[未校訂]二、宝永大震災による塩田の潰滅とその復旧
上述してきたような経緯にしたがって開発された三塩田は、
宝永四年(一七〇七)十月の南海大地震にともなう大津波
に、潰滅的な破壊をうけ、開発後三十数年にして水没する
こととなった。
塩田の破壊状態 この際の破壊状態を、若干の史料を
現存している河内浜塩田の場合について見ると、次のよう
である。
一、塩浜合 拾五町壱反六畝弐拾七歩
塩高 七百五拾八石四斗五升
一、畑 壱町三反弐畝弐拾四歩
高拾壱石四斗八升五合
右ハ堤地床共切レ損シ不残嶋之様ニ成申候
一、吾宅拾壱軒 但シ家題(財)、諸道具等流失
一、蔵弐軒 同断
一、かまや拾八軒 同断
一、塩溜メ仕候外六拾九軒 同断
一、橋 長三間、横四尺
一、渡舟一艘
一、有塩表(俵)数 壱万九千九百五十俵
一、塩たれ水 四万千俵余積り
一、薪 代銀弐拾六貫六百五十匁
右之通流失申候
一、居宅二軒 但シ衣類諸道具諸々受流申候
一、同 五軒
一、蔵 三軒
一、加まや 三軒
右津浪にて不残流失致し申候
子正月
震災の翌年正月、藩に差し出したこの被害報告の文書を
見ても、如何に潰滅的な大惨害であったかが分かるであろ
う。
河内浜・有田屋浜塩田の復旧と京浜塩田の水没 震災
の翌年二月、塩田復旧工事の訴願が、河内浜百姓中より起
こされた。それは、破壊された波止堤(塩田の囲い堤)の
工事を藩が施工して下さるならば、塩田内の内普請、すな
わち塩田の復旧工事についての銀六拾弐貫六百九拾目余と
見積られる総工費は、地元河内浜百姓中の負担として完工
したいというものであった。
こうして、震災後いち早く宝永七年(一七一〇)河内浜
塩田が復旧された。次いで、享保初年(一七一七)頃まで
に有田屋浜塩田が復旧されたが、地盤が低く再開発条件の
悪かった京浜塩田は、放置され海面下に水没したまま、遂
に幕末まで復旧を見るに至らなかった。
河内浜の分村村立 既述したように、宝永元年の検地
帳で船尾浦の[字|あざ]として、船尾浦庄屋の支配下に帰属してい
た新田河内浜は、塩田の復旧工事の完工を機として、その
支配から脱し、独立した村立てを訴願した。この訴願が認
められ、宝永七年以降河内浜を村名とする村が発足するこ
ととなった。そして、当時最大の塩田地主清左衛門を庄屋
とし、塩田開発の指導者六兵衛の嗣子多兵衛と武左衛門を
[肝煎|きもいり]、久左衛門、七郎右衛門、吉右衛門を五人[組頭|くみがしら]とする
最初の村役人体制の下で、名寄帳が下付されている。