぬ、
同村正法寺椿峯高山寺惣つふれされとも観音堂と三重之
塔のみハ無恙とそ越道玉泉寺谷底江抜出し、万福寺も同
断、明照寺もつふれたりとの事なり
廿九日明六ツ前大震にて卍か嶺狐石川中江落る峠は峯より
川岸又ハ正城峯之方迄山谷大破に相成、岩山にてあらさ
れハたやすく崩出し大変もあらんか、此時一同に柏王山
苅屋原山石崩なく、村々一同に鯨波聲こそ聞ひけるか、
又々六ツ半時頃の大地震にて人々色気を失ひ家宅土蔵に
大小水付御社中宝蔵瓦を落し石宮夜燈を振崩し用水口中
堰迄つふるゝ、當院迚も大ばらし経蔵土蔵其外瓦之棟ハ
皆崩る、同日両村之者のこらす獅子か鼻ニ而垢離をとり
男女参社し、諏訪□伊勢両宮江代参相立、無難之程を祈
る、同日夕方水内村延命寺地獄より参り候者也とて色は
黒き顔付ニ而来る此者ハよりつふされしかまわり梁の下
ニ相成助命候といふ、此節通路の橋なけれハ右抜出候虚
空蔵山つたいして渡り来る由、巨細を聞に右之留所いま
だ水面より壱丈四五尺あるへき由是迠之割合日積りにて
ハ五日や七日にハ水の乗へきにあらす、譬抜出し候共切
口之付候共うハ水ばかりにて多分ハ沼とも相成へき由御
上ニても□よし、又久米路のはし場立岩崩水落二ツに
なりぬ、余程大きなれ共小き一ツは今日かくれぬ、雨ふ
りハ格別平天にてハ一昼夜に三尺位之増方と橋ハ其夜に
流れ来りて神出田村下岸にありしか、次第に浮候様子、
最はや中々此處通路之場所にハ相成ましとの事也、古哥
ニ埋れ木ハ中むしはむといふめれハ久米路の橋ハこゝろ
してゆけ、よミ人不知、是らの古歌もむなしき物にや若
又池にもなりなハこれまてありける川辺のむら〳〵ハ何
地之者にやなるへきと寺社迚も村なき所にハ難立なと相
悲めるもことわりしられぬ川辺ニあらさる氷熊村牧野島
村鎮守も二寺はや浮出るばかり、三水穂苅下市場水内な
との御鎮守ハ龍神にても御座候哉、疾ゟ水底に相成其村々
も郷中にうかみ、風吹なりにゆりあるき、其さま左なか
ら大船の浮める如く、前代見(未)聞の事にて候、然るを終に
ハ留種くさともなるへきを恐れ御上よりの御差指(ママ)なりとて人
足出して其家々毎に火を附まわり御用火事〳〵なんど勇
める馬鹿者共もありけるとなん、四月朔日殊ニ隠なりけ
れハ人々相伴に月の替りて最はや地動も止にやあるらし
と喜ひけるに又々八ツ時頃の大地震ニ而崩かゝりし岩角
や土堤井戸に至まて處〳〵可居宅も損せしと聞に難場の
小松原日々に人足相増て、筑立らるゝ土堤ハみな大石や
大木ニて内外囲ひの事なれハ未タ不済共容易之水には中々
破るゝ案事ハあるまじと少しハ内心休ミの折柄なるに、
既ニ九日八ツ半時山の鳴音すさましければ、雨ハ油断ハ
ならましと早拍子木を打立〳〵数多の人足引あけらるゝ
やいなや渡尻之留所切出しさなから沼山之ごとく黒けむ
りをたてをし来るゝは音いかばかり大姥山拔崩れ、地京
原村より梅木村等沼となりたる由、され共三時はかりに
して常水には相成ゆ(カ)れとも忽ちに丹誠之御普請外附之分
伐木大石大方押拂ひはねハ懸りの御役方にハ是式之小川
にてさい十四五日之留切とハ言なからかゝる大事をなし
たる事なれハ、此上今何日程過して出来る事かハしらね
ど、彼虚空蔵之留切こそ大変ならんと諸方人夫の催促あ
りて、日々の人数のはかりなき御入用御心労考察せさる
者なしと
一此犀川は国大(第)一之大河にして築(筑)摩郡飛驒国之境乗鞍山又
ハ木曽谷駒ケ嶽より出五郡に渡り兎もすれハ埴科郡迠も
