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項目 内容
ID J2400378
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1662/06/16
和暦 寛文二年五月一日
綱文 寛文二年五月一日(一六六二・六・一六)〔若狭・美濃・畿内〕
書名 〔新修大津市史 3 近世前期〕S55・8・30大津市役所
本文
[未校訂](大津別院についての記事の中に)
 また、寛文二年(一六六二)に近畿一円を襲った大地
震で別院対面所が倒壊したときも、直参門徒惣代の丸屋
[浄仁|じょうにん]・関甚左衛門・[万屋|よろずや]茂左衛門の先導によって、直参
門徒と大津惣門徒の手で寛文十年に再建をしている「江
州志
賀郡大津御
坊記録」
膳所城の
規模
それでは、右にふれたような、政治的・軍
事的機能をもたされた膳所城とは、一体ど
のような規模をもっていたのであろうか。『[家忠|いえただ]日記』
によれば、膳所城は関ケ原の戦いの翌年、慶長六年六月、
いち早く諸国の大名の援助によって「[膳所崎|ぜぜがさき]」(大津市
丸の内町・本丸町付近)に築かれ、築城工事は八人の奉
行が監督するという、大がかりなものであったことがわ
図19 膳所城域の復元 寛文2年(1662)の修復以前の膳所城域を図示した。現在
の膳所城跡公園が,本丸と二の丸の二つの部分に分かれていたこと,また三の丸が
現在の膳所浄水場(本丸町)のところにあったことなどが知られる。なお侍屋敷の
南半分は,現在の膳所公園団地(同前)の一部にあたる。
かる『京都大学。
所蔵文書』
 さて、この膳所城の規模を知ることのできる早い時期
の史料として、正保年間(一六四四~四八)の「近江国
膳所城絵図」『内閣文庫所蔵文書』と寛文二年(一六六二)の「膳所
城絵図」がある(口絵参照)『滋賀県庁所蔵文書』前者の絵図は、城
郭構造のみでなく、のちに詳述するように、城下町の景
観も詳しく記され(第四章第一節参照)、江戸時代初期
の膳所城を知る貴重な史料といえる。この絵図によると、
本丸と二の丸が橋でつながれ湖水に突き出しており、堀
の水も琵琶湖の水が利用される水城であったことがわか
る。また、とくに注目すべきことは、のちに三の丸と称
される城郭部分に「新たに築き出す」、外堀の部分に
「以来堀ニ[仕|つかまつ]り[度|つたく]と申し上げ候所」といった記述がみら
れ、三の丸・外堀が、正保年間頃に新規に築かれたこと
がわかる点である。
 また、寛文二年(一六六二)の「膳所城絵図」は、同
年に近江国を襲った大地震によって城郭の所々が破損し
たため、立て替えの箇所を図示したもので、その絵図の
裏書から、城郭付属の施設などについて詳細に知ること
ができる。四層の天主(守)は本丸の中央部にではなく、
あたかも琵琶湖の南端から北方をにらむようにして本丸
の北端に建てられている。しかし、図一九にあるような
城郭構造は、この寛文二年の地震以後、大幅に変えられ
た。すなわち、従来の本丸と二の丸は合体されて本丸と
なり、以前の三の丸は二の丸となって湖岸から切り離さ
れ、その間が橋で結ばれたのである。改変された本丸の
規模は、東西が六六間半(一間は約一・八メートル)か
ら八〇間半、南北が四八間半から五五間の台型の敷地を
もち、二の丸は、東西四六間から五〇間、南北が七三間
と、ほぼ[矩型|くけい]になっている。
 また、付属施設としては、[矢倉|やぐら](櫓)一一カ所、二階
建の門八カ所、衛門一〇カ所、水門四カ所のほか、時刻
を告げる二階建の「時の太鼓」「時の鐘つき」が各一カ
所設けられていた。さらに、本丸と二の丸をつなぐ廊下
橋(側面を塀などで防御した橋)の長さは一〇間、本丸
などの城郭を取り囲む石垣の総延長は四一三間という壮
大なものであった。
 なお、元和~寛永期(一六一五~四四)の製作と推定
される「近江名所風俗図屛風」に描かれた膳所城の天主
は三層であり(写七三参照)、寛文二年の「膳所城絵図」
の天主は四層であることから、築城当時から寛文二年ま
での、いつの時期かに建てなおされたのかもしれないが、
この点については後考をまちたい。では次に、戸田一西
以降の歴代の膳所城主をみていくなかで、改めて膳所が
もった歴史的な意味を探ってみよう。
寛文大地震と葛川谷水害のように、年々農民を苦しめた災害で
はないが、地震もまた人々の生活を脅かし
た。ことに、[葛川|かつらがわ]谷の村々を恐怖の底に突き落としたの
が、寛文の大地震であった。寛文二年(一六六二)五月、
琵琶湖西岸・高島町を震源地としたマグニチュード七・
六と推定される大地震が発生し、現大津市域では、葛川
谷の[榎|えのぎ]村(葛川梅ノ木町)・[町居|まらい]村(葛川町居町)・坊村
(葛川坊村町)に惨たんたる被害をもたらしたのである。
 葛川[明王院|みょうおういん]の記録によれば、地震の被害情況は次のと
おりであった東京大学史料編纂所蔵。『明王院文書』十二すなわち五月一日、地
震によって山々がゆれ崩れ、土砂が大水で流出して坊村
の田畑がことごとく埋まった。そして、明王院内では、
明王堂・石舞台・大橋や寺の周囲の石垣が倒壊したとい
う。ことに被害のひどかったのは榎・町居の両村で、
「榎村東の大峯」が「十三町(一町は約一〇九メートル)
程上ヨリ二ツニ破レテ」、「榎・町居両村[悉|コトゴト]ク打埋」もれ
てしまったのである。しかも、この土砂が[安曇|あど]川をせき
止めたため、川水があふれて明王院の「屋敷」まで泥水
が達し、これによって「坊村の在家等、残ラズ浮キ流」
されてしまったのであった。
 十五日には、ようやく水が引きはじめたが、そのあと
もしばらくの間は「町居村ト寺(明王院)ノ下迄水コレ
有リ、大池ニ成ルナリ」という状態が続いたのであった。
このときの水害については、ほかの記録によれば、[朽木|くつき]
村から葛川村までが水没して、「二百間ニ千百八十間
(幅約三六〇メートル、長さ二二〇〇メートル)」もが
「海トナル」とある『高島郡。
考古録』
 このように、寛文大地震により、榎・町居・坊の三カ
村は土砂崩れと大水で家・田畑を失い、一時は亡村とも
いうべきうきめをみたのであった。その復旧についての
詳細は不明であるが、明王院では堂舎の修復を進め、例
年六月の[法会|ほうえ]を無事済ませたというから、六月には水も
しだいに引き、村方においても復旧が進められていたも
のと思われる。なお現在、葛川町居町にある観音寺は、
このとき生き残った町居村の百姓一〇人が、延宝六年
(一六七八)、死者の冥福を祈って建立したものと伝え
られている。
 写九〇 町居の観音寺(写真省略)寛文二年(一六六
二)の大地震で、葛川谷の町居村は山崩れの土砂のため
全村埋没した。現在、葛川町居町の集落の北はずれにあ
る曹洞宗観音寺は、延宝六年(一六七八)、生き残った
村人が地震の死者の一七回忌供養のため建立したものと
伝えられる。なお、壊滅した旧集落は現集落のやや北、
現在の観音寺付近にあったという。
出典 新収日本地震史料 続補遺
ページ 76
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 滋賀
市区町村 大津【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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