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項目 内容
ID J2500086
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/10/28
和暦 宝永四年十月四日
綱文 宝永四年十月四日(一七〇七・一〇・二八)〔東海以西至九州〕
書名 〔紀伊長島町史〕S60・8・1紀伊長島町史編さん委員会
本文
[未校訂]被害状況 宝永の地震は地震の被害も広範囲であると同
時に、津波の被害もまた驚くほど広域であった。被害のう
ち最も特徴的なことは、長島浦・尾鷲浦・古和浦などにあ
る供養塔をみてもわかるように、流死人が多かったことで
ある。
長島浦仏光寺の「津波流死供養塔」には、正面に「津波
流死塔」、側面に「宝永四年十月四日未の上刻大地震直ニ
津浪入 在中不残流出 其上五百余人流死仕候 自今以後
大地震時者 覚悟可有事」と刻まれている。同寺の「宝永
四丁亥年十月四日未ノ刻流死過去簿」には法名・俗名・居
住地・続柄などが列記され、仏光寺檀家の流死人が記入さ
れている。
仏光寺檀家の流死人を表示すると次のようである(『三
重史学』、四九頁による)。
表11 長島浦流死過去簿(宝永4年)
町名
流死人数
推定町人数
横町
290
16
裏町
64
8
本町
31

23
1
新町
15
3
角ノ
14
西町
6
白島
2
口前ノ浜
1
大堀
1
往還町
1
松本
1
不明
24
尾鷺町
2

474
28
総計
502
上の表でもわかるように海岸に面した、人家の密集した
横町に死人が集中している。それにつらなる裏町・本町・
浜でも多かった。町名の不明な所も数カ所あるが、いずれ
も海岸に近く津波の直撃をうけた地域であろう。過去帳を
みると、一家全滅と思われるものが四〇軒ばかりみあたり、
口前所勤人島田七郎兵衛・手代久介・与右衛門らも流死し
ている。
出典 新収日本地震史料 続補遺 別巻
ページ 57
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 三重
市区町村 紀伊長島【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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