[未校訂]神沢村の汐除堤は、往還三百三十三間を守護する目的か
ら築堤されたが、往還守りの汐除堤とうたわれるところに、
人命より往還の維持を希求した江戸時代の改革が、用字の
一つ一つに表現していて面白い。
この堤防は八木沢堤と同一規模で高七尺、馬踏二間、敷
五間と記され、「お尋書の返答」にはその歴史が記されて
いる。「元禄十二年卯十月」とあるが八月のことであろう。
外山代官の節、高波で屋台(土台)打つぶれ御入用を以て
修理し、その節米十一石八斗八升を百姓に下された。その
後能勢権兵衛代官の節宝永四年十月地震波荒れ致し候ニ付
とあり(この月は諸国に地震のあった月であった)、地震
による津波があったらしいことがわかる。
翌月、宝永山が爆発するのである。十月とあれば、宝永
山爆発の前月で、地震によるものであろう。地震により破
壊されたものの修理を宝永五年(一七〇八)に行なった。