[未校訂]大地震富士山焼之事覚書
寶永四丁亥年十月四日七ツ上刻之節地震動阿利衆人もかゝ
る大地震を不覚昔与り地震之節ハ竹林ニ居る時ハ大地割て
も障りなき抔とり〳〵の評儀珎事覚ゆ居屋等其外破損夥し
此前五六年跡之小田原地震与申候へ共当國軽事也是ハ夜半
之事ニ而候扨今日之大地震かならすゆりかへし有事昔与り
云傅ふ故在々所□(々カ)迄急に假小屋をかまへ人々不寝彼小屋に
夜を明し今や(かカ)〳〵と震返を待居処に夜も曙かたに成り別事
も有間敷かと本屋へ入茶抔煎し又用心いたし小屋ニ居り窺
ふ処ニ明六ツ少シ過に夥敷大地震昨日之三度位もいり扨々
立て歩む事あたハす内与り外へ這□ところひ匐ひするに轉
し出候事もかない難し其内に家ハ傾き軒端庇之屋祢石ハ落
かゝり絶へ神社佛閣震ひ傾け村家之居屋敷長屋倒れ潰れる
事数多也前代未聞之事ニ申あへり所々に池割穴等あき水出
道中又ハ在々の道筋山崩れ通路を失ひ家倒れ人馬死亡多し
内房村之内志らとり山くつれ落富士川与り東の村を埋め村
中之男女死亡其山の土石ニて富士川関止三日富士川の流一
水も流れす道中舩場渡し河原ニなる人々其故如何と案し三
日目にくつれ流れ出てすさまし事也其以後地震軽くハ候へ
共昼夜に五六度震動しけり然間諸人假小屋ニ猶々住居也
(注、以下宝永山噴火の記事省略)