[未校訂](前略)
内瀬地区の伝えでは、この高波は村島弁天の森よりも一
○丈も高かったが、社内には何の障りもなく無事だったの
で、この島は浮島(浮んでいる島)かといわれた。村中の
過半が波をうけ、仏壇へ魚類が入り込んだといいきかせて
きた(『穂原村誌』)。
明治七年一月、内瀬村が写したものに、大庄屋の文書か
ら抜書した記録というのがあり、次のものがこの津波で荒
らされたとある。
三反一畝六歩 伊勢路内瀬斎田入合新田斎田村
四反六畝二一歩 同伊勢路村
貳町五反六畝二七歩 内瀬村
壱町七反壱畝二六歩 三郷入会新田
四反六畝二一歩同上
これらは伊勢路川河口に開かれたものであった。
更に明治七年一月の度会県庁よりの伊勢路村への租税令
書中には、伊勢路・内瀬・斎田の入会新田四反六畝廿壱歩
には「宝永四亥年高浪ヨリ荒引」として貢米を記していな
い(共に『伊勢路文書』)。
明治二年の大指出(『五ケ所漁協文書』)によると、この
とき各村へ麦や稈(稗カ)の貸付があったが、取立て不能となって
後々に残ったようで、次のように記している。
五ケ所浦 麦五石二斗八合五勺、稈二石七斗三升
神津佐 稈二石四斗三升
下津浦 稈四斗
木谷村 麦壱石三斗三升四合 稈一斗
各の末尾には「是ハ宝永四亥年、高浪流失所へ御貸付、
取立難成、其段御達有之筋」とある。