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項目 内容
ID J2400218
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1611/12/02
和暦 慶長十六年十月二十八日
綱文 慶長十六年十月二十八日(一六一一・一二・二)〔北海道南東岸・津軽・三陸〕
書名 〔陸中海岸の史蹟〕○宮古市S29・11・20佐々木勝三著
本文
[未校訂]【ホ】慶長の大津波
 (前略)その日の夕方になつて、山口に避難した常安
寺二世嶺鷟和尚は、山口の者と共に宮古へ帰って来たと
ころ、和尚の安否を尋ねる小本正吉外六七人に遇い無事
を喜び、共に救護の策を講じたのであった。常安寺は、
一時寺地に困り、黒田村長福院の境内の永貞坊の隣りに
小庵を結び寺務をとつた。津浪後黒田村には、家五・六
軒人口二十人だったという。(常安寺口上書)又藤原で
は山に登つて助かつた者の家が三十軒程あつたという。
この全滅した宮古村が、黒田村・藤原村・鍬ヶ崎村・磯
鷄村・千徳村・山口村を併せて今日の人口四万の宮古市
に発展する迄、三四〇年を経過している。
 この時伊達藩の溺死者五千人、南部・津軽藩の海岸で
は溺死の人馬三千と駿府記は書いている。
【へ】南部利直公の宮古再建
 津浪があつたのは、十月廿八日であつたから、宮古地
方は相当寒さに向つている時であり、食糧事情も悪く、
宿所等の無い時であつたので、利直公は、一冬越して翌
年四月晦日を期して海岸を視察の為、大槌を経て宮古に
来られた。その時の従者二百人と伝えられているが、僅
か澤田か小澤に五軒か六軒しか家が無く、二百人の人を
宿泊させることは容易でなかつたと考えられる。山口と
か千徳とか花輪方面に分宿させたとしても容易でなかつ
たと思う。
 殊に殿様の宿については、六ヶ敷しかつたのである。
そこで小本正吉は假の屋形を急造して、津軽石迄お迎え
に出て、こゝに案内して厚く歓待した。御假屋の規模に
ついては知る由もないが殿様始め御側役人二十人位は同
宿出来たと思う。従者五十人も百人も収容する假屋であ
つたかどうか。場所は今の下閉伊支廳のある所である。
 利直公は五月三日に澤田の上の山に登られて被害状況
を御覽になり、又高橋に櫓を作らせ五月五日にこれに昇
られて、宮古の町割を考察し、杖で上の山の下通りを指
され本町を決定したという。上の山に今でも殿様の上つ
た石があり、その後に享保九年に十左エ門が願主で、石
工亀治が字や猿を彫刻した庚申塔もあり、傍に傘松が立
つて記念となつている。この時の[街|まち]町の間尺の書付は、
花坂伝左衛門方にあると宮古由来記は書いている。
 利直公が元和元年五月五日に本町を割つて町屋敷を定
められた時分には、黒田蔵助(始め坂下蔵助、後南部家
から花坂内蔵助と姓名を賜つた。黒田に居たので黒田蔵
助とも呼ばれた。常安寺文書)の持地は、高拾五石八斗
七升壹合であつて、七石八斗七升壹合は、九郎右工門・
式部・先達兵衛・宝六郎の五人の持地であつたという。
寛永九年三月には、宮古の高は合計貳拾八石九斗壹升壹
合であつた。この時代官小本正吉は新町、横町・田町・
向町の四町の町屋敷を割つた。元和元年利直公が本町を
割り定めてから十八年目、津浪があつてから十九年後で
ある。
出典 新収日本地震史料 続補遺
ページ 45
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 岩手
市区町村 宮古【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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