差障る事あり、千曲川に落込末ハ越後国新泻にそ入ける、
全躰此国境郡之境共みな山々峯通川々を限りてありける
故落入川々も谷深けれハ、春ハ雪解之水長く、五月雨夕
立又ハ秋雨にも増水致して丹波島より善光寺への渡し舟
をり〳〵差支勝なりけれハ、遠国にてハ丹波川の渡しハ
如来之前之鬼川なりなと咄あいると也
(注、大地震の歴史と地震観を記した部分、類書あり、省略)
同十二日岡田村ゟ三水村に至んとて布施五明村幸右衛門島
蔵なん初メ俵味噌なん運ひけるにいかゝの事成と向ひけ
れハ一昨九日渡尻川之抜にてさい大事ハなしぬ然る今日
は上之大留りよりもり水候由、千丈乃堤も蟻穴よりの恐
ありなと云けるに子も又岡田ゟ有旅村江乃道脇なる南原
蓮光寺の仮小屋ニ而便当をなし十二村より彼虚空蔵山に
登りて見れハ平林郷十二村ゟ安庭村境迠壱里斗も突出し
たる端山ニして中岸ニ虚空蔵堂ありしを、其夜の地震ニ
而谷底ニ逆さま立見んけるか、古松弐本古杉壱本抜落は
かりになりてそありける、其木之本にいかたしてありけ
る事にや徘(ママ)諧之額壱面のこりてありけるか、その裏之方
に何者にやありけん、らく書を致してありけるハ
神国の君か御代ともはゝからす地震の業の狼藉ハ何(ママ)名
代にあらすちしんの荒事ハ延引ならぬいましめとしれ
いかなれはかくハあらしつ地震どの悪の変事ハ善と聞
とも子も又其木の本に休ひ居て其わたりの荒所をうつ
しぬ
右に図せるか如く此山元より其続村々子供の遊ひ處も同
様にて格別之大石大木もなき様子にて唯一圓ニのんめり
として両平共畑地にして其中辺に村家あり、裾通りハ田
地なる様子、然るを廿四日之夜の地震にて、南之方桜井
村孫背村岩倉村共抜出し多分土中ニ相成、岩倉村ハ不残
水内村花倉村江戻附候ゆへ、家四ツ五ツも見ゆる様子、
又花倉山抜出川二重ニ留るされども、安庭村ハ此山先な
れとも其所抜出されハ多分の事なき様子、虚空蔵より北
之方ハふる宿ふじ倉之両村安庭村分江懸り不残抜出埋ミ
是ニて安庭村相除け上下二ケ所にて留るされ共、當時舟
橋なけれハ此二ケ所共往来之如くかよへる事こそ恐ろし、
今にてハ大入江のことく相成日々に浮出す家々ハ不残火
をかけ煙のたちのほりけるか助命の者共はなれし野山や
他村江立秡き人の厄介にもなり居る者共、中にも我家の
形のありけるハ難所を忍ひ家財道具をほり出し運ひ負行
休ツゝ立煙のふとくのほるハ、我家のきのふハありてけ
ふなきの余所□らしき言事ハ聞に哀のかきりなく村々
見やれハ抜落ばかり見る間に地震のより来れハ石砂崩れ
て煙り立氷熊之方江道向ひハ元の道筋かたもなく、殊ニ
上尾の裏ぬけて大われ所を水増之通ひ難しと言けるにそ
元之様弐村迠もとりツゝ浅野より水(ママ)熊村江立より三水江
出けるに何れの村里大潰里より山ハ田畑も高低多き事な
れハ容易に田植もなるましく、殊ニ池毎破けれハ水ハさ
ら〳〵なかりけり、別して抜たる大場所ハなかく住居に
なりかだく又水中の村々も家敷なけれハ地所もなく誠に
隙なる身分じやと惘(ママ)れはてゝそ居るばかり、長勝寺つふ
れ仁王尊にハ無恙此西大川より見さくれハ留所よりして
橋場迠湖水のことく見へけるか又□□の時なるは舟持出
し水底をはかりて見しハ拾八丈四尺七寸又水面より留所
高さ見られしに、八尺四寸と聞ひける其夜は長勝寺之小
屋之女夫池と申所乃山に止宿なし、橋場より新町穂苅村
之方迠見ゆるニ両村鎮守之宮ハ水中に相成、丈のひたる
