[未校訂] 宝永四年十月四日、紀伊水道の南方に当る海底を震源と
して起こった地震は、史上最大と言われ(大森博士)て、
県下でもその被害が伝えられている。日高郡印南方面では、
民家が殆ど流失し、有田郡広村では、八十五パーセントの
家屋が流失し、水死する者三百余人となっている。当地方
では、袋にあった無量寺が流失した。有田村の様子につい
ては、有田浦中村家の文書の安政地震と津浪の事を記した
中に、宝永の地震との比較を書いてあって、宝永の津浪は
正覚寺の屋敷一ぱいまで上がり、屋敷上まで来らずとあり、
また、浪の高さは、安政の時と比べて、有田では五尺(一・
五メートル)、江田で八尺(二・五メートル)高かったと
いう意味のことを書いてある。(有田中学校研究物に拠る)
浪の高さは、正覚寺の石段のどこまで上がったかというよ
うなことで比べたのか、これは案外確かかも知れない。
津浪の寄せる状態は地形によって違うが、仮に、有田と
同じように、田並でも安政の時より五尺(一・五メートル)
高く上がったとすれば、円光寺の屋敷面から約二〇センチ
下がった処まで浪が来たことになる。そうすると、[下|した]地、
前地、向地は深く浪に浸され、その先は、天神、つろ地、
あるいは大家前の方までも達したであろうと想像される。
しかし、二キロも奥のおぶねの谷に船を押し流したとはど
うしても考えられない。
南海地方の大地震は、大体百年―百五十年の周期で起
こっているから、その中には、ずいぶん大きなものがあっ
たかも知れない。さらに、田並の海が今よりもずっと入り
込んでいた古い時代には、津浪がかなり奥まで押し寄せた
ことはじゅうぶん考えられる。
田並川の川岸には、川口から二キロもさかのぼった大川
谷の下り松の下まで、ところどころに、ホウノキ(ハマゴ
ウ)の群生が見られる。(今は河川改修で少なくなってい
るが)田並では、昔、津浪がここまで来たのだと言い伝え
ている。そのホウノキは、オーストラリヤからアジヤ太平
洋沿岸の海辺の砂地に、熱帯から温帯にわたって分布し、
シベリヤの沿海州のような寒冷地にも見られると言う。こ
れは海流が運んで拡がったものであろう。川岸の砂地にも
生えているが、津浪がこれを上流の方まで拡げたとすれば、
ホウノキの生えている処まで津浪が来たと考えられるだろ
う。しかし、これも、地形の変化する長い時間のあいだの
出来事であろう。
海辺の住民は、津浪に会ったなまなましい経験もあり、
その恐怖心や警戒心から、オーバーな伝説が作られる可能
性はあると思う。「オブネ」という地名は、あるいはもと
別の意味で付けられたものが、のちに津浪に付会されて、
「大船」となったものではなかろうか。「細谷」や「梶木
谷」の話などと考え合わすと、どうも、地名伝説の疑いが
濃厚なように思われる。