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項目 内容
ID J2401917
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1766/03/08
和暦 明和三年一月二十八日
綱文 明和三年正月二十八日(一七六六・三・八)〔津軽・陸奥〕
書名 〔黒石市史 通史編Ⅰ古代中世近世〕S62・11・30黒石市
本文
[未校訂]来迎寺(京町字寺町一一)
 山号紫雲山 旧本寺誓願寺(弘前市新町)本尊阿弥陀
如来 開山良応
 寺伝では、山形村(黒石市)の山谷某が、誓願寺の弟
子となり、専称寺(いわき市)に学び、正保元年開山良
応として創立したとする。「蓮門精舎旧詞」では、弘前
の高橋氏から出た良蓋が、慶長三年に開山となって創立
したとする。この記録は、元禄九年に専称寺良住がその
末寺の由緒をまとめたもので津軽領二十九か寺のうち、
寺伝と異なるものが十四か寺あり、なぜこのように異説
が生じるようになったのか説明ができない。元禄年間
(一六八八―一七〇三)焼失、享保二年(一七一七)再
建。現存する鐘楼堂を兼ねた山門は、元禄の火災、明和
三年(一七六六)の大地震の累からのがれたものである。
享保六年に専称寺が遠すぎることから誓願寺末に替った
という。山号額は、赤穂浪士大高源吾の筆になるという。
源吾は、横町にあった柳屋の銘酒八重垣の看板も書いた
といわれるので、何か黒石と結びつける者がいたように
思える。
保福寺(乙徳兵衛町三九の一)
 山号黒梵山。本寺隣松寺。本尊釈迦如来。開山雲鶴。
 慶安元年(一六四八)隣松寺三世月寒雲鶴が、開山と
なって創立しているので、黒石領の成立以前から存在し
ていたことがわかる。本堂は、明和三年の大地震で倒壊、
信隣が修築。現在のものは、昭和九年に再建したもので
ある。正・五・九月の二十四日には[大般若会|だいはんにゃえ]、七月二十
四日には地蔵菩薩の宵宮があってにぎわう。
法眼寺(山形町八二)
 山号宝巌山。旧本寺不動寺(群馬県甘楽郡南牧村)。
本尊大日如来。開山南宗。
 延宝八年(一六八〇)温湯へ建立された法眼寺を、不
動寺潮音の弟子南宗が元禄四年、黒石へ移した。法眼寺
跡は薬師堂として監寺が置かれた。このため、法眼・薬
師両寺はともに延宝八年を創立とする。元禄五年に伽監
が建立されている。開基は黒石の加藤与兵衛と佐井村
(下北郡)の竹内与兵衛の先祖と考えられる。本尊の大
日如来は、加藤与兵衛が元禄十六年に没した二霊の供養
のために寄進しているが、真言宗の仏がなぜ禅宗寺院に
安置されたのかわからない。加藤与兵衛の個人的信仰に
由来するものであろうか。
 本堂は、寛保二年焼失、明和三年の大地震で崩壊、同
六年再建。鐘楼堂は延享三年の建立。梵鐘は享保八年に
武蔵国から運ぶ途中、海難で沈んだが、安永八年(一七
七九)に常陸国鹿島沖で発見され、五十六年ぶりに寺へ
納った。ところが明治二年の大火に乱打され、廃鐘となっ
た。現在のものは、昭和三十二年に法眼の位をもつ棟方
志功が図案を描いている。
 五代著高は、安永六年から武運長久・国家安全のため
の大般若祈禱を命じ、米三十石を寄進している。
 黒石陣屋は、二月二日、江戸にいる領主左近著高と宗
家弘前藩あてに、とり急ぎ、次の被害報告書を提出した
(『弘前藩庁日記』)。
一、家中潰家 三十三軒
一、町方潰家 焼失とも 四百六十軒
一、在方潰家 但し中郡十カ村 八十二軒
一、家中怪我人 四人
一、町方怪我死 焼死とも 百五十八人
一、在方怪我死 六人
一、死馬 但し町中 五疋
一、死馬 但し在々十カ村 二十二疋
一、大橋破損 二カ所
一、小橋破損 三十カ所
一、潰寺 五ケ寺
右のうち、円覚寺法用に罷出、町家において怪我

 右の通りに御座候。もっとも、山形村々ならび平内村々