杉木之葉先いさゝか見ゆる、又川上野平村之者迚弐人来
り泊るニ、右村ハ安曇郡にして(貼紙アリ)松本御領なりけるか、新
町より五里是ゟ上壱里余水淀ミ住居相成かたく抜入留所
之様子により村方取片付へく様名主殿の御意なる由申ぬ、
然るに其辺地震ハたま〳〵あるなれとも土底より打かけ
らるゝ様更になしと、又ハ三水田之口村辺ハ更に其音な
し、下方なを更松代ハ稀に聞ゆとありけるに、いかなる
事ニや此辺ハ昼夜地震之弐十度、又三拾度もよりきたり
山鳴渡り土底より大筒にても打ことく又ハ大鞁に似しも
あり、又酒桶之音にかも燈火なんとも打消すばかり長き
日すから夜すからも帯綛(紐)解て寝もやらす、あきれて食事
もならされハ、空腹かちの事なるに土底よりしてはらつゝ
み打るゝ事ハ何事そ終ハこゝらも打われて、沼となりぬ
る事なるや、我のみ落入事なるや我身の罪をかそいつゝ
日々明日を待はかり
(貼紙)
「大岡宮平役人松本領会村迠淀ミしといふ」
既に今日十三日留所之峯に破付て无(ママ)明よりして鳴ひゝき、
廿日も留りし事なれハ何れの村も迯去て多くの人ハ居され
共火盗の用慎米穀哉食に乏しき極難の者ハなきかと日々日々
に他所江必出ましく御城下ほとり以迯され与狼耤不埓な事
すなと実に難有御事そ然るに其日ハ御公儀よりの御見分御
上ニ而之御心配御馳走役の案内の又伺ひの方々も一同抜所
江御立寄あるに鳴音次第に高けれハ、恐れ引取なひしか扨
ハ難場之御普請所相指図の鐘の鳴迠ハ引取ましとの事なれ
と川上はかり苦になりて仕事ハ更に手に附す八ツ時頃と覚
し而相図の鐘ハ其所かしこされハ切しと取物もみな取あい
す蜘蛛の子をちらすか如く山々江迯さり、遠く見て居ハ川
やら谷やらわけもなく唯黒山のことくにて水玉五丈もあか
りつゝ押来る事のいかはかり真上の抜岩は祢(ママ)となり難場江
突あては祢返し小市一村のこりなくずくに、家所迠流失し、
跡も住所に成難く渕と成てそしまいけり、扨又難場之御普
請ハ跡形なしに抽(ママ)拂ひ渕になりたり、陸になり四ツ屋今里
西河原其外村々一圓に千曲を越して大室や川田江押付其上
ハ横田小森之間に出水車数々其外の家倉潰家一をしに土口
村迠逆のほせ浮みあかると何事そ松井(ママ)之城もさし水のほり
外堀にてハ押かたく既ニ国守も御立抜あらんとはかりに引
けると又下方ハ大塚真島牛嶋こゑて、綿内福島幸高迠も家
に乗たり、立木にすかり筏にて其侭附たる人多く、又川北
ハ何所となく川辺ハ押るゝ其外の村々淀ミの里ハ棚かき居
たり、家の棟にのほりて凌く其中に□(貼紙アリ)村こそハ不便なり端
之家より出火して北風はげしき折なれハ家々ことに吹かす
る火事よと呼とも仕方なく家根にて焼死落て死し一時に水
火の地獄なり、いつそ地震に寄こまれより潰されし人々ハ
運者てありとうらやみて死たる人乃多きとや
(貼紙)
「飯山領四ツ屋村、池田大和ハ御料所赤沼村といふ
□なし 」
同十七日松代御役所其外様江御見舞ニ出承りけるに去九日
まて御領内のみ死人三千人怪我人九百人潰家五千半潰之分
弐千八百軒之由、其後之地震川抜等家宅潰流失死失等いま
だ御調ニ不相成由、扨しも赤坂山妻女山等江迯去居たりし
村々ハ留所も切たる事なれば、銘々村地に立帰り見るに少
しハ境とも覚し所の在もあり、又ハ石砂深く置又堀流し池
となり当りわからぬ村もあり、又ハ砂入はかりにて家居の
残る村もあり、住家共なき者共ハ先小屋掛の財(材)木や縄菜笘
