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項目 内容
ID J2404370
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1853/03/11
和暦 嘉永六年二月二日
綱文 嘉永六年二月二日(一八五三・三・一一)〔小田原〕
書名 〔秦野市史 第三巻 近世史料2〕
本文
[未校訂]159 嘉永六年二月小田原大地震につき大竹村被害報告
当二月二日昼四ツ時より小田原大地震其外最寄村々何ケ
村共不相分村方之儀は、本家・物置・小家等相潰れ候
も有之、居宅建具障子等迄[震|ゆ]り[潰|つぶれ]、大破失相成申候。
二日夜より同六日夜迄折々相震り候ニ付、夫食等無仕
出し所、裏庭或は畑中ニて[凌|しのぎ]居、尤[怪我|けが]人等ハ無御
座候。昨年中違作ニて難渋仕居候処、殊ニ非常之大地
震ニ付、村方一同必至と当惑致し罷居候。委細之義は追々
可申上候。
(西大竹・高橋利介氏蔵)
*この時の地震は、震央が小田原西北方で、マグニ
チュード六・五、小田原の倒壊家屋三、三〇〇戸
といわれている。この七〇年後に関東大地震が起
こる。
160 嘉永六年二月小田原大地震救米などにつき関東取締
出役より達し
当月二日相州小田原宿[最寄|もより]村々ニ至迄大地震ニて、城内
始メ宿村おも家・土蔵其外[悉相潰|ことごとくつぶれ]、即死・怪我人等数多
有之、未ダ折々相[震|ゆ]れ候由ニ付、夫食等ニも差支、人
命[難計|はかりがたく]、殊ニ裏々畑中或は野田ニ罷出[凌|しのぎ]居り候由ニ付、
其組合村々之儀は、右宿最寄之儀ニ付、身元相応之もの
共は、米穀[施米|せまい]差[出|シ]候様、又は安直(値)段ニて払遣候共、差
出方手操(繰)いたし、且喰物商ひいたし候もの共は、何品ニ
不限是又早々持参、直安ニ売出、此度之危急相助遣候
様、大小惣代・村役人共実意ニ差はまり窮民救遣候様
可被取計候。右之趣早々組合村々え相達、たとひ組
合無之候共、非常之儀ニ付、小田原領分無難之村方え
同様通達いたし可被取計候。尚又奇特筋多分ニいた
し、一廉之救等致遣し候もの共は、名前等追て取調、我
等廻村先え可被申聞候。以上
丑二月五日 関東御出(取)締出役
太田源助
曽屋村
寄場并
大小惣代
役人中
(名古木 井上友一氏蔵)
出典 新収日本地震史料 続補遺
ページ 710
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 神奈川
市区町村 秦野【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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