[未校訂]後の地震記
星移て甲申、半昔も過ければ何角の思ひ草は忘草に立
帰り、かしこの談議爰の説法と、彼岸詣に打続、処々の
梅櫻も盛りなりければ見物引もきらず、盤若野惡土野の
長床芝付迄もむなしき日はなかりけり。年號も宝永と改
りぬ。卯月中旬頃かとょ、万年山へ涅槃会に造り花して
奉りし桐の枝に芽萠花咲ぬ。桐はつよき物とて下駄を植
れば下駄がなるなと化(アダ)言には云ぬれども、日数
五十日に及び干たる木にかく有も珍らしく、又彼寺へ三
光といふ鳥來て折節囀る事難有事なりと、参詣も絶ざり
し。其末の四日、空は碧羅を張、日は長閑に、仰げば遊
絲眼に遮り、西風少々つよかりしかど逐時和ぎ、暖に
成て袷着る物も多かり。鰯ありとて押合我先と浜へ行者
も有し。かゝる処に午の下刻、大地俄に震ひ出ぬ。予は
喪明て方々務、吉岡氏の許にて一つ二つ誥ひらきせし内
なりけるに、中々居怺ふべきにもあらず、表へ出けるが、
ゆり倒れて閾にて顔少々疵付ぬれど、家潰れざれば起上
り我家へ帰りぬ。皆家を出て居りぬ。慈母を始奉り下々
迄難なかりけるぞ責ての仕合と安堵せり。慈母は見給ひ、
何くにか此変にて危き事もあるやと今迄案じぬとて泣れ
けるこそ骨に徹難有、不幸の罪予ひとりならんと怖しか
りし。家は曲りぬれ共潰れず、火も見えざれば心安かり
しに、前度難なかりし寺院畑町富町博労町、亦清介町荒
町にも、火の手方々に見えければ、遁れがたしと彼是し
たゝめけるに、風やよかりけん、荒町下上町より後町迄
遁れけるぞ嬉しかりき。され共折々ゆりけるにぞ、裏に
あやしの小屋引むすび住ひぬ。漸家々の曲りも直り、閏
月末にぞ移り居ける。彼家を失ひし人々も亦上の御惠み
厚うして屋移り居けるぞ難有き。されば野代といふ文字
は野に代と読なれば、度々の大変も宜なりと、改を願上
けり。久敷湊にて諸國へも達しぬれど、挙つて願ふによ
り上の一字ばかりを改め能代と通達すべしと有し。又あ
ら町と改めたき願にまかせ給りしも上の御惠の深き、其
外あげてかぞへがたくいと尊ふとかりし。
宇蘇堂書
覚
一、御休所、両御在府屋沖口御番所潰不申候得共、内は
殊の外損じ申候。
一、御米藏貮つ、内一つ北方潰、同一つ南之方残、内は
損じ申候。
一、荒町新小路より西方御米藏迄両側共に。
一、長慶寺門前半分より西方上町、大町、下川端町迄両
側共に。
一、願勝寺より西方給人町、後町、稲荷町両側共。
一、新町、鍛冶町、柳町両側共。
右は潰半潰も有之候得共、出火無之残申候。
一、清助町北側小路、南側は常福院隣より西の方両側共
に。但町末少々潰候得共残申候。
一、畑町南方入口より珀龍寺門前迄両側。
一、富町堅横新御足軽町両側。但御足軽町末五六軒残。
一、長慶寺門前半分より東側博労町両側。
一、荒町新小路より東中町、御足軽町、上川端町、幸町
両側御材木場迄。
一、浄明寺より利生院迄。
右出火有之燒失。
一、家数千百九十三軒、内七百五十八軒燒失、同四百三
十五軒潰。
一、土藏百十六、内六十一燒失、同五十五潰。
一、寺院
清助町明行寺、畑町珀龍寺、幸町浄明寺、同西福寺、
同本澄寺、同山王社地利生院、上町続長慶寺
右は燒失申候。
幸町敬正寺、同一明院、稲荷町三明院、清助町常福院、
右は潰申候。
幸町徳善寺、御在府屋後西光寺、清助町光久寺、
右は潰不申候得共、内は少々損申候。
一、米四千七百五十五石 燒失。
一、大豆百八十五石五斗 同。
一、小豆貮百四十一石 同。
一、死人五十八人、内二十三人男、同三十五人女。
一、死馬 二疋。
一、御材木場御園の内木羽小屋、帆柱小屋燒失、御材木
も過半燒失申候。御番所も燒失申候。
一、山王社内御輿堂、舞殿燒失。但御輿は何者か出し候
やらん、長床に御座候て燒失不申候。
右之通去月二十四日地震出火跡相調申候。以上
宝永元年申閏四月 野代
とある。