に至る迠被下置て其上ニ御賄をも頂戴し日〳〵にかよいて
片付るやからもあれハ、其中ニ若きハ死して老ひ女子共斗
の者共ハ御助小屋にも差置小屋の用得も御人足日々に焼(ママ)出
し御飯米被下御小屋も三ケ所江(小松原村
川田村
八幡原
かゝりてあると
聞けるに、同廿日久保寺正覚院江罷けるに明徳寺薬王寺同
道なりけるに道すからの大荒ハ噂に増したる大変ニて、岡
田河原ハ土手もなくミな振崩し割崩し少し下りし所より田
野原村之耕連(ママ)寺大川通両脇之畑も山も小屋はかり何れの寺
やら庄屋やら或ハ乞食□□やら小屋の様にハ別もなく御助
小屋之前通り御救米頂戴の村役人之咄には家居之ある者十
八日切家居なき者ハいすれ共住所之付迠被下置其頂(ママ)の人々
ハ見るに土気の色になり湯水を遣ふた日とてなく着り(ママ)物と
ても沼(泥カ)まミれ髪ハ何日にいふたやら袋重箱飯□を持出て芝
野にかしこまり米とむすひを頂戴す、男女も衰ふてなみ
〳〵ならぬ風情なり、さて山方ハ法立はそれ〳〵村々一々
に皆御役人之入ゐひ離産ハするな急にも他所江出なとこと
〳〵く御たすけありとの沙汰聞ゆ、舟を渡りて小市村家居
は不残渕となり河原に見ゆる酒桶ハ皆川上よりの押出し其
外すり碓立臼や簟笥之損し戸障子疊煙草盆やら蒲團やら曲
ろく朱蓋の折砕大鞁の破れちこばしら何れの寺社之抜出し
そ窪寺村の大変ハ潰レ家数か百九拾破れし家数ハ百弐拾其
外少しの破れとか死人も五拾余人とや、心世話敷善光寺参
りて見れハ端までも焼て野原の如くなり、上人様ハ丸の焼
大勧進ハ半潰御堂山川経蔵は恙なけれと如来様切通し迠御
立秡仮の御小屋にあらせらるされとも御徳の御ひかりや参
詣道者の多けれハ俄に茶屋なと多く出来、餅菓子蕎(ママ)や酒ま
でも下直ニ売との御意ありて、非人乞食ニ至迠皆御助け喜
ひぬ、是より見下す島之内川ハ乱方さたまらす、一圓河原
の如くにてあきれはててそ言葉なし
同廿三日八ツ半時之寄にて郡村小坂村鼡宿金井之四ケ村に
て拾壱軒潰人六人死ス其外遠方ハ噂の事にて不定なれハ
不書 前事之咄三月十七日日輪五毛之輪有き、十八日大
ニ暑し前日ハ朝五ツ頃北西之方ニ一之字ことき虹見へた
り、其夕方より殊に寒く翌朝大霜子坊横田観音寺ニ泊り
早天観照寺へ出行に雪のことく菜種桑を水(ママ)らし続て日和
四月廿九日伊勢諏方江の代参下候ニ付御物殿ニ而承酒開同
日相談ニ而社内江鹿島之神之要石同して生石を埋同夜崇
りて燈明を献ス後来年ニ三月廿四日を祭日休日之定
五月五日之咄小松原村用水口三日共普請相始候由、御領内
家潰候者へ金弐分つゝ、半潰之者江ハ壱分宛、死候者江
ハ白米壱舛塔婆壱本つゝ被下置
八月六日晩明与大寄 二一度同七日昼ゟ大雨雷鳴、夜半大寄両度、
翌八日昼四ツ時所打あく
八月廿二日巳己成木曜十死夜四ツ頃大地震人皆庭ニ明す、九月十二日又十
月四日庚戌とつ金曜大明天恩違□四ツ前大より大鳴、同
十月廿二日之夜大地震、廿三日九ツ頃迠凡五十度餘、三月
以来大ゆり、廿四日今町専蔵院位ゟ承る昔高田之切危(カ)六十
七年前四月八日大地震ニ而山崩人死不数を知翌年二月二日
迠より候と也
十一月十五日大地震人皆迯出、十六夜ニ入少し静、同廿六
日之夜大より夜明迠十三度、十二月二日之夜大々地震、人
皆迯る、諸方石垣橋之崩多し 十五日夜
二月廿八日明六ツ二分時大地震瓦屋根大破損銘々迯出る
三月二日大一小二大鳴度不別
酉八月廿二日両度なりふるい