[未校訂]被害状況 宝永の地震は地震の被害も広範囲であると同
時に、津波の被害もまた驚くほど広域であった。被害のう
ち最も特徴的なことは、長島浦・尾鷲浦・古和浦などにあ
る供養塔をみてもわかるように、流死人が多かったことで
ある。
長島浦仏光寺の「津波流死供養塔」には、正面に「津波
流死塔」、側面に「宝永四年十月四日未の上刻大地震直ニ
津浪入 在中不残流出 其上五百余人流死仕候 自今以後
大地震時者 覚悟可有事」と刻まれている。同寺の「宝永
四丁亥年十月四日未ノ刻流死過去簿」には法名・俗名・居
住地・続柄などが列記され、仏光寺檀家の流死人が記入さ
れている。
仏光寺檀家の流死人を表示すると次のようである(『三
重史学』、四九頁による)。
表11 長島浦流死過去簿(宝永4年)
町名
流死人数
推定町人数
横町
290
16
裏町
64
8
本町
31
浜
23
1
新町
15
3
角ノ
14
西町
6
白島
2
口前ノ浜
1
大堀
1
往還町
1
松本
1
不明
24
尾鷺町
2
計
474
28
総計
502
上の表でもわかるように海岸に面した、人家の密集した
横町に死人が集中している。それにつらなる裏町・本町・
浜でも多かった。町名の不明な所も数カ所あるが、いずれ
も海岸に近く津波の直撃をうけた地域であろう。過去帳を
みると、一家全滅と思われるものが四〇軒ばかりみあたり、
口前所勤人島田七郎兵衛・手代久介・与右衛門らも流死し
ている。