別条御座無く候。以上。
潰れ五カ寺のうち、円覚寺の住職は法事のために出かけ
た町家で圧死した。潰寺以外にも、保福寺は炎上して住
職が焼死し、焼失寺となった。家中の怪我四人は女性で
ある。
このほか、いまの黒石市域で弘前領分だった猿賀組中川村で
は、潰家が七軒あった。これは、弘前藩庁が作成した『明和
三年、当正月廿八日暮六時過より地震ニ付弘前並在浦破損調
二月廿二日ニ差上候外破損之覚、三月二日に差上候扣』に記
載されている。
 しかし、地震は、一月二十八日の一回だけで終らなかっ
た。二月にはいっても、余震がつづいていたが、八日と
十二日、再び激震が襲来し、ために、二十八日大震によ
り半壊状態になっていた建造物は、ほとんど全壊してし
まい、津軽はまたも大被害をこうむった。
 弘前藩庁では、同年三月末までに、大震被害を順次と
りまとめ、数通の控書を作成しているが、このうち、
『当戌年正月大地震ニ付損亡之覚』・『当正月廿八日地震
後数度之地震ニ付破損所調之覚』などにみる黒石領分の
被害総まとめは、次のとおりである。
一、潰仮屋 土蔵とも 一カ所
一、潰寺 五カ寺
一、焼失寺 一カ寺
一、潰家 三百八十四軒
一、焼失家 三十一軒
一、潰死 百二人
うち、男五十四人・女四十八人
一、焼死 六十人
うち、男四十九人・女十一人
一、出家潰死 一人
一、出家焼死 一人
一、町方怪我人 十四人
うち、男十一人・女二人
一、在方怪我人 百六人
うち男七十六人・女三十人
一、馬潰斃 二十二疋
一、馬焼斃 五疋
一、修覆なりがたき家 百二十五軒
うち、町方百十軒・在方十五軒
一、取毀家 町方 三十軒
一、潰土蔵 四十九カ所
一、焼失土蔵 三十二カ所
一、橋破損 三十四カ所
一、用水堰欠崩 二十八カ所
一、溜池堤川除堤とも欠崩 十五カ所
一、用水樋破損 二カ所
一、米籾焼失町家所持分 三千六百五十四俵
一、米籾焼失町家質米近郷預米 五千五百八十二俵
一、米籾濡損 三千四百六十八俵
一、大豆焼失 町家所持分 二百三十俵
一、大豆濡損 五十九俵
一、小豆焼失 町家所持分 十俵
一、粟焼失 町家所持分 三十俵
一、麦焼失 町家所持分 八十俵
一、蕎麦焼失 町家所持分 三十俵
 黒石陣屋では、この大震災にさいして、家老[境形右|さかいけいえ]衛
[門邦教|もんくにのり]が指揮のもと、ただちに住民の救済に乗り出し、
さらに、町方の復興にも援助を与えるなどして、善政の
名を挙げた。
 大震の翌二十九日には、陣屋の米蔵を開いて、町家に
米一俵ずつを扶助した。一方、家士の給禄を停止し、一
人一日に米四合ずつを一律支給することにした。不満な
者は永の暇を願い出よと、きびしい態度で臨み、財源と
食糧確保に努めている。
 また、金子五千両と米千俵を江戸表から取り寄せるこ
ととし、五月中旬に到着するや、町民に広く融通した。
 家が倒れたり、焼けたりした者に、[大家|たいけ]は三百両~五
十両、中・小家にも四両~二両ずつ、家を失わない者に
は米だけを四俵・三俵と手当した。もっとも、ただで与
えたのではなく、金子は百両に二両、米には二分の利息
をつけ、明年から四年間に返済せよという「[貸付|かしつけ]」であっ
たが、再建資金や生活費に困った町民は、安堵してあり
がたがり、町の復興も急速に進展した。ために、家老の
境は、「あっぱれ、形右衛門こそ器量の者」と、領内外
に名を高めた(『津軽見聞記』・『封内事実苑』)。
出典 新収日本地震史料 続補遺
ページ 302
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 青森
市区町村 黒石【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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