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項目 内容
ID J2500104
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/10/28
和暦 宝永四年十月四日
綱文 宝永四年十月四日(一七〇七・一〇・二八)〔東海以西至九州〕
書名 〔海南市史 第二巻 各説編〕○海南市舟尾村H2・11・30 海南市
本文
[未校訂](名高浦四囲廻見 乾)
舟尾浦の内、黒江よりの入口毛見村へ道筋ある道より北ハ
舟尾浦の人家にて、道より南ハむかしハ漁猟なとせし磯辺
にて在しか、中古、日方浦より儀左右衛門(又は郷左右衛
門ともいふ)と云人、公儀へ願ひ新田四町程築、其身も舟
尾浦の新田へ住宅せしか、身上次第に衰微し、主も死しは
て、剰へ宝永四年の大津浪に家もつふれて跡方もなくなり、
今ハ日方太郎右衛門地になりしと云
今は道より南にも余程家数も見え侍る、此義(ママ)左右衛門新田
の南に堀川あり、此堀川より南ハ河内浜と云新地塩浜也
(中略)
鎮護のため新地西南の角と東北の角とにハ弁才天の小社を
勧請せしと云(此内西南の角なる弁才天の所より箟嶋の地
方まてありし浜ハ、宝永四年の大地震・津波に崩たりと云)
舟尾浦・河内浜の南の土堤ハ、日方川の北の岸を西へ見通
し限りなり、同川の南の岸より名高すか川の北の岸まての
間、地方にハ日方にて尾崎重左右衛門(神田の大崎次左右
衛門弟にて、其時大庄屋を勤し也)と云人の新田ありて
(此新田只今ハ日方浦酒屋甚介の地となる)、此新田の西
へ又新地塩浜の出来たりしは京浜とそいひき、これは京よ
り[末吉|スエヨシ]八郎兵衛、摂州平野より末吉藤十郎、大坂より田辺
屋勝兵衛と云、右三人来りて築立たりし浜なりと云
其後、(一六八八)元禄元[戊|ツチノヘ]辰年、名高川の南の岸より藤白浦まてを和
歌山にて有田屋新九郎(又は上野山新九郎共云)塩浜に願
ひて築立たり、しかれとも、宝(一七〇七)永四年十月四日の大地震・
津浪にて京浜と同しく名高浦と鳥居浦との新田ハ崩れても
との海となりにけり、しかれとも有田屋新田塩浜藤代浦の
分ハのこりて今に存せり云云
日方浦名高浦の新地塩浜舟尾浦の事にハあらねと舟尾の河
内浜根元となりて出来たりし新地の事なる故に、爰にこれ
れを(ママ)しるすなり云云
(中略)
しかるに、彼法蔵寺大雨洪水の節、俄に山崩れ、寺ハ退転
に及ひけり、これによりて善道子、池の谷只今観音堂の有
ル近所へ草庵を結ひ遷居せられけるか、其後、善道にハ病
死せられ、[猶子|オイ]に大円と云禅僧ありて、其草庵に居られし
に、只今の大庄や日方の藤田与佐右衛門力をそへて堂を立
て、寺となし、先祖尾崎清太夫の今市の新田へ神田より引
移されし大竜庵、宝(一七〇七)永四年の津波に寺流失し退転に及ひし、
寺号を此観音堂へ引移し節、池谷大竜庵の観音堂と云にそ
なり侍りけり、彼観音を再興せられし内藤氏の居宅ハ、只
今の大竜庵の東南、若宮八幡の森の北にて、只今岡本玄南
と云医者の住宅となりし所にてそ有たりき
出典 新収日本地震史料 続補遺 別巻
ページ 71
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 和歌山
市区町村 海南【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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