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項目 内容
ID J2500085
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/10/28
和暦 宝永四年十月四日
綱文 宝永四年十月四日(一七〇七・一〇・二八)〔東海以西至九州〕
書名 〔南勢町誌〕南勢町誌編さん委員会S61・3・1 三重県度会郡南勢町
本文
[未校訂](前略)
内瀬地区の伝えでは、この高波は村島弁天の森よりも一
○丈も高かったが、社内には何の障りもなく無事だったの
で、この島は浮島(浮んでいる島)かといわれた。村中の
過半が波をうけ、仏壇へ魚類が入り込んだといいきかせて
きた(『穂原村誌』)。
明治七年一月、内瀬村が写したものに、大庄屋の文書か
ら抜書した記録というのがあり、次のものがこの津波で荒
らされたとある。
三反一畝六歩 伊勢路内瀬斎田入合新田斎田村
四反六畝二一歩 同伊勢路村
貳町五反六畝二七歩 内瀬村
壱町七反壱畝二六歩 三郷入会新田
四反六畝二一歩同上
これらは伊勢路川河口に開かれたものであった。
更に明治七年一月の度会県庁よりの伊勢路村への租税令
書中には、伊勢路・内瀬・斎田の入会新田四反六畝廿壱歩
には「宝永四亥年高浪ヨリ荒引」として貢米を記していな
い(共に『伊勢路文書』)。
明治二年の大指出(『五ケ所漁協文書』)によると、この
とき各村へ麦や稈(稗カ)の貸付があったが、取立て不能となって
後々に残ったようで、次のように記している。
五ケ所浦 麦五石二斗八合五勺、稈二石七斗三升
神津佐 稈二石四斗三升
下津浦 稈四斗
木谷村 麦壱石三斗三升四合 稈一斗
各の末尾には「是ハ宝永四亥年、高浪流失所へ御貸付、
取立難成、其段御達有之筋」とある。
出典 新収日本地震史料 続補遺 別巻
ページ 57
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 三重
市区町村 南勢【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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