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項目 内容
ID J2500095
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/10/28
和暦 宝永四年十月四日
綱文 宝永四年十月四日(一七〇七・一〇・二八)〔東海以西至九州〕
書名 〔田並地名考〕○和歌山県串本町田並S57 亀岡英治著
本文
[未校訂] 宝永四年十月四日、紀伊水道の南方に当る海底を震源と
して起こった地震は、史上最大と言われ(大森博士)て、
県下でもその被害が伝えられている。日高郡印南方面では、
民家が殆ど流失し、有田郡広村では、八十五パーセントの
家屋が流失し、水死する者三百余人となっている。当地方
では、袋にあった無量寺が流失した。有田村の様子につい
ては、有田浦中村家の文書の安政地震と津浪の事を記した
中に、宝永の地震との比較を書いてあって、宝永の津浪は
正覚寺の屋敷一ぱいまで上がり、屋敷上まで来らずとあり、
また、浪の高さは、安政の時と比べて、有田では五尺(一・
五メートル)、江田で八尺(二・五メートル)高かったと
いう意味のことを書いてある。(有田中学校研究物に拠る)
浪の高さは、正覚寺の石段のどこまで上がったかというよ
うなことで比べたのか、これは案外確かかも知れない。
 津浪の寄せる状態は地形によって違うが、仮に、有田と
同じように、田並でも安政の時より五尺(一・五メートル)
高く上がったとすれば、円光寺の屋敷面から約二〇センチ
下がった処まで浪が来たことになる。そうすると、[下|した]地、
前地、向地は深く浪に浸され、その先は、天神、つろ地、
あるいは大家前の方までも達したであろうと想像される。
しかし、二キロも奥のおぶねの谷に船を押し流したとはど
うしても考えられない。
 南海地方の大地震は、大体百年―百五十年の周期で起
こっているから、その中には、ずいぶん大きなものがあっ
たかも知れない。さらに、田並の海が今よりもずっと入り
込んでいた古い時代には、津浪がかなり奥まで押し寄せた
ことはじゅうぶん考えられる。
 田並川の川岸には、川口から二キロもさかのぼった大川
谷の下り松の下まで、ところどころに、ホウノキ(ハマゴ
ウ)の群生が見られる。(今は河川改修で少なくなってい
るが)田並では、昔、津浪がここまで来たのだと言い伝え
ている。そのホウノキは、オーストラリヤからアジヤ太平
洋沿岸の海辺の砂地に、熱帯から温帯にわたって分布し、
シベリヤの沿海州のような寒冷地にも見られると言う。こ
れは海流が運んで拡がったものであろう。川岸の砂地にも
生えているが、津浪がこれを上流の方まで拡げたとすれば、
ホウノキの生えている処まで津浪が来たと考えられるだろ
う。しかし、これも、地形の変化する長い時間のあいだの
出来事であろう。
海辺の住民は、津浪に会ったなまなましい経験もあり、
その恐怖心や警戒心から、オーバーな伝説が作られる可能
性はあると思う。「オブネ」という地名は、あるいはもと
別の意味で付けられたものが、のちに津浪に付会されて、
「大船」となったものではなかろうか。「細谷」や「梶木
谷」の話などと考え合わすと、どうも、地名伝説の疑いが
濃厚なように思われる。
出典 新収日本地震史料 続補遺 別巻
ページ 63
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 和歌山
市区町村 串本【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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